今だから話そう...MacWorld Expo/Tokyo物語
2002年12月5日、Macworld Expoを主催プロモートしてきたIDG社は2003年度以降のMacworld Expo/Tokyoの開催を行わないと正式に認めExpo/Tokyoは消滅した。しかし10年に渡りマックユーザーの心を掴んだこの祭典開催前夜とその後を出展者側の立場から振り返ってみた。
最近関係者が集まるとその中で「またMacWorld Expoみたいのやりたいねぇ...」という声が上がる。まだ記憶に新しい「Macworld Expo/Tokyoとは私達にとって何だったのだろうか」をあらためて考えるきっかけとなればと思い、1991年に第一回を開催したExpo/Tokyoへの出展体験やその前夜の様子をご紹介したい。
米国では当時1月にはサンフランシスコで、そして7月にはボストンで毎年二回のMacWorld ExpoというMacintoshだけをターゲットにしたイベントが開催されていたことは多くの日本のユーザーも知っていた(現在はサンフランシスコのみ)。しかしそれは遠くアメリカでの出来事であり、一般ユーザーは羨ましいとは思いつつもわずかに入ってくるニュースを集めることしかできなかった。
私はといえばいくつかの出会いと機会があり、1988年1月から毎年米国のMacworld Expoに出向くようになっていた。
さて1990年の夏だったと記憶しているが、IDGジャパン社代表の玉井さんが私の会社を訪問された。聞けば日本でもMacWorld Expoを開催したいとのこと。玉井さんはこれまでのビジネスショーのようなものではなく、本場アメリカの...MacWorld Expoの香りがするイベントを企画したいと熱っぽく語られた。

※米国のMacworld ExpoにてT/Maker社のブース。向こうのExpoでは中小のブースは皆こんな感じだった
私の会社はその前年の1989年に設立したばかりだったがMac用のソフトウェア開発を行う会社であることは少しづつ知られるようになっていた。特に私自身は前記したように1988年の1月からサンフランシスコならびに当時はボストンで開催されていたMacWorld Expoに出向いていたこともあり、事情通の一人として意見を聞きたいとのことだったのである。
私は「会場で製品を販売できるようにすること」「基調講演にAppleのCEOを呼ぶこと」などという基本的な提案をすると共に「ネクタイ族を入れない」とか「コンパニオン禁止」といったへらず口をたたいたことを覚えている(笑)。
冗談はともかく、現在は知らないが当時はビジネスショーなどといった展示会では会場内での展示にかかわる販売は一切なされていなかったからだ。
そして1991年2月、理想どおりとはいかないまでも日本で初めてのMacworld Expoは開催されることになった。
この第一回目からMacWorld Expo/Tokyoの会場は幕張メッセに定着した。無論当時は現在と違い、これだけ大きなイベントを開催できる場所が他にはざらになかったこともあるが、以後幕張メッセで開催されるMacWorld Expo/Tokyoには多くの思い出が詰め込まれることになる。
そしてこの第一回のMacWorld Expo/Tokyoは初回ということもあり特別の思い出がある。勿論その中には楽しいことではない内容も多いのだが...。
なにしろ米国のExpoを知ってはいたものの、日本のExpoがはたしてどのようなものになるのかは説明会に参加してもなかなかイメージがわかなかった。
それまで私は自社のプライベートイベントなどでイベントそのもののノウハウは積み重ねつつあったが、MacWorld Expoのような大規模のイベントに出展するという経験はなかった。ともかくも分からないなりに軽いジョブのつもりで私は2小間の出展を決めた。
ひと小間とは間口ならびに奥行きが約3メートルを意味する。したがって私達は間口6メートル、奥行き3メートルの小さなスペースを確保したわけだ。
またブースデザインは金をかければいくらでも良いものができることは周知の通りだが、我々マイクロ企業にそうした予算があるわけはないし、それまでサンフランシスコやボストンで本場のMacWorld Expoを体験していた経験から判断して、豪華なものは不要と考えパッケージブースというお任せで極々基本的なブース仕様を申し込んだのである。
こうして勝手がわからないままにExpoは搬入の日を迎えた。
搬入日の幕張メッセは機材などの搬入のため、多くの企業の車が出入りし混雑していたが、なにしろ大変寒かった。2月のその時期にもかかわらず搬入日には会場に暖房が入らないからだ。コートの襟を立てながら待ち合わせの場所に急いでいたら早速会社のスタッフに声をかけられた。
彼女は「松田さん、ブースがまだ未完成のようなんですよ」「これでは機材をセッティングできないので、これから係りに聞いてきます」といいながら小走りに走り去った。
自社ブースエリアに到着してみると、なるほど2小間の壁面一面は白く紙貼りがなされているものの、あちらこちらに大きな皺も目立つしブースを支えているいわゆる大黒柱も3cm角程度の大変細い木材で支えられており、我々が予想していたような造りではなかった。誰かの肩でも触れたら全体が倒れ込むような感じがするほどそのブースの造作は頼りなかった。
驚いたのはその数分後にスタッフが戻ってきて「これで完成だというんですが...」という一言を聞いたときだった(笑)。
仕方なく、まるでバラックのようなそのブース壁面に持参した会社のロゴマークやら製品ポスターなどを並べて粗を隠し、それらしく見えるように努力をしてみたが、我ながら苦笑せざるを得ない陳腐なブースで2月13日、日本で最初のMacWorld Expo/Tokyo出展を経験することになった。

※Expo/Tokyo第一回(1991年2月)の当社バラックブース(笑)。それでも大混雑だった!
さて、当時のアップルジャパンの社長は武内重親氏だったが、日本で初めてのExpoということで米国Appleから当時のCEO、ジョン・スカリー会長が来日して初日オープニングのテープカットを行った。しかしその後スカリー会長は数人のアップルジャパン社員と共に足早に会場内を通過しただけで姿を消した。あれでは会場の様子やデベロッパーのあれこれなどは分からないだろうといぶかしく思ったものである。
当時は大した数の出展数ではなかったのだから、挨拶を含めて各ブースを回っても罰はあたらないだろうと私は正直思ったものだ。何しろ申し上げるまでもなくこの展示会はMacintoshの...Appleのお祭りなのだから...。
そして真偽の程は分からなかったものの、彼が向かった先がゴルフ場だと聞き、私は「スカリーはやる気がないな...ダメだな」とつぶやいた。

※第一回Expo/Tokyoオープニングのテープカットシーン。胸に赤い花を付けているのが当時のApple Computer社CEOのジョン・スカリー氏
しかし、会場は大変な人出だった。我々の小さなブースにも次から次へと来場者が訪れ、その度に細い大黒柱がおれるのではないかと思うほどブース内は混み合った(笑)。我々はこの日のためにExpo用グッズとしてオリジナルTシャツを作ったり、受付にキャンディやささやかな花束を置いたが、そうした配慮を多くのお客様は「洒落てるね」と誉めてくださった。しかしネタを明かせばこうしたことはすべて米国本場のExpoで得たノウハウであったがまだ日本の展示会ではそうしたやり方は浸透していなかったのか、新鮮に映ったらしい。後年のExpo/Tokyoでは皆さんが疲れた頃にブースでワインを振る舞ってこれまた好評を博したがこれも向こうのコピーである(笑)。
それからExpoらしさのひとつに、会場で製品を直接購入できることがあげられる。事実私共のブースでもTシャツなどのグッズだけでなく、ソフトウェアパッケージを販売していた。しかし残念なのは販売店各社に対する了解が得られなかったとかでMacintosh本体の販売ができないことだった。
ただ、おかしなことに「予約」ということならOKだった(笑)。
とあるショップでは予約券を渡し、そのまま会場に近くにあった自社ショップに出向けば製品を渡してくれたという。こうしたばかばかしい矛盾も目立ったが、第一回目のMacworld Expo/Tokyoは大成功のうちに終わり、即来年の開催がアナウンスされたのだった。
余談だが会場の幕張は近くはないものの、東京およびその近郊に住んでいる者にとっては通勤できない距離ではない。しかし私達スタッフの一部は札幌支店から出張していた関係もあり、スタッフ全員が付近のホテルに宿泊することにした。
よくも悪くもこの第一回からコーシングラフィックシステムズの全スタッフは搬入日からホテルに宿泊し、体力勝負のExpoに向けて美味いものでも食べて鋭気を養うという習慣となったのである。
第2回目のExpo/Tokyoはいろいろな意味で我々にとってその後の路線を決める重要なイベントとなったが、そうしたことは後になってから分かることであり、当時は一回目と同様、無我夢中で参加しただけのことだった。
ブースとしては第1回目のバラックブース(笑)の教訓を活かし、はじめてオリジナルなブースを業者にデザインしてもらうことになった。
最初が2小間だったこともあり、無理をして1小間増やして3小間としたが、この3小間というスペースは細長くするしか方法のないスペースであり、工夫のしようもなかったのが少々悔やまれる。
何しろ奥行きは3メートル、そして幅は9メートルなのだから...。しかし何とか向かって左側に小さなステージを設けてプレゼンテーション専用スペースを確保した。また我々にしては珍しく?ビジネス色を取り入れ、全体をホワイトとグレーというモノトーンカラーで統一したことも今となっては思い出深い。

※第二回目のExpo/Tokyo(1992年2月)の当社ブースは横が9メートルもあるオープンなデザインだった
1992年はその後の企業色を左右する製品たちをリリースし、かついくつかの新製品のプロトタイプがお披露目できたころだった。
この頃から既にデモをしたい製品の数が我々のスタッフの数を超えており、あれもこれもお見せしたいと欲を出すと大変なことになった。そうした理由もあり、その後の我々の展示会スタイルを決める「展示会に開発者自らが説明に立つ」というスタイルが確立されたが当時は大変珍しがられたものだった。しかし海外の展示会ではそうしたケースはよくあることだったし、なによりもそうしたやり方は奇をてらったものではなく、必要に迫られてのことだったのである。
さてこのExpoは我々にとって大変素晴らしい出会いをいくつか産んだ。
そのExpoのさなか、スタッフの一人が「あの...お客様がカタログ配りを手伝ってくださるとおっしゃるんですが...」と怪訝な顔で私のところに飛んできた。正直ちょっと迷ったが「お願いできるのならお手伝いしていただきましょう」と指示をした。
実はその人こそ現在も友人として、そして信頼できるビジネスパートナーとしてお付き合いをさせていただいている(株)栄光社の代表取締役:鵜沢善久氏であった。
彼は当時、当社の製品ユーザーでもあったが、たぶん我々の見るからに非力な感じを見るに見かねたのだろう...(笑)。
彼はにわかスタッフとして結局最終日の搬出に至るまでお手伝いをいただくことになり、それがきっかけで長い付き合いとなっただけでなく、彼自身3Dソフトなどを使ってデザインや広告業務を扱っていたこともあり、多くの3D作家やデザイナーと知り合う仲立ちをしていただいた。これだから世の中は面白いし捨てたものではない。
私たちにとってMacWorld Expoは単なるビジネスのための展示会ではなかった。事実...金のことだけを考えるならソロバンに合わない催事だった。しかし前記したように多くの友人や取引先がこのExpo/Tokyoから生まれたし他では得難い経験や体験をさせていただいた。本当に面白かったし楽しかった。

※最盛期のMacWorld Expo/Tokyoの会場内。活気があった!
後にAppleがApple Store GINZAをオープンしたとき、米国から来た責任者が「これからはここが毎日MacWorld Expoの代わりをする」という主旨のことを言ったとき私は血が逆流する思いをした。まったく...彼らは相変わらず何も分かっていないことを知った。
決して感傷的な物言いではないが、Expo/TokyoはApple Storeといった単なる店舗ではないのだ。確かに現在はこうした採算を第一に考えなければならない時代に大規模イベントは似合わないと思う。しかしである。お祭りだとはいえ多くの企業がどれだけ大変な思いをして、そして自社のビジネスのビジョンをこのExpo/Tokyoに託して成功のための努力をしてきたことか...。そうした事にあのAppleのエグゼクティブはまったく知ろうとする想像力も欠如している。
彼の発言はこれまで日本市場で努力をしてきた多くのベンダーと市場を盛り上げようとしてきたユーザーグループやユーザーを否定することだということに気がつかないのだ。
ともあれMacWorld Expo/TokyoはMacintoshユーザーの一年一回の最大の祭りであり同好の集まる場であり、かつ多くのベンダーとユーザーが交流できる特別な場となったのである。
■第1章■1990年Macworld Expo/Tokyo開催前夜秘話
最近関係者が集まるとその中で「またMacWorld Expoみたいのやりたいねぇ...」という声が上がる。まだ記憶に新しい「Macworld Expo/Tokyoとは私達にとって何だったのだろうか」をあらためて考えるきっかけとなればと思い、1991年に第一回を開催したExpo/Tokyoへの出展体験やその前夜の様子をご紹介したい。
米国では当時1月にはサンフランシスコで、そして7月にはボストンで毎年二回のMacWorld ExpoというMacintoshだけをターゲットにしたイベントが開催されていたことは多くの日本のユーザーも知っていた(現在はサンフランシスコのみ)。しかしそれは遠くアメリカでの出来事であり、一般ユーザーは羨ましいとは思いつつもわずかに入ってくるニュースを集めることしかできなかった。
私はといえばいくつかの出会いと機会があり、1988年1月から毎年米国のMacworld Expoに出向くようになっていた。
さて1990年の夏だったと記憶しているが、IDGジャパン社代表の玉井さんが私の会社を訪問された。聞けば日本でもMacWorld Expoを開催したいとのこと。玉井さんはこれまでのビジネスショーのようなものではなく、本場アメリカの...MacWorld Expoの香りがするイベントを企画したいと熱っぽく語られた。

※米国のMacworld ExpoにてT/Maker社のブース。向こうのExpoでは中小のブースは皆こんな感じだった
私の会社はその前年の1989年に設立したばかりだったがMac用のソフトウェア開発を行う会社であることは少しづつ知られるようになっていた。特に私自身は前記したように1988年の1月からサンフランシスコならびに当時はボストンで開催されていたMacWorld Expoに出向いていたこともあり、事情通の一人として意見を聞きたいとのことだったのである。
私は「会場で製品を販売できるようにすること」「基調講演にAppleのCEOを呼ぶこと」などという基本的な提案をすると共に「ネクタイ族を入れない」とか「コンパニオン禁止」といったへらず口をたたいたことを覚えている(笑)。
冗談はともかく、現在は知らないが当時はビジネスショーなどといった展示会では会場内での展示にかかわる販売は一切なされていなかったからだ。
そして1991年2月、理想どおりとはいかないまでも日本で初めてのMacworld Expoは開催されることになった。
■第2章■第1回Macworld Expo/Tokyo(1991/2/13〜15)
この第一回目からMacWorld Expo/Tokyoの会場は幕張メッセに定着した。無論当時は現在と違い、これだけ大きなイベントを開催できる場所が他にはざらになかったこともあるが、以後幕張メッセで開催されるMacWorld Expo/Tokyoには多くの思い出が詰め込まれることになる。
そしてこの第一回のMacWorld Expo/Tokyoは初回ということもあり特別の思い出がある。勿論その中には楽しいことではない内容も多いのだが...。
なにしろ米国のExpoを知ってはいたものの、日本のExpoがはたしてどのようなものになるのかは説明会に参加してもなかなかイメージがわかなかった。
それまで私は自社のプライベートイベントなどでイベントそのもののノウハウは積み重ねつつあったが、MacWorld Expoのような大規模のイベントに出展するという経験はなかった。ともかくも分からないなりに軽いジョブのつもりで私は2小間の出展を決めた。
ひと小間とは間口ならびに奥行きが約3メートルを意味する。したがって私達は間口6メートル、奥行き3メートルの小さなスペースを確保したわけだ。
またブースデザインは金をかければいくらでも良いものができることは周知の通りだが、我々マイクロ企業にそうした予算があるわけはないし、それまでサンフランシスコやボストンで本場のMacWorld Expoを体験していた経験から判断して、豪華なものは不要と考えパッケージブースというお任せで極々基本的なブース仕様を申し込んだのである。
こうして勝手がわからないままにExpoは搬入の日を迎えた。
搬入日の幕張メッセは機材などの搬入のため、多くの企業の車が出入りし混雑していたが、なにしろ大変寒かった。2月のその時期にもかかわらず搬入日には会場に暖房が入らないからだ。コートの襟を立てながら待ち合わせの場所に急いでいたら早速会社のスタッフに声をかけられた。
彼女は「松田さん、ブースがまだ未完成のようなんですよ」「これでは機材をセッティングできないので、これから係りに聞いてきます」といいながら小走りに走り去った。
自社ブースエリアに到着してみると、なるほど2小間の壁面一面は白く紙貼りがなされているものの、あちらこちらに大きな皺も目立つしブースを支えているいわゆる大黒柱も3cm角程度の大変細い木材で支えられており、我々が予想していたような造りではなかった。誰かの肩でも触れたら全体が倒れ込むような感じがするほどそのブースの造作は頼りなかった。
驚いたのはその数分後にスタッフが戻ってきて「これで完成だというんですが...」という一言を聞いたときだった(笑)。
仕方なく、まるでバラックのようなそのブース壁面に持参した会社のロゴマークやら製品ポスターなどを並べて粗を隠し、それらしく見えるように努力をしてみたが、我ながら苦笑せざるを得ない陳腐なブースで2月13日、日本で最初のMacWorld Expo/Tokyo出展を経験することになった。

※Expo/Tokyo第一回(1991年2月)の当社バラックブース(笑)。それでも大混雑だった!
さて、当時のアップルジャパンの社長は武内重親氏だったが、日本で初めてのExpoということで米国Appleから当時のCEO、ジョン・スカリー会長が来日して初日オープニングのテープカットを行った。しかしその後スカリー会長は数人のアップルジャパン社員と共に足早に会場内を通過しただけで姿を消した。あれでは会場の様子やデベロッパーのあれこれなどは分からないだろうといぶかしく思ったものである。
当時は大した数の出展数ではなかったのだから、挨拶を含めて各ブースを回っても罰はあたらないだろうと私は正直思ったものだ。何しろ申し上げるまでもなくこの展示会はMacintoshの...Appleのお祭りなのだから...。
そして真偽の程は分からなかったものの、彼が向かった先がゴルフ場だと聞き、私は「スカリーはやる気がないな...ダメだな」とつぶやいた。

※第一回Expo/Tokyoオープニングのテープカットシーン。胸に赤い花を付けているのが当時のApple Computer社CEOのジョン・スカリー氏
しかし、会場は大変な人出だった。我々の小さなブースにも次から次へと来場者が訪れ、その度に細い大黒柱がおれるのではないかと思うほどブース内は混み合った(笑)。我々はこの日のためにExpo用グッズとしてオリジナルTシャツを作ったり、受付にキャンディやささやかな花束を置いたが、そうした配慮を多くのお客様は「洒落てるね」と誉めてくださった。しかしネタを明かせばこうしたことはすべて米国本場のExpoで得たノウハウであったがまだ日本の展示会ではそうしたやり方は浸透していなかったのか、新鮮に映ったらしい。後年のExpo/Tokyoでは皆さんが疲れた頃にブースでワインを振る舞ってこれまた好評を博したがこれも向こうのコピーである(笑)。
それからExpoらしさのひとつに、会場で製品を直接購入できることがあげられる。事実私共のブースでもTシャツなどのグッズだけでなく、ソフトウェアパッケージを販売していた。しかし残念なのは販売店各社に対する了解が得られなかったとかでMacintosh本体の販売ができないことだった。
ただ、おかしなことに「予約」ということならOKだった(笑)。
とあるショップでは予約券を渡し、そのまま会場に近くにあった自社ショップに出向けば製品を渡してくれたという。こうしたばかばかしい矛盾も目立ったが、第一回目のMacworld Expo/Tokyoは大成功のうちに終わり、即来年の開催がアナウンスされたのだった。
余談だが会場の幕張は近くはないものの、東京およびその近郊に住んでいる者にとっては通勤できない距離ではない。しかし私達スタッフの一部は札幌支店から出張していた関係もあり、スタッフ全員が付近のホテルに宿泊することにした。
よくも悪くもこの第一回からコーシングラフィックシステムズの全スタッフは搬入日からホテルに宿泊し、体力勝負のExpoに向けて美味いものでも食べて鋭気を養うという習慣となったのである。
■第3章■第2回MacWorld Expo/Tokyo開催(1992/2)
第2回目のExpo/Tokyoはいろいろな意味で我々にとってその後の路線を決める重要なイベントとなったが、そうしたことは後になってから分かることであり、当時は一回目と同様、無我夢中で参加しただけのことだった。
ブースとしては第1回目のバラックブース(笑)の教訓を活かし、はじめてオリジナルなブースを業者にデザインしてもらうことになった。
最初が2小間だったこともあり、無理をして1小間増やして3小間としたが、この3小間というスペースは細長くするしか方法のないスペースであり、工夫のしようもなかったのが少々悔やまれる。
何しろ奥行きは3メートル、そして幅は9メートルなのだから...。しかし何とか向かって左側に小さなステージを設けてプレゼンテーション専用スペースを確保した。また我々にしては珍しく?ビジネス色を取り入れ、全体をホワイトとグレーというモノトーンカラーで統一したことも今となっては思い出深い。

※第二回目のExpo/Tokyo(1992年2月)の当社ブースは横が9メートルもあるオープンなデザインだった
1992年はその後の企業色を左右する製品たちをリリースし、かついくつかの新製品のプロトタイプがお披露目できたころだった。
この頃から既にデモをしたい製品の数が我々のスタッフの数を超えており、あれもこれもお見せしたいと欲を出すと大変なことになった。そうした理由もあり、その後の我々の展示会スタイルを決める「展示会に開発者自らが説明に立つ」というスタイルが確立されたが当時は大変珍しがられたものだった。しかし海外の展示会ではそうしたケースはよくあることだったし、なによりもそうしたやり方は奇をてらったものではなく、必要に迫られてのことだったのである。
さてこのExpoは我々にとって大変素晴らしい出会いをいくつか産んだ。
そのExpoのさなか、スタッフの一人が「あの...お客様がカタログ配りを手伝ってくださるとおっしゃるんですが...」と怪訝な顔で私のところに飛んできた。正直ちょっと迷ったが「お願いできるのならお手伝いしていただきましょう」と指示をした。
実はその人こそ現在も友人として、そして信頼できるビジネスパートナーとしてお付き合いをさせていただいている(株)栄光社の代表取締役:鵜沢善久氏であった。
彼は当時、当社の製品ユーザーでもあったが、たぶん我々の見るからに非力な感じを見るに見かねたのだろう...(笑)。
彼はにわかスタッフとして結局最終日の搬出に至るまでお手伝いをいただくことになり、それがきっかけで長い付き合いとなっただけでなく、彼自身3Dソフトなどを使ってデザインや広告業務を扱っていたこともあり、多くの3D作家やデザイナーと知り合う仲立ちをしていただいた。これだから世の中は面白いし捨てたものではない。
私たちにとってMacWorld Expoは単なるビジネスのための展示会ではなかった。事実...金のことだけを考えるならソロバンに合わない催事だった。しかし前記したように多くの友人や取引先がこのExpo/Tokyoから生まれたし他では得難い経験や体験をさせていただいた。本当に面白かったし楽しかった。

※最盛期のMacWorld Expo/Tokyoの会場内。活気があった!
後にAppleがApple Store GINZAをオープンしたとき、米国から来た責任者が「これからはここが毎日MacWorld Expoの代わりをする」という主旨のことを言ったとき私は血が逆流する思いをした。まったく...彼らは相変わらず何も分かっていないことを知った。
決して感傷的な物言いではないが、Expo/TokyoはApple Storeといった単なる店舗ではないのだ。確かに現在はこうした採算を第一に考えなければならない時代に大規模イベントは似合わないと思う。しかしである。お祭りだとはいえ多くの企業がどれだけ大変な思いをして、そして自社のビジネスのビジョンをこのExpo/Tokyoに託して成功のための努力をしてきたことか...。そうした事にあのAppleのエグゼクティブはまったく知ろうとする想像力も欠如している。
彼の発言はこれまで日本市場で努力をしてきた多くのベンダーと市場を盛り上げようとしてきたユーザーグループやユーザーを否定することだということに気がつかないのだ。
ともあれMacWorld Expo/TokyoはMacintoshユーザーの一年一回の最大の祭りであり同好の集まる場であり、かつ多くのベンダーとユーザーが交流できる特別な場となったのである。
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