悲しくも辛いスプレッドシート物語
先日、久しぶりにExcelを立ち上げて少々本格的に取り組むことになったが使い方を忘れかけており、女房に教わりながらのオペレーションとなった。そのスプレッドシートといえば私には大変辛い思い出がある...。
世界を変えたビジネスソフトウェアの第1号はスプレッドシート、すなわち表計算ソフトの「VisiCalc(ビジカルク)」だ。事実Apple II上で動くビジカルクを使いたいがために、Apple IIは大きな市場を得たことはよく知られている。
ビジカルクという史上初の表計算ソフトは1979年、当時ハーバード・ビジネス・スクールの学生だったダニエル・ブルックリンにより開発された。いま思えば、コロンブスの卵だが、このビジカルクは大発明といえる。
当時、会社において残業の多くは縦横計算の検算と確認であったが、これに多大な時間と労力をつぎ込んでいた。ましてや「もし、ここの売上高が○○なら、純利益はどう変わるか...」といった事を明確にするのに、これまた多くの時間を必要とした。
ビジカルクはApple II用として開発されたことでもあり、それまでパソコンをオモチャ呼ばわりしていた人たちも、こぞってApple IIを購入することになり、ビジカルクはビジネスに不可欠の存在となった。まさしくビジカルクは最初のキラーアプリケーションであった。
その後、ご承知のように様々な同種の製品が現れる。
1983年にロータス1-2-3が発売。これは、ビジカルクより大きな表が扱え、表をグラフ化することができた。そしてマイクロソフトによるマルチプランを経て1987年に日本語エクセルも登場。このエクセルはMacintosh版が最初だった。

※1987年にキヤノン販売からリリースされたMacintosh用の日本語版エクセル
Apple IIはついに日本語化を実現できなかったこともあり、ビジカルクを目の前にしても私は正直使ってみたいとは思わなかった。今でも何故なんだろうと思うが、当時は理屈が理解できなかったのかも知れない...。
私がビジカルクより安価で同等な機能を持っているというマジカルク(MAGICALC)と、Apple II用のテンキーを購入したのは1983年になってからだった。初物買いする私としてはかなり出遅れた感がある(笑)。
使ってみて「これは凄い!」と気がついたが、そのたった2ヶ月後に手に入れたNEC PC-100では日本語マルチプランが走った。それはある種時代の変わり目だったのかも知れない。
そして、表計算ソフトを使う頻度が高くなるにしたがって、悲しい足音が少しづつ近づいてきた。
さて、正直に言えば私は政治とか選挙などというものに興味はなかった。しかし皮肉なことに高校時代からの大の親友が衆議院議員の秘書になってしまった。だから決して立候補者のためではないが、何かの形で親友の役に立ちたかった。
彼とは同じ選挙区に住んでいることもあり、どのような経緯があったのかは忘れたが、深夜に自宅を頻繁に訪ねてくるようになった。
選挙の苦労話といった生臭い話をすることもあったが、ほとんどはコンピュータの話とか、彼の趣味だった写真の話だった。そんな話をしながら、私が煎れるエスプレッソコーヒーを美味そうに飲んで、彼はまた夜の街に出ていった。たぶん、その後も後援者の票固めのために歩き回っていたに違いない。
ある日のこと、いつものように深夜になって私の自宅を訪れた彼は、ちょうど私がApple IIで使っていたマジカルクを眺め、「これ、選挙分析に使えないかな」と言い出した。勿論Apple IIは漢字が表記できるものではなかったが、分析それだけを目的とするなら、十分に役立つだろうと考え、それからはマジカルクを使い、彼がいうところの票集めのシミュレーションや実績のチャートの試行錯誤が始まった。
この一連の作業は私が表計算ソフトを実践として使った最初となったが、その後彼と一緒にシミュレートするパソコンは、IBM 5550やPC-9801に移行し、最後にはMacintoshを使うまでになった。


※Apple IIとMAGICALCを使い選挙の得票結果を表示した当時のモニター画面(上)とApple II用のテンキー(下)
そんな折り、しばらく顔を見せなかった彼が入院したことを知った。彼は腸閉塞の宣告を受け、何回かの入退院を繰り返したが、一切弱音をはくことはなく常に冷静で快活だった。しかし実は彼の本当の病名は癌だったことをその時、私は知る由もなかった...。
頭の良い彼はたぶん、自分が癌であることをすでに知っていたのではないかと思うが、後で聞いたところによれば、数カ月の命と宣告されていたはずが、仕事への使命感からか、入退院を繰り返しながら2年以上生き続けたのだった。
最後の入院をしたとき、病院が近かったこともあり、土曜日になると見舞いに行った。最初のころの彼は顔色もよく、元気そうで「表計算が使えてワープロが打てる小さくて軽いマシンはあるかなあ?」などと気力もあったので、自宅に転がっていたPC-98LTという当時のノート型パソコンなどを病院の個室に届けたりしていた。
病室で彼は、「政治家という商売もアピール...プレゼンが重要で、何よりもデータの蓄積と分析が大切なんだ」と相変わらず熱っぽく話をしていた。
とある12月の土曜日、いつものように病室を訪れると、彼は寝たまま「俺はもうだめだ...」と初めて弱音をはいた。確かに衰弱が激しく、その表情もかつての快活な面影は消えていた。
その頃、すでに癌であることを奥様から聞かされていた私は、非力なことに慰める言葉も出てこなかった。無言で彼の背中に手を置き、病室を出るしか私にできることはなかった。
年も明け正月の静けさを味わっていた1月2日、自宅の電話が鳴り、受話器の向こうに奥様の申し訳なさそうな小さな声を聞いた瞬間...私はすべてを察知した。
友人代表として葬儀に出た後、以前病室に持っていったPC-98LTが奥様から返されてきた。もしや、と思い電源を入れると、そこには同僚か部下に指示をするためだったのだろうか、書きかけの表計算の一部と意図や意味は分からないものの、彼の最後の文章が数行残っていた。
私にはそれが彼の遺言であるように思え、横に女房のいることも忘れ、液晶モニタを見つめながら泣きに泣いた。
だから...私はそれから表計算ソフトが嫌いになった。なぜなら、マルチプランであろうがエクセルであろうが、モニターいっぱいにセルが表示される向こうに、かならず彼の姿が浮かんで辛かったからである。しかしすでに十数年の歳月が流れたいま、表計算ソフトは彼を思い出す「縁(よすが)」であることに気がついた。

※親友の大倉信昭君(右)と軽井沢で (1980年代前半)
あなたは感傷的過ぎると笑うだろうが、私が表計算ソフトを使うとき、その傍らには兄弟と間違えられたこともあるほど雰囲気が似ていたという"彼"が一緒にいてくれるように思えるようになったのである。
世界を変えたビジネスソフトウェアの第1号はスプレッドシート、すなわち表計算ソフトの「VisiCalc(ビジカルク)」だ。事実Apple II上で動くビジカルクを使いたいがために、Apple IIは大きな市場を得たことはよく知られている。
ビジカルクという史上初の表計算ソフトは1979年、当時ハーバード・ビジネス・スクールの学生だったダニエル・ブルックリンにより開発された。いま思えば、コロンブスの卵だが、このビジカルクは大発明といえる。
当時、会社において残業の多くは縦横計算の検算と確認であったが、これに多大な時間と労力をつぎ込んでいた。ましてや「もし、ここの売上高が○○なら、純利益はどう変わるか...」といった事を明確にするのに、これまた多くの時間を必要とした。
ビジカルクはApple II用として開発されたことでもあり、それまでパソコンをオモチャ呼ばわりしていた人たちも、こぞってApple IIを購入することになり、ビジカルクはビジネスに不可欠の存在となった。まさしくビジカルクは最初のキラーアプリケーションであった。
その後、ご承知のように様々な同種の製品が現れる。
1983年にロータス1-2-3が発売。これは、ビジカルクより大きな表が扱え、表をグラフ化することができた。そしてマイクロソフトによるマルチプランを経て1987年に日本語エクセルも登場。このエクセルはMacintosh版が最初だった。

※1987年にキヤノン販売からリリースされたMacintosh用の日本語版エクセル
Apple IIはついに日本語化を実現できなかったこともあり、ビジカルクを目の前にしても私は正直使ってみたいとは思わなかった。今でも何故なんだろうと思うが、当時は理屈が理解できなかったのかも知れない...。
私がビジカルクより安価で同等な機能を持っているというマジカルク(MAGICALC)と、Apple II用のテンキーを購入したのは1983年になってからだった。初物買いする私としてはかなり出遅れた感がある(笑)。
使ってみて「これは凄い!」と気がついたが、そのたった2ヶ月後に手に入れたNEC PC-100では日本語マルチプランが走った。それはある種時代の変わり目だったのかも知れない。
そして、表計算ソフトを使う頻度が高くなるにしたがって、悲しい足音が少しづつ近づいてきた。
さて、正直に言えば私は政治とか選挙などというものに興味はなかった。しかし皮肉なことに高校時代からの大の親友が衆議院議員の秘書になってしまった。だから決して立候補者のためではないが、何かの形で親友の役に立ちたかった。
彼とは同じ選挙区に住んでいることもあり、どのような経緯があったのかは忘れたが、深夜に自宅を頻繁に訪ねてくるようになった。
選挙の苦労話といった生臭い話をすることもあったが、ほとんどはコンピュータの話とか、彼の趣味だった写真の話だった。そんな話をしながら、私が煎れるエスプレッソコーヒーを美味そうに飲んで、彼はまた夜の街に出ていった。たぶん、その後も後援者の票固めのために歩き回っていたに違いない。
ある日のこと、いつものように深夜になって私の自宅を訪れた彼は、ちょうど私がApple IIで使っていたマジカルクを眺め、「これ、選挙分析に使えないかな」と言い出した。勿論Apple IIは漢字が表記できるものではなかったが、分析それだけを目的とするなら、十分に役立つだろうと考え、それからはマジカルクを使い、彼がいうところの票集めのシミュレーションや実績のチャートの試行錯誤が始まった。
この一連の作業は私が表計算ソフトを実践として使った最初となったが、その後彼と一緒にシミュレートするパソコンは、IBM 5550やPC-9801に移行し、最後にはMacintoshを使うまでになった。


※Apple IIとMAGICALCを使い選挙の得票結果を表示した当時のモニター画面(上)とApple II用のテンキー(下)
そんな折り、しばらく顔を見せなかった彼が入院したことを知った。彼は腸閉塞の宣告を受け、何回かの入退院を繰り返したが、一切弱音をはくことはなく常に冷静で快活だった。しかし実は彼の本当の病名は癌だったことをその時、私は知る由もなかった...。
頭の良い彼はたぶん、自分が癌であることをすでに知っていたのではないかと思うが、後で聞いたところによれば、数カ月の命と宣告されていたはずが、仕事への使命感からか、入退院を繰り返しながら2年以上生き続けたのだった。
最後の入院をしたとき、病院が近かったこともあり、土曜日になると見舞いに行った。最初のころの彼は顔色もよく、元気そうで「表計算が使えてワープロが打てる小さくて軽いマシンはあるかなあ?」などと気力もあったので、自宅に転がっていたPC-98LTという当時のノート型パソコンなどを病院の個室に届けたりしていた。
病室で彼は、「政治家という商売もアピール...プレゼンが重要で、何よりもデータの蓄積と分析が大切なんだ」と相変わらず熱っぽく話をしていた。
とある12月の土曜日、いつものように病室を訪れると、彼は寝たまま「俺はもうだめだ...」と初めて弱音をはいた。確かに衰弱が激しく、その表情もかつての快活な面影は消えていた。
その頃、すでに癌であることを奥様から聞かされていた私は、非力なことに慰める言葉も出てこなかった。無言で彼の背中に手を置き、病室を出るしか私にできることはなかった。
年も明け正月の静けさを味わっていた1月2日、自宅の電話が鳴り、受話器の向こうに奥様の申し訳なさそうな小さな声を聞いた瞬間...私はすべてを察知した。
友人代表として葬儀に出た後、以前病室に持っていったPC-98LTが奥様から返されてきた。もしや、と思い電源を入れると、そこには同僚か部下に指示をするためだったのだろうか、書きかけの表計算の一部と意図や意味は分からないものの、彼の最後の文章が数行残っていた。
私にはそれが彼の遺言であるように思え、横に女房のいることも忘れ、液晶モニタを見つめながら泣きに泣いた。
だから...私はそれから表計算ソフトが嫌いになった。なぜなら、マルチプランであろうがエクセルであろうが、モニターいっぱいにセルが表示される向こうに、かならず彼の姿が浮かんで辛かったからである。しかしすでに十数年の歳月が流れたいま、表計算ソフトは彼を思い出す「縁(よすが)」であることに気がついた。

※親友の大倉信昭君(右)と軽井沢で (1980年代前半)
あなたは感傷的過ぎると笑うだろうが、私が表計算ソフトを使うとき、その傍らには兄弟と間違えられたこともあるほど雰囲気が似ていたという"彼"が一緒にいてくれるように思えるようになったのである。
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