Pacific Market Forumに見る「1992 Who's Who」の思い出
手元に "1992 Who's Who〜among Pacific Market Forum partners, Volume 1"と題する一冊のブック形式の印刷物がある。これは1992年のMACWORLD Expo San Franciscoの様子の一端と当時のデベロッパーたちの姿を語る貴重な記録である。
当時、すなわち1992年は現在のアップルコンピュータ(株)もアップルコンピュータ・ジャパン(株)と名乗っていた時代で、本社も千駄ヶ谷のビルにあった。そして日本のマーケットも現在とは違い、大変小さなマーケットだったためか、日本のアップルは本社直属ではなくオーストラリアなどを含む極東地域というカテゴリーの一員だった。
1992年のExpoは私にとって6回目のサンフランシスコだったため、かなりリラックスして臨めたが、実は例年のExpoと違い私にはひとつのミッションがあった。
それはアップルコンピュータ・ジャパンから「米国のデベロッパーに日本進出する際のポイントなどをアドバイスするフォーラムを企画したので手伝って欲しい」との要請があったからだ。1992年あたりはまだそんな時代だったのである。
フォーラム開催当日もサンフランシスコ市内は大変良い天気だったと記憶しているが、名物のケーブルカーが通るパウエル・ストリートをノブヒルと呼ばれている市内で一番高い地域にあるフェアモントホテル目指して急な勾配の坂をゆっくり歩いたものだ。

※マーケット通りと交差するパウエルス通りにあるケーブルカー発着ポイント(左)と、急勾配を上がりきった左奥に見えるのがフェアモントホテル
ダウンタウンからだとフェアモントホテルは坂を上りきり、カルフォルニアストリートに交差する左側にある高級ホテルだが、私は快い緊張感を感じながらホテルに入り目的の会場を探した。
会場には日本人を含む40人前後の参加者がいたが、議題のポイントは「日本でいかにソフトウェアやハードウェアを売るか」というテーマだった。
前アップルコンピュータ社の代表取締役社長であった原田さんも当時は部長職だった。その原田さんも部屋の後ろに待機していたし、当時のアップルコンピュータ・ジャパン担当者も何人かその場の準備に奔走していた。そして直接の係りだったRさんのスタンバイが遅れ、上司のTさんに叱られていたことなどを懐かしく思い出す。
私はといえば壇上にあがり、出席者の方々からの日本市場に関する質問にアップルコンピュータ・ジャパンの方々と一緒にお答えしたが、私自身の本心はテーマとは逆の「日本製のソフトをいかにしたら米国で販売できるか」という方に興味があったのだが...(笑)。

※フェアモントホテルの一室でのミーティング。壇上向かって右が筆者
またこのExpoに参加する前、アップルから私の顔写真を送るように依頼があった。なにか簡単な名簿でも作るのかと思い、会社の住所データなどと一緒に顔写真のデジタルデータを送った。そうしたデータから生まれたのがこのPacific market Forum〜The Power of Pertnershipと題された「1992 Who's Who」というタイトルの一冊だったのである。

※407名の名簿になっている「1992 Who's Who」
針金のリングで綴じられたこの本は、参加者をパシフィックマーケット関連のオーストラリア、カナダ、ヨーロッパ、極東、日本、ラテンアメリカそして米国に分類し、かつアップルの社員かそれ以外のコンサルタント、デベロッパー、パブリッシャー、ディストリビューター、ローカリゼイション・エキスパート、その他というビジネスカテゴリーによる分類が顔写真と共になされているものだ。
そして所属・タイトル・住所は勿論、電話番号やFAX番号、そしてAppleLinkのIDなど、お互いに即連絡を取り合えるデータが掲載されていた。
したがって、ここに登場する顔ぶれを眺めれば当時のデベロッパーの規模も分かるというものだ...。

※「1992 Who's Who」108ページに掲載されている私のデータ
ともあれ、この時代のアップルは勿論、我々デベロッパーも元気があった。ある種の一体感があったと思うが、昔を懐かしがってばかりでは進歩がない。現在は幸いアップル自体は元気があるものの、当時のような市場の一体感は乏しくなってしまったのが寂しい。
当時、すなわち1992年は現在のアップルコンピュータ(株)もアップルコンピュータ・ジャパン(株)と名乗っていた時代で、本社も千駄ヶ谷のビルにあった。そして日本のマーケットも現在とは違い、大変小さなマーケットだったためか、日本のアップルは本社直属ではなくオーストラリアなどを含む極東地域というカテゴリーの一員だった。
1992年のExpoは私にとって6回目のサンフランシスコだったため、かなりリラックスして臨めたが、実は例年のExpoと違い私にはひとつのミッションがあった。
それはアップルコンピュータ・ジャパンから「米国のデベロッパーに日本進出する際のポイントなどをアドバイスするフォーラムを企画したので手伝って欲しい」との要請があったからだ。1992年あたりはまだそんな時代だったのである。
フォーラム開催当日もサンフランシスコ市内は大変良い天気だったと記憶しているが、名物のケーブルカーが通るパウエル・ストリートをノブヒルと呼ばれている市内で一番高い地域にあるフェアモントホテル目指して急な勾配の坂をゆっくり歩いたものだ。

※マーケット通りと交差するパウエルス通りにあるケーブルカー発着ポイント(左)と、急勾配を上がりきった左奥に見えるのがフェアモントホテル
ダウンタウンからだとフェアモントホテルは坂を上りきり、カルフォルニアストリートに交差する左側にある高級ホテルだが、私は快い緊張感を感じながらホテルに入り目的の会場を探した。
会場には日本人を含む40人前後の参加者がいたが、議題のポイントは「日本でいかにソフトウェアやハードウェアを売るか」というテーマだった。
前アップルコンピュータ社の代表取締役社長であった原田さんも当時は部長職だった。その原田さんも部屋の後ろに待機していたし、当時のアップルコンピュータ・ジャパン担当者も何人かその場の準備に奔走していた。そして直接の係りだったRさんのスタンバイが遅れ、上司のTさんに叱られていたことなどを懐かしく思い出す。
私はといえば壇上にあがり、出席者の方々からの日本市場に関する質問にアップルコンピュータ・ジャパンの方々と一緒にお答えしたが、私自身の本心はテーマとは逆の「日本製のソフトをいかにしたら米国で販売できるか」という方に興味があったのだが...(笑)。

※フェアモントホテルの一室でのミーティング。壇上向かって右が筆者
またこのExpoに参加する前、アップルから私の顔写真を送るように依頼があった。なにか簡単な名簿でも作るのかと思い、会社の住所データなどと一緒に顔写真のデジタルデータを送った。そうしたデータから生まれたのがこのPacific market Forum〜The Power of Pertnershipと題された「1992 Who's Who」というタイトルの一冊だったのである。

※407名の名簿になっている「1992 Who's Who」
針金のリングで綴じられたこの本は、参加者をパシフィックマーケット関連のオーストラリア、カナダ、ヨーロッパ、極東、日本、ラテンアメリカそして米国に分類し、かつアップルの社員かそれ以外のコンサルタント、デベロッパー、パブリッシャー、ディストリビューター、ローカリゼイション・エキスパート、その他というビジネスカテゴリーによる分類が顔写真と共になされているものだ。
そして所属・タイトル・住所は勿論、電話番号やFAX番号、そしてAppleLinkのIDなど、お互いに即連絡を取り合えるデータが掲載されていた。
したがって、ここに登場する顔ぶれを眺めれば当時のデベロッパーの規模も分かるというものだ...。

※「1992 Who's Who」108ページに掲載されている私のデータ
ともあれ、この時代のアップルは勿論、我々デベロッパーも元気があった。ある種の一体感があったと思うが、昔を懐かしがってばかりでは進歩がない。現在は幸いアップル自体は元気があるものの、当時のような市場の一体感は乏しくなってしまったのが寂しい。
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