スティーブ・ジョブズとパロアルト研究所物語

スティーブ・ジョブズがビル・アトキンソンらとゼロックス社パロアルト研究所(PARC)を訪れた際のエピソードはこれまで虚々実々のいわれ方をしてきた。しかし、その一瞬はAppleの歴史にとっても最も重要なシーンだったことは間違いない。今回はその日、その時に焦点を当ててみる。


後年WindowsがMacに似すぎていると文句を言ったスティーブ・ジョブズ(以後S.ジョブズ)に対し、Microsoft社のビル・ゲイツが「ゼロックスの家に押し入ってテレビを盗んだのが僕より先だったからといって、僕らが後から行ってステレオを盗んだらいけないってことにはならないだろう」と言い放ったという話がある。

この物言いは、当時Apple Computer社(以後Apple社)のS.ジョブズがPARCに乗り込み、PARC側の意志を無視して文字通り技術を奪い取ったとも受け取れる発言だし、これまで一部のマスコミでも同種の扱いをされてきた感がある。
しかし、この映画の名場面ともなるであろう、その日その時を十分に考察すれば、決して非合法なやりとりがあった訳でもなく、ビル・ゲイツのいい方はあくまで悪たれ口に過ぎず、いたずらにApple社とS.ジョブズの印象を貶めた不適切な物言いである。

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※パロアルト研究所 (Palo Alto Research Center Inc.) ウィキペディアより


事実はひとつしかない。しかし残念ながらその事実も、実際にそこにいた人に聞いてみたところで1979年12月に起こったであろう数時間の出来事は、記憶の問題だけでなく、立場の違う人によってその印象が随分と違っていたところで驚くには値しない。

事実はひとつでも、それぞれの人間にとってはそれぞれの真実が形作られるのであり、人間とはそもそもそんなものなのだ。
ましてや25年も昔になろうとしているその数時間を客観的に描き出すことができるとすれば、それは神しかいないだろう。
しかし矛盾は矛盾として、無理は承知で、私はどうしてもS.ジョブズがPARCでAltoのデモを見た瞬間の様子を知りたいと考えてきた。その一端として今回、限られた資料をもとに、その瞬間を独断で再現してみたいと思う。

そもそも、S.ジョブズがPARCを訪問した月日からして、いくつかの記述は矛盾する。年は1979年に間違いないようだが、斎藤由多加著「マッキントッシュ伝説」のジェフ・ラスキン自身によれば「...ビル・アトキンソンらと画策して、何とか彼(S.ジョブズ)をPARCに行かせたんです。1980年のことです」と発言している。ちなみにジェフ・ラスキンはMacintoshのプロジェクトの生みの親であり "Macintosh "の命名者だったが、後にS.ジョブズは彼を追い出して自身がMacintoshの指揮をとることになる。なおジェフ・ラスキンは残念ながらすでに鬼籍に入ってしまった。

それはともかく、Owen W.Linzmayer著「Apple Confidential」では、S.ジョブズは1979年11月に初めてPARCを訪れ、そして翌月の12月に再訪問したとある。

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※若かりし頃のスティーブ・ジョブズ。1977年4月のWCCFにおいて自社ブースにて


ポール・クンケル著(大谷和利:訳)「アップル デザイン」を見てみよう。そこには「1979年12月に、Jobsは側近と共にPARCの研究者だった、ラリー・テスラーに会い、内部を案内してもらった」とある。
しかし、Michael Hiltzik著「未来を作った人々」によれば、1度目の訪問は12月であり、2度目はそのたった2日後のことであるという。またPaul Freiberger & Michael Swain著「パソコン革命の英雄たち」では、1度目の訪問はただ単に春と記述されており、2度目の訪問の話題はない。そして「マッキントッシュ伝説」によれば、インタビューに答えたアラン・ケイの話しとして、訪問月の示唆はなく、1度目の後も「アップル社からはその後何度も来た...」とある。

さらに「アラン・ケイ」(鶴岡雄二訳・浜野保樹監修 アスキー出版局刊)の中で浜野保樹氏によれば、「1979年11月、ジョブズがPARCを訪問してアルトに啓示を得、リサを経由してマッキントッシを開発したいきさつは、現代の神話としてあまりにも有名だ」と紹介されている。

またこれらの著書と比較して比較的近刊である「取り逃がした未来」ダグラス・K・スミスとロバート・C・アレキサンダー著/山崎賢治訳(日本評論社刊)には訪問の年は1979年後半とこれまでの情報と同じだが「ゼロックスがアップルの買収を考えてS.ジョブズに接触した」とかなりニュアンスの違う記述があり、かつゼロックスの幹部からPARCを見学するよう頼まれたとある。しかしこれは当時のApple社ならびにS.ジョブズの動向から考えて私は事実とは思えない...。

ただし「ジョブズ・ウェイ」の著書で当時スティーブ・ジョブズの右腕と言われていたジェイ・エリオットによれば、ジョブズのメルセデスに乗りPARCまでドライブに出かけたことがあるらしい。それはジョブズがAppleのエンジニアたちを引き連れて訪れた1ヶ月後のことだったという。であるなら先のアラン・ケイの話しのとおり、その後は頻繁に訪れたと考えた方が自然だろう。

なお講談社刊「Steve Jobs Special ジョブズと11人の証言」のラリー・テスラーによれば、ジョブズが初回より多くの人たちを連れた2度目の訪問は1度目のプレゼンの約2週間後だっと証言している。

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※ラリー・テスラー。1985年5月13日号のInfoWorld誌より


もともとS.ジョブズにPARC訪問を勧めたのはジェフ・ラスキンだったようだが、当時のS.ジョブズはラスキンを嫌っており、彼の申し出を意に介さなかったようだ。しかしジェフ・ラスキンはその重要性を感じ、友人のビル・アトキンソンをジョブズの説得にあたらせたというのが真相のようである。ちなみにジェフ・ラスキンはビル・アトキンソンが以前通っていたサンディエゴの大学の先生だったという。

なおS.ジョブズ関連図書として講談社から発刊された公認の自伝「スティーブ・ジョブズ」によれば、訪問は1979年12月に2回あったとされている。また同書にはAppleが株式公開に際してS.ジョブズ自身が「PARCが着物の前をはだけてくれるなら100万ドルの投資を受け入れる」と提案したとある。しかしこれが事実だとしてもS.ジョブズが最初にPARCを訪問した動機はビジネス上の義理とか約束事とは考えにくいからやはりビル・アトキンソンの勧めにしたがったのではないだろうか。

ともかく訪問の年と月からしてこの調子だから、真実を極めるのはほとんど無理のような気がするが、気を取り直して話を進めよう(笑)。
さて、S.ジョブズがPARCを訪れた時に同行したAppleのスタッフらは誰だったのだろうか。そしてPARC側はどんな人たちがそれに対応したのだろうか。

「Apple Confidential」によれば、初回はビル・アトキンソンを伴って訪問したが、2度目はホーキンス、ロイミュラー、リチャード・ペイジ、ジョン・デニス・コーチ、マイケル・M・スコット(Apple社の社長)、トーマス・M・ホイットニー、ブルース・ダニエルズが一緒だったという。しかしPARC側のスタッフの記述はない。

「未来を作った人々」では、1度目についてS.ジョブズの同行者の記述は無いが、2度目はマイケル・M・スコット、ビル・アトキンソンら10人ほど...とある。またPARC側としては1度目はラリー・テスラー、2度目はハロルド・H・ホール、アデル・ゴールドバーグ、ダイアナ・メリー、ダン・インガルズの名があがっている。
「パソコン革命の英雄たち」には1度目の記述無く、2度目はビル・アトキンソンを連れていったとあるが、PARC側の同席者の名はない。

「マッキントッシュ伝説」のアラン・ケイの話しによれば、Apple社からは4,5人来たと発言し、PARC側のスタッフとしてアラン・ケイ自身は勿論、ラリー・テスラー、ダン・インガルズがその場にいたと証言している。
アラン・ケイは当時、PARCのスタッフとしてAltoにたずさわっていたから、同席していたとしても不思議ではなく、そのほうが自然だ。そして前記したように本人も「その場にいた」と発言しているが、他の資料には重要人物であったはずのアラン・ケイの名がないのもこれまた不思議である。 ただし別の情報によればこの時期のケイは退社を考えていたためにサバティカルに入っており居合わせる機会が少なかったらしい...。

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※アラン・ケイ。1984年6月11日号のInfoWorld誌より


不思議といえば、本記事を書き始めた時点では不明だったが、2008年11月に刊行された「アップルを創った怪物」(ダイヤモンド社刊)によれば、アップルのもう一人の創業者スティーブ・ウォズニアック自身が「スティーブほか、僕ら数人のアップル社員がゼロックスのパロアルト研究所PARCに行った」と発言している。さもありなんと思うが、いかに資料をつき合わせてもウォズニアックの名がないのが不思議だったものの、この事実は書籍や公表されている資料だけを鵜呑みにしてはならないことを教えてくれる。

さらに近刊ウォルター・アイザックソン著「スティーブ・ジョブズ」によれば1回目の訪問時にはジョブズ、ラスキン、ジョン・カウチの3人をPARCのアデル・ゴールドバーグがAltoが置かれているロビーに案内したとある。そして数日後に再訪問し、ビル・アトキンソンも一緒だったとあるが他の参加者には触れていない。

またS.ジョブズらのPARC訪問は偶然であったり、行き当たりばったりであったわけではない。開放的であったといわれているPARCにしても、だれでもが入り込んで勝手にAltoのオペレーションを見ることができるわけではなかった。

前記したようにS.ジョブズ訪問の8ヶ月ほど前、すなわち1979年4月にさかのぼるが、この時代最高の前評判でまもなく上場することになっていたApple社には多くの投資家が資本参加を望んでいた。ゼロックス社もそのひとつだった。それを知ったS.ジョブズは資本参加を承諾する代わりに、ゼロックス社の技術を知りたいと申し出たという話もある。

講談社刊「Steve Jobs Special ジョブズと11人の証言」のラリー・テスラーによれば、当時ゼロックスとAppleはAppleの株式公開に先立ち複雑な交渉を続けていたという。そして前記したようにAppleは「資本参加を承諾する代わりに、ゼロックス社の技術を知りたいと申し出た」と証言している。しかし合理的に考えれば、当時のS.ジョブズがゼロックス社の具体的なテクノロジーに興味を示していたという証拠はなく、その可能性も低いと思われる。

なぜなら当時、大企業を嫌っていたという彼は「ゼロックスみたいな大企業には何も面白いことはできない」と発言していたという(「未来を作った人々」)。だから1度目は、S.ジョブズ自身、具体的な何かを期待してPARCを訪問したのではないと考えることもあながち無理ではないだろう。そしてもし、具体的にAltoやそのSmalltalkの情報を得たければ、方法は他にいくらでもあっただろう。彼の立場からすれば、ストレートに知りたいことを要求することも可能だったと考えられる。
しかし2度目の訪問はあきらかにS.ジョブズが1回目の訪問で刺激を受けたことによる。

ともかく、S.ジョブズたちに何をどの程度見せるかという決定権はPARCにはなかったという。そしてゼロックス本社から「見せろ」という決定が下ったのだから、S.ジョブズたちは間違いなく正式にPARCの門をくぐったのである。

なおスティーブン・レビー著「マッキントッシュ物語〜僕らを変えたコンピュータ」では些か違ったアプローチをしている。
それによればPARCへは1979年12月の訪問とし、Appleからはスティーブ・ジョブズを含めて8人がデモルームに通されたとある。それらはジョブズの他、ビル・アトキンソン、マイク・スコット、そして重役とLisaプロジェクトの技術者たちだった。またPARC側はラリー・テスラーが対応したとある。

その訪問のきっかけとしてスティーブン・レビーはAppleが勧誘していた投資にゼロックスが興味を示し、Appleの株式10万株を100万ドルで売却する見返りとして仕組まれたセレモニーだったとしている。ただしスティーブン・レビーの書き方では前記した8人が初めてPARCへ訪問したというニュアンスで紹介しているだけで、2度目あるいはその前後の訪問については有る無しを含めて明記していない。ただしスティーブン・レビーは「マッキントッシュ物語〜僕らを変えたコンピュータ」の別項で「Lisa開発チームの技術者にPARCの先進的なディスプレイを見に行くよう最初に勧めたのはジェフ・ラスキンだった」とし、当のラスキンもその歴史的訪問に同行したと書きApple側のPARC訪問は1度限りではなく数回あったことを示唆している。

ちなみに、以下の映像ではS.ジョブズたちが最初にPARCで観たであろうSmalltalkシステムの一部映像と後述するPARCのアデル・ゴールドバーグ女史の姿を見ることができる。映像の最後の方にApple IIの一部が映ることでこれまたMac以前の映像だと推察できるがそれに気がつかない人には「マックみたいだ」と思うかも知れない(笑)。なにしろ1979年にここまで完成していたSmalltalkシステムには驚愕させられる。



ただ知っておかなければならないこととして、「未来を作った人々」によれば、PARCのSmalltalkのデモには2つのバージョンがあったという。特に審査に通ったVIP向けのものと一般に見せるものとである。
明らかに1度目は、誰にも見せる式の、いわゆる無害なデモを行った。しかしS.ジョブズは、そのとき自分たちに与えられなかった情報がどれだけあるのかを悟ったらしい。だから「未来を作った人々」いうところの、たった2日後に再び大人数を連れてPARCに再度出向いたのだ。

「未来を作った人々」によれば、当時PARCの学習研究グループ(LRG〜アラン・ケイが責任者)所属でSmalltalk共同開発者の一人でもあり、デモを担当していたアデル・ゴールドバーグは2度目のS.ジョブズらの来訪を激怒したという。

彼女はいう。「来てみれば.....予告もなしで。2日後にですよ。しかもハロルド・ホールとロイ・ラーが廊下に現れて、私が2回目のデモをすることになってるって言うんです」。
当初アデル・ゴールドバーグと仲間たちは、前回同様に害のないデモを見せてS.ジョブズたちを追い返そうと考えたらしい。アデル・ゴールドバーグはApple社の能力と意図を知るよしもなかったが、技術者の本能と自身らが開発し育てたSmalltalkの重要さと大切さを知っており、特にプログラマーにそれらを見せるリスクを恐れていた。彼女は何とかしてゼロックス社自身にAltoとSmalltalkを正当に評価させ、これを世に出したいと考えていたらしい。

だが、事はアデル・ゴールドバーグたちの思惑通りにはいかなかった。なぜならゼロックス社から「ジョブズが望むものはすべて見せろ」「ジョブズ氏に機密ブリーフィングを実行せよ」という電話が入ったからだ(「未来を作った人々」)。また「スティーブ・ジョブズ」ではピル・アトキンソンはPARCの論文を読んでおり、S.ジョブズも隠されていることが多いことを知りゼロックス社のトップへ苦情の電話を入れたとある。

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※ゼロックス社のAlto (1992年富士ゼロックス社展示会において筆者撮影)


ともかく、本社側の命令は守らなければならない。マネージャーであるハロルド・ホールはデモチームに、S.ジョブズと部下のエンジニアたちが正式な扱いを受けるよう指示するしかなかった。
「未来を作った人々」によれば、アデル・ゴールドバーグはそれを聞いて、激怒のあまり目に涙をうかべ、ハロルド・ホールらに喰ってかかったという。デモを拒否し、大立ち回りの末に彼女は上司の命令だからと、まだ真っ赤な顔をしたままSmalltalkの入ったディスクバッグを持ち、S.ジョブズたちの前に現れた。

確かにアデル・ゴールドバーグの危惧していたことは確かとなった。天才プログラマーとして名を残すことになったビル・アトキンソンらの集中した様子は、彼女をますます不安にした。

「未来を作った人々」にはPARC側のラリー・テスラーの言葉として、同行したビル・アトキンソンは明らかに十分な予習をしていたという。事実、後になってから分かったこととして、ビル・アトキンソンはPARCが出版した論文をすべて読んでいたという。そして「我々の持つものをゼロックス社よりはるかに良く理解していることは明らかだった」と回想している。

また「アラン・ケイ」の中で浜野保樹氏は「...しかし、アルトのアイデアはジョブズがアルトを見る以前から公開されていた。ゼロックス社の顧問弁護士が心配したように、1977年にケイが発表した論文にすべてが書き込まれていたのだ...」と書いている。

なお「マッキントッシュ伝説」によるビル・アトキンソン本人の話しによれば、AltoでなされたSmalltalkによるワードプロセッサのデモを見て「すごく興奮した」と証言しているものの、それはまったく意外なものを見たからではなく、「...われわれの方向性が間違っていないとわかったからです。.....ですからAltoを見たとき、われわれがやっていることは間違っていないんだというふうに思いましたし、これは絶対にできるというような感触を覚えたのです」と話している。

「未来を作った人々」には同じくビル・アトキンソンの話として、後年このPARC訪問なくしてLisaは生まれなかったといわれるのを嫌い、「後知恵でいえば、行かないほうがよかったくらいだ」といい、続けて「われわれはオリジナルの研究をずっとたくさんやっていたんですよ」と結んでいる。さもありなんと思う。

しかし、2度目のVIP待遇のデモにはビル・アトキンソンはじめ、S.ジョブズも度肝を抜かれたというエピソードはこれまた有名だ。有名な話しではあるが、ここでもイマイチその内容がはっきりしない。
Altoの画面上のテキストが1行ごとにスクロールするのを見たS.ジョブズが(「マッキントッシュ伝説」では、アップル社のひとりが...とされている)、「これがスムーズにドットごとに紙みたいに動いたらいいが...」(「未来を作った人々」)といったとされる。また「(Apple側が)テキスト処理をビデオのように逆に進められるかと挑んできました」(「マッキントッシュ伝説」でアラン・ケイの話しとして)という少しニュアンスが違う証言もあるが、ともかくApple社側のその場の思い付きの要望を、デモをしていたダン・インガルズが「ちちんぷいぷい(「未来を作った人々」)」、「Altoを止めずに約25秒で(「マッキントッシュ伝説」)」実際にそれをやってのけたという。

これにはS.ジョブズも驚き、「この会社はなんでこいつを発売していないんだ?!何が起きているんだ?わからん!」なんて叫んだという(「未来を作った人々」)。また「マッキントッシュ伝説」によるアラン・ケイの話しによれば、S.ジョブズはAltoを一台正式に購入したいと要望したが、ゼロックス社はそれを拒否した。

S.ジョブズはPARCでデモを見た印象を「...理性のある人なら、すべてのコンピュータがやがてこうなることがわかるはずだ」と発言したという。ただし同時にS.ジョブズは後年いわゆるそのGUIに目を奪われ、オブジェクト指向プログラミングとEthernetでつながった電子メールの重要性に気が回らなかったと反省している(「アップル デザイン」)。

その後、Apple社はLisaにPARCで体験して得たパーソナルコンピュータの理想を託そうとしたが、現実はAltoおよびSmalltalkのすべてがLisaに渡ったわけではない。いわゆるルック・アンド・フィール、すなわちインターフェースの基本的外見と一部の機能がLisaで実現されたことは確かだが、反面メニューバー、プルダウンメニュー、1ボタン・マウス、クリップボードを使ったカット&ペースト、そしてゴミ箱などはApple社自身のいわゆるオリジナルなアイデアだった。

しかし「未来を作った人々」によれば、PARCがLisaとMacintoshの設計者たちに及ぼした影響で最も重要なのは、おそらく精神的なものであり、訪問後にLisaの設計者たちが出した設計要綱は、アラン・ケイやラリー・テスラーの精神の完全な開花と言えた。何しろそこには「Lisaは使って楽しくなければならない」と命じているという。

続けて「このシステムは『仕事だから』とか『上司がやれというから』使うようなシステムにはしない。Lisaを使うことそのものが報酬となって、仕事が充実するよう、ユーザーとの相互作用における友好性と機微には特に注意を払わなければならない」とあるという。この感覚と思いは、われわれMacintoshユーザーが最初期からずっと感じてきたものであり、そのことはそれまで...あるいはその後も他社製のパーソナルコンピュータと一番違う点である。

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※1983年1月に発表された Lisa


それから、Altoは商用として販売されていたマシンではなく、これまたよくいわれることだが結果としてゼロックス社はその研究結果および資産を有効に活用しなかった。しかし後になってStarなどのワークステーションに活かされる部分もあったのだから、まったく顧みられなかったというわけではないものの、積極的に製品化するという行動に出なかったことは歴史が証明している。ダグラス・K・スミスとロバート・C・アレキサンダーは著書「取り逃がした未来〜世界初のパソコン発明をふいにしたゼロックスの物語」の中でなぜゼロックスは発明を事業として成功させることができなかったのかを説いている...。

事実、ラリー・テスラーらはS.ジョブズらが驚愕して賞賛を惜しまなかったAltoおよびSmalltalkの開発責任者として、評価されたことを大いに喜んだという。特に2度目のPARC担当者らのデモは行きがかりはどうあれ、デモをしたPARC側の人間もApple側の反応の良さと的確な質問に真の理解者を得たと思ったようだ...。

確かに当初PARC側の彼らは、規模も歴史も、そして経験も自分たちのそれとは違う小さなApple社を軽く見ていたようだが、無関心なゼロックス社とはまったく違うS.ジョブズたちの狂的な熱心さに、自身たちの価値観を再発見したのであろう。そしてその日の出来事はラリー・テスラーらPARC側の人間の運命をも変えることになった。なぜなら後にラリー・テスラーをはじめ、アラン・ケイ、スティーブ・キャプスら15人以上のPARC従業員がApple社に移ることになったからだ。

論理的に考えて、このときPARC側、すなわちデモをしたラリー・テスラーや同席したというアラン・ケイらがS.ジョブズおよびApple社に対して、不愉快な思いをしたならば、後にApple社に移ることも無かったかも知れないと思う。

「AppleはPARCのテクノロジーを盗んだ」といった興味本位の話が広がっているが、PARCはこれまでにも研究を進める資金を提供し、支援する気のある正当な顧客に対しては、喜んでSmalltalkのデモをしていた。ましてや前記したように、PARCのApple社への待遇は、結果としてゼロックス社からの正式な承認を受けたものだったことを忘れてはならない。

「アラン・ケイ」の浜野保樹氏による「評伝アラン・ケイ」にも「ケイは、アルトについて論文を発表しようとするたびに、ゼロックス社の顧問弁護士に出版をとりやめさせられた。しかし、デモンストレーションについては、不思議なくらい寛容だった。大量の視察団がPARCを訪問し、アルトを見た。1975年だけでも2,000人の訪問者がアルトのデモを見たが、正しくアルトを理解する者はいなかった。」と綴っている。

多くの人がAltoとそのデモを見たが、歴史が示すようにApple社のS.ジョブズたち以外、それらを現実のビジネスとして形作ろうと考えた人間はいなかったのだ。そこに大いなる宝が転がっていることに誰も気がつかなかったのだ。

かつてS.ジョブズは友人のスティーブ・ウォズニアックが手作りしたコンピュータを見て、直感的にビジネスになると考え、ウォズニアックを説得したからこそApple IIが誕生し、Apple Computer社が存在することになった。
「アラン・ケイ」の中で浜野保樹氏は「...ガレージでApple IIを完成させた。あのときと同じことが起こった。ジョブズは、埋もれてしまったであろう優れた技術を、二度もビジネスにつなげたのである。」と記している。まさしく、S.ジョブズなくしてはAltoで培われた多くのアイデアをパーソナルコンピュータに託すことはできなかった。そしてLisaやMacintoshを「Altoの猿まね」と称する人々もいるが前記したように文字通りそれらは単なる猿まねではなく時代が求めたAppleのオリジナリティを多く含むテクノロジーの継承であった。

歴史に if はタブーだというが、もしS.ジョブズらのPARC訪問がなければMacintoshはいまの形では存在しないことは勿論、いかに優れて時代を先取りしていたAltoあるいはSmalltalkシステムだとしてもこれまた現在のような評価を受けていたとは思えない。

したがって冒頭のビル・ゲイツの発言がいかに不当なものであることは分かるだろう。
S.ジョブズ、ビル・アトキンソンらそれぞれが、PARCのデモから受けた印象と思いは違うだろう。しかしそこで触発された衝撃はLisaやMacintoshの開発過程における大きな確信となったことは間違いない。

いずれにせよ、Lisaはビジネスとして失敗したが、そのDNAはMacintoshで開花した。ビル・ゲイツには悪いが、Macintoshの成功なくしてWindowsの今はあり得ないし、百歩譲ったとしても現在のインターフェースにたどり着くにはさらに大変な時間が必要となったに違いない。
「マッキントッシュその赤裸々な真実」(Scott Kelby著、大谷和利訳)には逆説的なこんな言葉が載っている。
「Windowsマシンがイカして見えたらApple社に感謝しな!」と。

【参考資料】
・「未来を作った人々」Michael Hiltzik著、鴨澤眞夫訳(毎日コミュニケーションズ刊)
・「Apple Confidential」Owen W.Linzmayer著、林信行・柴田文彦訳(アスキー出版局刊)
・「マッキントッシュ伝説」斎藤由多加著(アスキー出版局刊)
・「パソコン革命の英雄たち」Paul Freiberger & Michael Swain著、大田一雄訳(マグロウヒル刊)
・「マッキントッシュその赤裸々な真実」Scott Kelby著、大谷和利訳(毎日コミュニケーションズ刊)
・「アラン・ケイ」鶴岡雄二訳・浜野保樹監修(アスキー出版局刊)
・「アップル デザイン」ポール・クンケル著、リック・イングリッシュ写真、大谷和利訳(アクシスパブリッシング刊)
・「取り逃がした未来」ダグラス・K・スミスとロバート・C・アレキサンダー著、山崎賢治訳(日本評論社刊)
・「ジョブズ・ウェイ」ジェイ・エリオット、ウィリアム・L・サイモン著、中山宥訳(ソフトバンククリエイティブ社刊)
・「スティーブ・ジョブズ」ウォルター・アイザックソン著、井口耕二訳(講談社刊)
・「マッキントッシュ物語〜僕らを変えたコンピュータ」スティーブン・レビー著、武舎広幸訳(翔泳社刊)
・「Steve Jobs Special ジョブズと11人の証言」講談社刊



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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。また直近では「木挽町お鶴捕物控え」を発表している。
2018年春から3Dプリンターを複数台活用中であり2021年からはレーザー加工機にも目を向けている。ゆうMUG会員