1970年代から劇的に仕事を変えた7つのテクノロジー
先日古い知人と話しをする機会があった。共に自身の体験として振り返れば劇的な...本当に激変の時代を体現してきたことを痛切に感じるといった話題になった。社会に出てしばらくは一流企業であってもゼロックスコピーもFAXもなく電卓さえ一般的でなかった。というわけで今回は私的な感覚ではあるが1970年代初頭に一部上場企業に就職した自身を振り「1970年代からの劇的に仕事を変えた7つの新テクノロジー」と題してハードウェアとソフトウェアの与太話をさせていただく...。
■1■ パーソナルコンピュータ
まずは何といってもパソコンを抜きにしてテクノロジーの進歩は語れない。とはいえ自分の仕事を変えたテクノロジーといっても、人によりそれぞれの時代を担い、それぞれの体験があるはずだが、20世紀のテクノロジーの中で社会とビジネスを激変させた最たる物はやはりパーソナルコンピュータに違いない。
後述する「電子メール」も「DTP」あるいは「表計算ソフト」にしてもすべてパソコンがあってこそのものだ。
しかし我々はいまでは何の不思議とも思わずパソコンを仕事に活用しているが、そのパソコンが個人個人の立場で仕事に使えるようになったのは意外と後になってからだ。
確かにApple II は1977年に登場したしコモドール社のオールインワンパソコンPET2001を手にしたのは1978年だった。その後、これはと思う多くのパソコンを手に入れてみたが日本語対応されておらず、手軽に自分たちの仕事に取り入れることはできなかった。無論英語圏のユーザーならApple II とプリンタがあれば実用となったに違いないが...。
個人的にパソコンが仕事で使えるという思いをしたのは1982年に登場したNEC-9801、1983年に登場したIBM5550あたりからだった。Macintoshは1984年にリリースされたがオフィシャルに日本語化されたのは1986年のMacintosh Plusに「漢字Talk 1.0」が搭載されたのが最初だった。ではそれで即仕事に使えたかといえばメモリの少なさ、アプリケーションの少なさなどの理由から極限定された範囲でしか実用にはならなかった。

※1984年、自宅でIBM 5550を前にした筆者
私がパソコンを本当の意味で仕事に密着する形で使い始めたのは1989年に起業してからだった。そしていわゆる経理事務はもとより顧客管理や対外的な印刷物の作成などすべてをMacintoshで可能になったのはさらに数年が必要だった。
ただし振り返って見ると仕事にパソコンが導入されたことで我々1人1人は仕事が楽になったのだろうか?
現実は、手際がよくなり仕事の仕上がりが速くなった分だけ別の新しい仕事を任されるし、パソコンのハード・ソフトに関わるあれこれで従来には考えられない程、新しい事を覚えなければならなくなった。
1人のサラリーマンとしてパソコンが登場したからといって楽になったという感じはまったくといってなかった...。
現在からの視点から眺めるとパソコン無くしてどのように仕事ができるのか...と不思議な感覚に陥るが、1970年代から1990年ほどの間、パソコンも携帯電話もないのに任された任務はきちんとこなしていたはずだ。パソコンは仕事の効率を高めると同時に高度な意志決定にも重要だと思われているが、それを使うのは我々サラリーマンでありOLだ。果たしてパソコンは我々の見方なのだろうか...。
マイコンやパソコンといったものと約40年ほど格闘してきた1人として振り返れば、確かにパソコンを通じて...例えばインターネットといった新しいテクノロジーを知り、活用する術を学べたことは間違いないが、振り返れば文字を手書きで書けなくなったし友人知人たちの住所はもとより、電話番号でさえほとんど携帯電話のメモリ内に頼りきりで覚えていない自分に気づく。
外出時に財布を忘れても慌てないがiPhoneを忘れると不安でしようがない...。これはある種の依存症であり能力の視点から見て退化ではないのか...。
■2■ ボールペン
経理業務で総勘定元帳や仕入帳といったバインダー形式の元帳記入はつけペンとインクだった。家庭ではさすがにつけペンなどには縁がなかったから最初は戸惑ったが、例え自前の万年筆を持っていても使うことは禁止されていたから選択肢はなかった。
勿論間違った時は二本線で消し、訂正印を押した上で空いている場所に書き直すか、場合によっては砂消しゴムなどで完全に消し去って書き直したが、上書きはインクが滲むので閉口した。
いつの頃からボールペンの使用が許されたかは記憶にないが、当初は公文書への使用が認められなかったもののちょうど1970年代頃から少しずつ使われていったと思う。しかし鉛筆もそうだったが、職場でのボールペン利用はかなりシビアで、インクがなくなったボールペンを総務部へ持って行かない限り新しいものは支給されなかった。
ボールペンはたまにボールの先にインクの塊がこびりつき、それが用紙を汚すこともあったが、つけペンとは比較にならない便利さがあった。
ではなぜブルーブラックのインクと付けペンだったのか...。それには大きな理由があった。すでに40年も前の事だからお話しするが、帳簿がバインダー式だったことと関係する。経理上のことなのか財務的な関係なのかは平社員には判断が付かなかったが要は後で都合の良いように元帳を書き直すことができたからだと聞かされた。
用紙はコクヨ製だがそれらは年代を重ねると変色するが、日常ページを増やすためのものとは別に交換用の古い記入用紙が保存されていた。古い元帳の数ページが新しい用紙では誰が見ても書き換えたと分かるからだ。用紙はそうした配慮でなんとかなったが問題はインクであった。
新しく記入した文字と数年経過したページの文字を比較するとそのインクが経時変化で変色していた。現在のインクは分からないがその時代はまだそうしたインクがあったということだ。では...とあるページを後になって入れ替える場合にはどうするか...。くどいようだが用紙は古い用紙を使うにしろそこに記入したインクが見るも新しいものではこれまた変だ。
実は記入したインクの上に火を付けたタバコの先を近づけて熱を加えると書いたばかりのインクが変色してまるで数年あるいは十数年経過したように見えるのだった。ただし近づけ過ぎればせっかくの用紙が熱で焦げ、一ページ、あるいは裏表を全部書き直すハメとなった(笑)。
ボールペンはそうした不正を許してくれない新しい文具だった。思えば会社に大型コンピュータが導入された時期になってボールペンは社内で急速に普及した。そしてボールペンの利用は鉛筆やペンとは違い、強めの筆圧が必要なこと、線の太さが均一なことなどから大げさに言えば筆記の方法まで変化させたペンとなった。
■3■ 電子メール
電子メールの台頭は迅速に相手へメッセージを届けることが可能になっただけでなく、ビジネススタイルや価値観も変えるものとなった。
FAXが登場してもしばらくの間、いわゆるオフィシャルな内容のものは封書で送ることが礼儀であると教えられた。したがってその文面も「拝啓、貴社益々御清祥の段、お慶び申し上げます...」といった定型の堅苦しい出だしで書き始めたし、後述のワープロが普及するまでは当然のことながら手紙は手書きだった。
文書の内容はともかく手書きとなれば文字の綺麗さや品格は誰にでも出せるものではなかったが、逆にどの部署にも毛筆はもとより文字を書かせたら一番という人材がいて手紙だけでなく熨斗や冠婚葬祭の時には俄然目立つ存在となった。
対外的な手紙はどの会社も大差がなかったと思うが、社内間の情報伝達にはそれぞれ独自の工夫があったように思う。私の勤務先では他の部署に電話するにも交換手を通さなければならなかったこともあり、社内恋愛の相手に意思伝達する場合も「社内便」といった手紙の制度を活用した(笑)。

本来この「社内便」とは本社内だけでなく各地の支店間や工場との文書による意思疎通のために活用されていたもので、定期的に専用車により運び出し、あるいは運び入れるといった仕組みであり、封書にしても新品の使用は厳禁で古い封書に紙を貼り、そこに宛先を書いて数度再利用していた。
本社に配送された社内便は総務部が一括して各部署別により分けて部署別の棚に入れておく仕組みだった。我々平社員はコピーのついでや文具などの消耗品を受け取りに行く際にその棚を確認するよう義務づけられていた。そして棚に入っている封書などを部署に持ち帰ってそれぞれ宛名の人の机上に置くことになっていた。
これを悪用...いや活用する強者が登場する。例えば広報のB子さんにデートの誘いをしたい場合にこの社内便を使うのだ。古い封筒を使って封をし、宛先を書き、差し出し人はそれらしく支店や工場の部課名を書くが、その書き方は予めB子さんと打ち合わせしておくことが普通だった。そして総務部の社内便棚の広報部棚に放り込んでおけばよい。
大きなトラブルがなければ一日数回の機会があり、封書は相手の机上に乗るし、宛名が明記されている封書を上司と言えども他人が開封することはまずなかったし万一他人に開けられてもある種の暗号化しておけば誰からの手紙と特定はできない。受け取った方も「なんでしょうね、嫌がらせかな」でとぼけられた(笑)。
とまあ、のどかな時代だった。
■4■ DTP
デスクトップ・パブリッシングは机上のMacとPageMakerというソフトウェア、そしてレーザープリンタで一般の印刷物に匹敵するクオリティの印刷が可能になった。Appleが実用化したシステムである。
確かにそれは凄いことだったが、一方...普通のサラリーマン、普通のOLにこれまで経験したことのない過度な期待と能力を求められることにもなった。そして仕事は格段に増えることになる。
それまでテキストだけの印刷物はもとよりだが図版や写真が入る印刷物は出入りの印刷屋に頼むのが約束事だった。電話一本で飛んできてくれたし、手書きの原稿や必要な写真ならびに図版を渡して重要なポイントを打ち合わせすればすぐに試し刷りを持ってきてくれた。そのクオリティとスピードは「さすがにプロ」と唸らせるものだった。

※最初期のAldus社PageMakerの広告(1985年)。"page layout" という言葉と共に"desktop publishing" という表記がなされている【クリックで拡大】
あるいは社内用の簡易印刷なら和文タイプライターを数台備えてありプロのお姉さんたちがいるタイプ室に行き「この文章を100枚、何日の何時までにお願いします」と依頼するのが普通だった。後はいわゆる輪転機(ガリ版)で指定枚数を印刷してくれたから一般社員の仕事は下書きだけで済んだ。
それがDTPなるものが登場し、プロの印刷屋並の能力とセンスが平凡なサラリーマンやOLに期待されるのだから怖い...。
確かにパソコンとレイアウトソフトを使えばテキストと図版を混在した数ページの会報などは比較的簡単にできる。しかしセンスは勿論だが印刷物に関するノウハウがあるわけもなし、出来たものはあちらこちらでフォントが違っていたり、必要以上の装飾やボーダーがあったりと無残な結果も多かった。
結局DTPは普通の人材にパソコンとソフトウェアの操作法を覚えさせ、ページレイアウトの基本はもとより使用する写真を自分で撮るまでに至るという大きな負荷となった。何しろそれ以前の仕事は減らないのだから。
■5■ 表計算ソフト
ビジカルクに始まる表計算誕生物語はそれ自体が面白いが、一般のサラリーマンに与えた影響は計り知れない。思い起こせば私の場合も残業の多くは計算上の縦横が合わないために読み合わせをやり、数値に間違いがないかどうか、縦と横の計算に間違いがないかを確認するためのものだったといえる。そして読み合わせには当然のことながら2人の担当が必要だったし、計算は1人では間違いを見つけづらいという経験則からこれまた2人で交互に行ったものだ。それも計算は算盤が主だった...。

※最初の表計算ソフトVisicalc。罫線はなく必要ならハイフンなどで区切りを入れる必要があった
いまでは表計算...スプレッドシートといえば "EXCEL" ということになっているが、ここに至るまでには幾多の生まれては消えて行ったソフトウェアがあった。
結果、求人募集には「WORDとEXCELが使える人」というのがポピュラーになった。しかし私たちはEXCELの使い方には精通したが計算能力が向上したわけではないのだ(笑)。
■6■ ワードプロセッサ
パソコンが登場した後、課せられた1つの使命がワードプロセッサ...すなわち電子タイプライタともいうべき文章を綴るためのソフトウェア開発だった。文字を扱うという意味ではパーソナルコンピュータはキーボードを有しタイプライタを模したことで機能面はもとより取っつきやすくなったともいえる。
ただし私らの興味はいつになったら日本語で文字入力できるのか...ということだった。そうした期待が大きかったから、やっと日本語入力と共にドットインパクトプリンターで打ち出されるようになった漢字はいま思えばギザギザだったが、随分と美しく思えたものだ。

※PC-9801で一太郎を使う筆者(1985年9月撮影)
最初はパソコンよりワープロ専用機の方が機能が特化していただけに実用になったしコストパフォーマンスも高かった。私が好んで使ったApple II はついに日本語対応にならなかったしMacintoshだって正式に日本語システムが搭載されたのは漢字Talk 1.0 (1986年)になってからだが実用となったのは漢字Talk 2.0 (1988年)になってからだった。
そしていつしかワープロを扱う事は一昔前の読み書きソロバンのように考えられたし、特にビジネスに携わる者は必須科目となっていく。
ワープロはそれまでの手書きのように字が綺麗とか癖字であるといったことで評価されるのではなく文章そのものの巧みさも問われるようになった。サラリーマンやOLたちは所属部署を問わずそれまでとは違ったスキルが求められるようになった。
■7■ 携帯電話
携帯電話の月額料金が現実的な値段になり、本体も小型になった1994年前後に最初の製品を手にした記憶がある。小さな会社の代表者であった私はいま考えてもかなり忙しかったし講演やセミナーあるいは展示会などなどで全国を飛び回っていたから連絡を取り合う手段としては最適なものだった。とはいえまだまだ通話料金は高かったから携帯電話はもっぱら受信用と考え、よほどの急用でなければ発信は公衆電話を使うようにしていた...。
よく言われることだが、いつでもどこでも連絡ができる...ということは確かに便利だし何らかの決断を急ぐ場合にはありがたいものには違いない。ただし反面こちらの意志にかかわらず呼び出し音が鳴るというのは鬱陶しいものとなる。
第一、携帯電話を使って呼び出しするほど急ぐ用事などそうそうあるのだろうか(笑)。
1970年代に会社の机上に電話機はあったがそのほとんどは取引先からの通話だったし、例えば外出している部課長にコンタクトをしたくても戻ってくるか、あるいは向こうから電話連絡があるまではどうしようもなかった。
とはいえそれが当然のことだったからほとんどの場合はイライラすることもなく時を待つしかなかった。そしてそのことで仕事に大きな支障が出たという例はほとんどなかった。
携帯電話はまた人との待ち合わせの風景を激変させた。それ以前はもしすれ違ったとしても対処方法がないため、どこで何時何分で待ち合わせだということをくどいように確認したし、特に仕事などで初対面の場合には自分の風貌や着ているもの、あるいは持ち物等まで知らせたものだ。
また大きな駅には伝言板が必ずと言ってよいほど設置されており「○○さん、先に行きます」とか「30分待ったけど、さよなら」などの伝言がびっしりと書かれていたものだ。そしてすれ違いというか約束していたとしても会えないケースも多々生じたものだったし、いま来るか...と待ち続けて1時間...といったことなども珍しくはなかった。
ただし、誰もが携帯電話やスマートフォンを所持している昨今では待ち合わせの時間はともかく場所も「○○駅の改札で」程度で済むようになった。なぜなら現地で電話を掛け合えば間違いなく会うことができるからだ。
携帯電話は人と人の出会いや仕事だけでなく我々の生き方そのものを変えた...。
■1■ パーソナルコンピュータ
まずは何といってもパソコンを抜きにしてテクノロジーの進歩は語れない。とはいえ自分の仕事を変えたテクノロジーといっても、人によりそれぞれの時代を担い、それぞれの体験があるはずだが、20世紀のテクノロジーの中で社会とビジネスを激変させた最たる物はやはりパーソナルコンピュータに違いない。
後述する「電子メール」も「DTP」あるいは「表計算ソフト」にしてもすべてパソコンがあってこそのものだ。
しかし我々はいまでは何の不思議とも思わずパソコンを仕事に活用しているが、そのパソコンが個人個人の立場で仕事に使えるようになったのは意外と後になってからだ。
確かにApple II は1977年に登場したしコモドール社のオールインワンパソコンPET2001を手にしたのは1978年だった。その後、これはと思う多くのパソコンを手に入れてみたが日本語対応されておらず、手軽に自分たちの仕事に取り入れることはできなかった。無論英語圏のユーザーならApple II とプリンタがあれば実用となったに違いないが...。
個人的にパソコンが仕事で使えるという思いをしたのは1982年に登場したNEC-9801、1983年に登場したIBM5550あたりからだった。Macintoshは1984年にリリースされたがオフィシャルに日本語化されたのは1986年のMacintosh Plusに「漢字Talk 1.0」が搭載されたのが最初だった。ではそれで即仕事に使えたかといえばメモリの少なさ、アプリケーションの少なさなどの理由から極限定された範囲でしか実用にはならなかった。

※1984年、自宅でIBM 5550を前にした筆者
私がパソコンを本当の意味で仕事に密着する形で使い始めたのは1989年に起業してからだった。そしていわゆる経理事務はもとより顧客管理や対外的な印刷物の作成などすべてをMacintoshで可能になったのはさらに数年が必要だった。
ただし振り返って見ると仕事にパソコンが導入されたことで我々1人1人は仕事が楽になったのだろうか?
現実は、手際がよくなり仕事の仕上がりが速くなった分だけ別の新しい仕事を任されるし、パソコンのハード・ソフトに関わるあれこれで従来には考えられない程、新しい事を覚えなければならなくなった。
1人のサラリーマンとしてパソコンが登場したからといって楽になったという感じはまったくといってなかった...。
現在からの視点から眺めるとパソコン無くしてどのように仕事ができるのか...と不思議な感覚に陥るが、1970年代から1990年ほどの間、パソコンも携帯電話もないのに任された任務はきちんとこなしていたはずだ。パソコンは仕事の効率を高めると同時に高度な意志決定にも重要だと思われているが、それを使うのは我々サラリーマンでありOLだ。果たしてパソコンは我々の見方なのだろうか...。
マイコンやパソコンといったものと約40年ほど格闘してきた1人として振り返れば、確かにパソコンを通じて...例えばインターネットといった新しいテクノロジーを知り、活用する術を学べたことは間違いないが、振り返れば文字を手書きで書けなくなったし友人知人たちの住所はもとより、電話番号でさえほとんど携帯電話のメモリ内に頼りきりで覚えていない自分に気づく。
外出時に財布を忘れても慌てないがiPhoneを忘れると不安でしようがない...。これはある種の依存症であり能力の視点から見て退化ではないのか...。
■2■ ボールペン
経理業務で総勘定元帳や仕入帳といったバインダー形式の元帳記入はつけペンとインクだった。家庭ではさすがにつけペンなどには縁がなかったから最初は戸惑ったが、例え自前の万年筆を持っていても使うことは禁止されていたから選択肢はなかった。
勿論間違った時は二本線で消し、訂正印を押した上で空いている場所に書き直すか、場合によっては砂消しゴムなどで完全に消し去って書き直したが、上書きはインクが滲むので閉口した。
いつの頃からボールペンの使用が許されたかは記憶にないが、当初は公文書への使用が認められなかったもののちょうど1970年代頃から少しずつ使われていったと思う。しかし鉛筆もそうだったが、職場でのボールペン利用はかなりシビアで、インクがなくなったボールペンを総務部へ持って行かない限り新しいものは支給されなかった。
ボールペンはたまにボールの先にインクの塊がこびりつき、それが用紙を汚すこともあったが、つけペンとは比較にならない便利さがあった。
ではなぜブルーブラックのインクと付けペンだったのか...。それには大きな理由があった。すでに40年も前の事だからお話しするが、帳簿がバインダー式だったことと関係する。経理上のことなのか財務的な関係なのかは平社員には判断が付かなかったが要は後で都合の良いように元帳を書き直すことができたからだと聞かされた。
用紙はコクヨ製だがそれらは年代を重ねると変色するが、日常ページを増やすためのものとは別に交換用の古い記入用紙が保存されていた。古い元帳の数ページが新しい用紙では誰が見ても書き換えたと分かるからだ。用紙はそうした配慮でなんとかなったが問題はインクであった。
新しく記入した文字と数年経過したページの文字を比較するとそのインクが経時変化で変色していた。現在のインクは分からないがその時代はまだそうしたインクがあったということだ。では...とあるページを後になって入れ替える場合にはどうするか...。くどいようだが用紙は古い用紙を使うにしろそこに記入したインクが見るも新しいものではこれまた変だ。
実は記入したインクの上に火を付けたタバコの先を近づけて熱を加えると書いたばかりのインクが変色してまるで数年あるいは十数年経過したように見えるのだった。ただし近づけ過ぎればせっかくの用紙が熱で焦げ、一ページ、あるいは裏表を全部書き直すハメとなった(笑)。
ボールペンはそうした不正を許してくれない新しい文具だった。思えば会社に大型コンピュータが導入された時期になってボールペンは社内で急速に普及した。そしてボールペンの利用は鉛筆やペンとは違い、強めの筆圧が必要なこと、線の太さが均一なことなどから大げさに言えば筆記の方法まで変化させたペンとなった。
■3■ 電子メール
電子メールの台頭は迅速に相手へメッセージを届けることが可能になっただけでなく、ビジネススタイルや価値観も変えるものとなった。
FAXが登場してもしばらくの間、いわゆるオフィシャルな内容のものは封書で送ることが礼儀であると教えられた。したがってその文面も「拝啓、貴社益々御清祥の段、お慶び申し上げます...」といった定型の堅苦しい出だしで書き始めたし、後述のワープロが普及するまでは当然のことながら手紙は手書きだった。
文書の内容はともかく手書きとなれば文字の綺麗さや品格は誰にでも出せるものではなかったが、逆にどの部署にも毛筆はもとより文字を書かせたら一番という人材がいて手紙だけでなく熨斗や冠婚葬祭の時には俄然目立つ存在となった。
対外的な手紙はどの会社も大差がなかったと思うが、社内間の情報伝達にはそれぞれ独自の工夫があったように思う。私の勤務先では他の部署に電話するにも交換手を通さなければならなかったこともあり、社内恋愛の相手に意思伝達する場合も「社内便」といった手紙の制度を活用した(笑)。

本来この「社内便」とは本社内だけでなく各地の支店間や工場との文書による意思疎通のために活用されていたもので、定期的に専用車により運び出し、あるいは運び入れるといった仕組みであり、封書にしても新品の使用は厳禁で古い封書に紙を貼り、そこに宛先を書いて数度再利用していた。
本社に配送された社内便は総務部が一括して各部署別により分けて部署別の棚に入れておく仕組みだった。我々平社員はコピーのついでや文具などの消耗品を受け取りに行く際にその棚を確認するよう義務づけられていた。そして棚に入っている封書などを部署に持ち帰ってそれぞれ宛名の人の机上に置くことになっていた。
これを悪用...いや活用する強者が登場する。例えば広報のB子さんにデートの誘いをしたい場合にこの社内便を使うのだ。古い封筒を使って封をし、宛先を書き、差し出し人はそれらしく支店や工場の部課名を書くが、その書き方は予めB子さんと打ち合わせしておくことが普通だった。そして総務部の社内便棚の広報部棚に放り込んでおけばよい。
大きなトラブルがなければ一日数回の機会があり、封書は相手の机上に乗るし、宛名が明記されている封書を上司と言えども他人が開封することはまずなかったし万一他人に開けられてもある種の暗号化しておけば誰からの手紙と特定はできない。受け取った方も「なんでしょうね、嫌がらせかな」でとぼけられた(笑)。
とまあ、のどかな時代だった。
■4■ DTP
デスクトップ・パブリッシングは机上のMacとPageMakerというソフトウェア、そしてレーザープリンタで一般の印刷物に匹敵するクオリティの印刷が可能になった。Appleが実用化したシステムである。
確かにそれは凄いことだったが、一方...普通のサラリーマン、普通のOLにこれまで経験したことのない過度な期待と能力を求められることにもなった。そして仕事は格段に増えることになる。
それまでテキストだけの印刷物はもとよりだが図版や写真が入る印刷物は出入りの印刷屋に頼むのが約束事だった。電話一本で飛んできてくれたし、手書きの原稿や必要な写真ならびに図版を渡して重要なポイントを打ち合わせすればすぐに試し刷りを持ってきてくれた。そのクオリティとスピードは「さすがにプロ」と唸らせるものだった。

※最初期のAldus社PageMakerの広告(1985年)。"page layout" という言葉と共に"desktop publishing" という表記がなされている【クリックで拡大】
あるいは社内用の簡易印刷なら和文タイプライターを数台備えてありプロのお姉さんたちがいるタイプ室に行き「この文章を100枚、何日の何時までにお願いします」と依頼するのが普通だった。後はいわゆる輪転機(ガリ版)で指定枚数を印刷してくれたから一般社員の仕事は下書きだけで済んだ。
それがDTPなるものが登場し、プロの印刷屋並の能力とセンスが平凡なサラリーマンやOLに期待されるのだから怖い...。
確かにパソコンとレイアウトソフトを使えばテキストと図版を混在した数ページの会報などは比較的簡単にできる。しかしセンスは勿論だが印刷物に関するノウハウがあるわけもなし、出来たものはあちらこちらでフォントが違っていたり、必要以上の装飾やボーダーがあったりと無残な結果も多かった。
結局DTPは普通の人材にパソコンとソフトウェアの操作法を覚えさせ、ページレイアウトの基本はもとより使用する写真を自分で撮るまでに至るという大きな負荷となった。何しろそれ以前の仕事は減らないのだから。
■5■ 表計算ソフト
ビジカルクに始まる表計算誕生物語はそれ自体が面白いが、一般のサラリーマンに与えた影響は計り知れない。思い起こせば私の場合も残業の多くは計算上の縦横が合わないために読み合わせをやり、数値に間違いがないかどうか、縦と横の計算に間違いがないかを確認するためのものだったといえる。そして読み合わせには当然のことながら2人の担当が必要だったし、計算は1人では間違いを見つけづらいという経験則からこれまた2人で交互に行ったものだ。それも計算は算盤が主だった...。

※最初の表計算ソフトVisicalc。罫線はなく必要ならハイフンなどで区切りを入れる必要があった
いまでは表計算...スプレッドシートといえば "EXCEL" ということになっているが、ここに至るまでには幾多の生まれては消えて行ったソフトウェアがあった。
結果、求人募集には「WORDとEXCELが使える人」というのがポピュラーになった。しかし私たちはEXCELの使い方には精通したが計算能力が向上したわけではないのだ(笑)。
■6■ ワードプロセッサ
パソコンが登場した後、課せられた1つの使命がワードプロセッサ...すなわち電子タイプライタともいうべき文章を綴るためのソフトウェア開発だった。文字を扱うという意味ではパーソナルコンピュータはキーボードを有しタイプライタを模したことで機能面はもとより取っつきやすくなったともいえる。
ただし私らの興味はいつになったら日本語で文字入力できるのか...ということだった。そうした期待が大きかったから、やっと日本語入力と共にドットインパクトプリンターで打ち出されるようになった漢字はいま思えばギザギザだったが、随分と美しく思えたものだ。

※PC-9801で一太郎を使う筆者(1985年9月撮影)
最初はパソコンよりワープロ専用機の方が機能が特化していただけに実用になったしコストパフォーマンスも高かった。私が好んで使ったApple II はついに日本語対応にならなかったしMacintoshだって正式に日本語システムが搭載されたのは漢字Talk 1.0 (1986年)になってからだが実用となったのは漢字Talk 2.0 (1988年)になってからだった。
そしていつしかワープロを扱う事は一昔前の読み書きソロバンのように考えられたし、特にビジネスに携わる者は必須科目となっていく。
ワープロはそれまでの手書きのように字が綺麗とか癖字であるといったことで評価されるのではなく文章そのものの巧みさも問われるようになった。サラリーマンやOLたちは所属部署を問わずそれまでとは違ったスキルが求められるようになった。
■7■ 携帯電話
携帯電話の月額料金が現実的な値段になり、本体も小型になった1994年前後に最初の製品を手にした記憶がある。小さな会社の代表者であった私はいま考えてもかなり忙しかったし講演やセミナーあるいは展示会などなどで全国を飛び回っていたから連絡を取り合う手段としては最適なものだった。とはいえまだまだ通話料金は高かったから携帯電話はもっぱら受信用と考え、よほどの急用でなければ発信は公衆電話を使うようにしていた...。
よく言われることだが、いつでもどこでも連絡ができる...ということは確かに便利だし何らかの決断を急ぐ場合にはありがたいものには違いない。ただし反面こちらの意志にかかわらず呼び出し音が鳴るというのは鬱陶しいものとなる。
第一、携帯電話を使って呼び出しするほど急ぐ用事などそうそうあるのだろうか(笑)。
1970年代に会社の机上に電話機はあったがそのほとんどは取引先からの通話だったし、例えば外出している部課長にコンタクトをしたくても戻ってくるか、あるいは向こうから電話連絡があるまではどうしようもなかった。
とはいえそれが当然のことだったからほとんどの場合はイライラすることもなく時を待つしかなかった。そしてそのことで仕事に大きな支障が出たという例はほとんどなかった。
携帯電話はまた人との待ち合わせの風景を激変させた。それ以前はもしすれ違ったとしても対処方法がないため、どこで何時何分で待ち合わせだということをくどいように確認したし、特に仕事などで初対面の場合には自分の風貌や着ているもの、あるいは持ち物等まで知らせたものだ。
また大きな駅には伝言板が必ずと言ってよいほど設置されており「○○さん、先に行きます」とか「30分待ったけど、さよなら」などの伝言がびっしりと書かれていたものだ。そしてすれ違いというか約束していたとしても会えないケースも多々生じたものだったし、いま来るか...と待ち続けて1時間...といったことなども珍しくはなかった。
ただし、誰もが携帯電話やスマートフォンを所持している昨今では待ち合わせの時間はともかく場所も「○○駅の改札で」程度で済むようになった。なぜなら現地で電話を掛け合えば間違いなく会うことができるからだ。
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