1984年に作ったApple II用のプログラムリストが見つかった!
自分の過去を振り返るのは些か躊躇する部分もあるが、この歳になると若い頃のパワーが懐かしくなることは事実である。先日古い資料群を整理していたら、24年前にApple II用として作ったアダルトゲームのプログラムリストが出てきて我ながら思わず見入ってしまった...。 オールドな話しだが今回はMacではなくApple IIの思い出である。
私自身は最新のMacintoshプログラミング事情を認識しているつもりだがそれはあくまで知識としてであり、自身で現在の高度なプログラミングができるわけではない。
とはいっても私がマイコンとかパソコンを始めた時期はBASIC全盛期であり、ある意味BASICを知らずしてパソコンを語るなかれ...といった風潮まであったから、一時は人並み以上にそのプログラミングに没頭した時期もあった。
後年何が因果か自身がソフトウェア開発会社を起業することになったが、そのとき「プログラマでもないのによくソフトハウスの社長などやってられますね」といった意味のことを何回も言われたことがあった(笑)。
その云わんと言うことはよくわかる。プログラミングができないということはソフトウェアに関して無知であり、ましてやソフトハウスの社長として新製品開発やその商品化に支障があるのではないか...と思われたらしい。
無論世の中には社長自らプログラマだという会社もあるし、大きな組織になればまったくその必要性を問われない企業もありさまざまだ。しかし起業した1989年当時はそんなことを云われる時代だったのである。
ともあれ私は社長としての役割を綺麗なことばでいうなら、会社が生み出すソフトウェアの企画ならびにプロデュースとそれを広め販売するための営業や演出にあると考えていたからそうした声も正直気にならなかった。
というより意地悪な私はそうした見られ方を逆手にとって相手と交渉をすることもあった。
時に私はプログラミングなどこれっぽっちも知らない振りをして商談相手であるプログラマの開発能力を測ったり、相手に話したいだけ話をさせたその後にギャフンと云わせたりして楽しんだこともあった(笑)。
したがって例えばC言語によるソースコードは書けないとしてもプログラムとはどういうものなのか、プログラムに何が重要でポイントはどこにあるかは熟知していたからまったく困ったことはなかった。
それに会社にはMacのプログラミングに関して最高の人材がいたし、必要ならいつでも知りたいことを問うことができた。彼らはプログラマではない私に平たく分かりやすい解説をしてくれたから私自身ソフトウェア開発のためにプログラミングの必要性を考えたことはなかった。
そういえば私の会社の社員ではなかったが、当時一緒にボストンのMacworld Expoへ行き、ボストン美術館などを回ったプログラマで博識のFさんなどもプログラミングのキモの話になると私に向かってそれこそ噛んで含めるように例を上げ、子供に諭すように教えてくれたことも懐かしい...。
とはいえ1980年代にBASICに夢中になったことは大変役に立った。開発言語やそのレベルは違うものの多くのソフトウェア開発ビジネスにその時の基本知識は血となり肉となったのである。
そのBASICに対する情熱の頂点が1984年にアスキー社「LOGIN誌」主催の「アダルトソフトウェアコンテスト」に応募した経験だった。

※アスキー月刊LOGINの1984年10月号表紙。「アダルトソフトウェアコンテスト グランプリ発表」が載っている
応募するからには納得いく内容でなければならないし、ましてや選に入ることを目標にするならインパクトの強いものでなければならならないと作品名には「Sexy Gals Game - OSAWARI」という些か下品な命名も考えた(笑)。 そうした作戦が功をそうしたのか、結果として約4ヶ月ほどかけて開発し応募したApple II用のアダルトゲームは入選を果たし賞金5万円を得た。
しかしその賞金より嬉しかったのは自分の頭の中にあることを少しずつでも機能としてソフトウェアに実装していくことができたその醍醐味だった。ひとつの壁を突破するのに数日悩み続けることも多々あったが、文字通り何かの瞬間に解決方法が閃くという一種不思議な体験は得難いものだったし、本職のプログラマの業を垣間見た思いがしたものだ。
やはり締め切りがない単なる趣味の世界に閉じた状況ならあれほどの力は出なかったように思う。
その後、5インチのフロッピーディスクを媒体に簡単なコピープロテクション処理やパッケージまでを自分で作ったこのゲームは当時アップル製品の総本山であったイーエスディラボラトリ社のショップで販売されることになった。そして国産のApple II用ゲームとしては珍しいことだったが、あっという間に限定100本が売れてしまったのである(笑)。

※当時「アップルマガジン」に掲載の広告。一部自主規制している(笑)
その後すっかり処分してしまったものと思っていたそのゲームのソースリストが先日雑誌に挟まれた形で見つかったのである。
おそらくEPSONのドックマトリックス・プリンタでプリントアウトしたものだろうが、連続用紙の左右にパーフォーレーションが付いたままの懐かしい姿で出てきた。

※今回見つかった「OSAWARI」のプログラムリスト(上)とその一部(下)。この程度の長さだとREM文がなくても理解できたらしい...
空気に触れていなかったからか、用紙の黄ばみも少なく、サインペンなどでの書き込みも滲んでないため1年前にプリントアウトした...といっても通用する姿だったが、どうやらこれはフィックスした最終バージョンではないようだ...。
すでにApple IIのBASICコマンドやマシン語ルーチンの詳細は忘れてしまったが、冒頭の“POKE 1010,102: POKE 1011,213” などを眺めていると当時熱くなっていた時のことを思い出す。
それにしても近所にあった古本屋で著作権が切れた古いヌード写真集を買ってきてはプログラミングに疲れるとApple IIのビデオデジタイザで画像入力していたものだが、そのとき女房には随分と呆れられていた...(笑)。
ところでMacのアダルトゲームとしては「Mac Playmate」(1986年)が先駆者として知られている。
Toy Boxから大人のオモチャを選び、それを女性に向けて操作するとリアルな声を出す...といったものだったが、そのインタラクティブな作りおよび人に覗かれそうになったとき、画面表示を表計算風に変えるパニックボタンは大変話題になったものだ。しかしジョイステックやパドルで掌を動かし、ビデオデジタイザによる女性の映像(裸)に触れると声を出したり(モッキンボードというスピーチシンセサイザをサポートしていた)音楽が流れるといったことをその2年も前にApple IIで実現させたことは私のパソコン人生にとって誇っても良い出来事だと自負している(笑)。
後にあるMac月刊誌の編集長は「OSAWARI」を「映像とサウンド、そして音声などを十分に活用したGUIとそのインタラクティブな操作性を考えると、これこそ最初のマルチメディア作品だ」と評してくださった。
その後ニンテンドーDS用アドベンチャーゲームに「おさわり探偵 小沢里奈」(2006年)などという製品が登場したときにはその命名に笑ったものだが、人の考えることはいつの世もそんなに変わらないということをあらためて実感したものだ。
私自身は最新のMacintoshプログラミング事情を認識しているつもりだがそれはあくまで知識としてであり、自身で現在の高度なプログラミングができるわけではない。
とはいっても私がマイコンとかパソコンを始めた時期はBASIC全盛期であり、ある意味BASICを知らずしてパソコンを語るなかれ...といった風潮まであったから、一時は人並み以上にそのプログラミングに没頭した時期もあった。
後年何が因果か自身がソフトウェア開発会社を起業することになったが、そのとき「プログラマでもないのによくソフトハウスの社長などやってられますね」といった意味のことを何回も言われたことがあった(笑)。
その云わんと言うことはよくわかる。プログラミングができないということはソフトウェアに関して無知であり、ましてやソフトハウスの社長として新製品開発やその商品化に支障があるのではないか...と思われたらしい。
無論世の中には社長自らプログラマだという会社もあるし、大きな組織になればまったくその必要性を問われない企業もありさまざまだ。しかし起業した1989年当時はそんなことを云われる時代だったのである。
ともあれ私は社長としての役割を綺麗なことばでいうなら、会社が生み出すソフトウェアの企画ならびにプロデュースとそれを広め販売するための営業や演出にあると考えていたからそうした声も正直気にならなかった。
というより意地悪な私はそうした見られ方を逆手にとって相手と交渉をすることもあった。
時に私はプログラミングなどこれっぽっちも知らない振りをして商談相手であるプログラマの開発能力を測ったり、相手に話したいだけ話をさせたその後にギャフンと云わせたりして楽しんだこともあった(笑)。
したがって例えばC言語によるソースコードは書けないとしてもプログラムとはどういうものなのか、プログラムに何が重要でポイントはどこにあるかは熟知していたからまったく困ったことはなかった。
それに会社にはMacのプログラミングに関して最高の人材がいたし、必要ならいつでも知りたいことを問うことができた。彼らはプログラマではない私に平たく分かりやすい解説をしてくれたから私自身ソフトウェア開発のためにプログラミングの必要性を考えたことはなかった。
そういえば私の会社の社員ではなかったが、当時一緒にボストンのMacworld Expoへ行き、ボストン美術館などを回ったプログラマで博識のFさんなどもプログラミングのキモの話になると私に向かってそれこそ噛んで含めるように例を上げ、子供に諭すように教えてくれたことも懐かしい...。
とはいえ1980年代にBASICに夢中になったことは大変役に立った。開発言語やそのレベルは違うものの多くのソフトウェア開発ビジネスにその時の基本知識は血となり肉となったのである。
そのBASICに対する情熱の頂点が1984年にアスキー社「LOGIN誌」主催の「アダルトソフトウェアコンテスト」に応募した経験だった。

※アスキー月刊LOGINの1984年10月号表紙。「アダルトソフトウェアコンテスト グランプリ発表」が載っている
応募するからには納得いく内容でなければならないし、ましてや選に入ることを目標にするならインパクトの強いものでなければならならないと作品名には「Sexy Gals Game - OSAWARI」という些か下品な命名も考えた(笑)。 そうした作戦が功をそうしたのか、結果として約4ヶ月ほどかけて開発し応募したApple II用のアダルトゲームは入選を果たし賞金5万円を得た。
しかしその賞金より嬉しかったのは自分の頭の中にあることを少しずつでも機能としてソフトウェアに実装していくことができたその醍醐味だった。ひとつの壁を突破するのに数日悩み続けることも多々あったが、文字通り何かの瞬間に解決方法が閃くという一種不思議な体験は得難いものだったし、本職のプログラマの業を垣間見た思いがしたものだ。
やはり締め切りがない単なる趣味の世界に閉じた状況ならあれほどの力は出なかったように思う。
その後、5インチのフロッピーディスクを媒体に簡単なコピープロテクション処理やパッケージまでを自分で作ったこのゲームは当時アップル製品の総本山であったイーエスディラボラトリ社のショップで販売されることになった。そして国産のApple II用ゲームとしては珍しいことだったが、あっという間に限定100本が売れてしまったのである(笑)。

※当時「アップルマガジン」に掲載の広告。一部自主規制している(笑)
その後すっかり処分してしまったものと思っていたそのゲームのソースリストが先日雑誌に挟まれた形で見つかったのである。
おそらくEPSONのドックマトリックス・プリンタでプリントアウトしたものだろうが、連続用紙の左右にパーフォーレーションが付いたままの懐かしい姿で出てきた。

※今回見つかった「OSAWARI」のプログラムリスト(上)とその一部(下)。この程度の長さだとREM文がなくても理解できたらしい...
空気に触れていなかったからか、用紙の黄ばみも少なく、サインペンなどでの書き込みも滲んでないため1年前にプリントアウトした...といっても通用する姿だったが、どうやらこれはフィックスした最終バージョンではないようだ...。
すでにApple IIのBASICコマンドやマシン語ルーチンの詳細は忘れてしまったが、冒頭の“POKE 1010,102: POKE 1011,213” などを眺めていると当時熱くなっていた時のことを思い出す。
それにしても近所にあった古本屋で著作権が切れた古いヌード写真集を買ってきてはプログラミングに疲れるとApple IIのビデオデジタイザで画像入力していたものだが、そのとき女房には随分と呆れられていた...(笑)。
ところでMacのアダルトゲームとしては「Mac Playmate」(1986年)が先駆者として知られている。
Toy Boxから大人のオモチャを選び、それを女性に向けて操作するとリアルな声を出す...といったものだったが、そのインタラクティブな作りおよび人に覗かれそうになったとき、画面表示を表計算風に変えるパニックボタンは大変話題になったものだ。しかしジョイステックやパドルで掌を動かし、ビデオデジタイザによる女性の映像(裸)に触れると声を出したり(モッキンボードというスピーチシンセサイザをサポートしていた)音楽が流れるといったことをその2年も前にApple IIで実現させたことは私のパソコン人生にとって誇っても良い出来事だと自負している(笑)。
後にあるMac月刊誌の編集長は「OSAWARI」を「映像とサウンド、そして音声などを十分に活用したGUIとそのインタラクティブな操作性を考えると、これこそ最初のマルチメディア作品だ」と評してくださった。
その後ニンテンドーDS用アドベンチャーゲームに「おさわり探偵 小沢里奈」(2006年)などという製品が登場したときにはその命名に笑ったものだが、人の考えることはいつの世もそんなに変わらないということをあらためて実感したものだ。
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