「聾瞽指歸」をご存じですか?
ニューヨークのメトロポリタン美術館などにいくとその収蔵品はもとよりミュージアム・グッズの豊富さに圧倒される。しかし日本の博物館はそれが貧弱だったが近年だいぶ豊富な品ぞろいとなってはいることは喜ばしいと思っている。今回は大昔に京都国立博物館で求めた弘法大師著作「聾瞽指歸(ろうこしいき)」のレプリカをとりあげる。
■歴史上の興味ある巨人
もしここにタイムマシンがあり、歴史上の人物の誰にでも会うことができるなら貴方は誰を希望するだろうか。
私には日本の歴史上会って話をしたい人物が3人いる。笑わないで聴いて欲しい...。その3人とは聖徳太子と弘法大師空海、そして幕末に無血開城を導いたあの勝海舟である。
なぜこの3人なのかと問われてもいまはその理由を聞いていただく場ではない。しかしなかでも弘法大師空海は宗教家として歴史に大きな足跡を残したことを別にしても日本の歴史上希有な人物でありいわゆる万能の天才だったようである。奇しくもあの司馬遼太郎氏も自著「空海の風景」において「空海を肉眼でみたい...」といわれている。
さて、万能の天才というと私たちはすぐにあのレオナルド・ダ・ヴィンチを思い出すが、彼と比べられるような歴史上の日本人を思い出そうとしても残念ながら難しい。せいぜい名高い戦国武将たちや一部の学者・芸術家程度しか頭に浮かんでこない。
結局「万能の天才」といったキャッチフレーズに当てはまるほどスケールの大きい人物は日本には生まれてこなかったようにも思える。
しかし空海...後の弘法大師だけは世界の天才達と肩をならべても遜色のないほど多方面で実績を残し、伝説的な語りぐさになっているだけでなく事実後世に大きな影響を残した巨人であった。
第十六次遣唐使として当時の世界一近代国家であった唐に渡った時、通訳がいらなかったといわれるその言語能力やかの地の一級の知識人たちが舌を巻いた文章力、さらに後に嵯峨天皇と橘逸勢(たちばなのはやなり)らと三名筆と呼ばれたことを考えるとまさしく超人である。そして故郷の満濃池による水害を救った土木技術はもとより、日本に筆の工法を持ち込んだとされる話やいろは唄の作者だとされる伝説も彼ならあり得ると思わせるリアリティを持っている。事実、空海は唐から真言密教と共に当時最先端の文化やテクノロジーをも持ち帰ったのだ。

※京都国立博物館内のミュージアムショップで購入した「聾瞽指歸」と弘法大師空海像の軸
話を戻そう...。今回のテーマだがその空海が唐に渡るはるか前、延暦十六年(797)十二月、彼が二十四歳のとき(一説では二十五歳)に書き上げた一種の戯曲作品であり優れた漢文で書かれているという「聾瞽指歸(ろうこしいき)」である。
この原本は高野山金剛峯寺所有物としてその霊宝館に保管されている国宝であり、弘法大師空海の真筆とされているものだ。どうやらもともとは一巻の巻物だったようだが現存している物は上下二巻に分かれた巻子本であり、わが国漢文学史上の白眉とされる貴重なものなのである。
そのような国宝とMacテクノロジー研究所にどんな関係があるのかといえば、実は以前「聾瞽指歸」の複製縮小版を京都国立博物館内のミュージアムショップで購入し愛蔵しているからだ。
■「聾瞽指歸」とは?
興味深いことに弘法大師の作として「聾瞽指歸」とほとんど同じ内容の「三教指歸(さんごうしいき)」という作品がある。その違いとしては序文と巻末にある詩が違うものの、その他の大部分でほんの少しの字句を変えている程度だという。どうやら「聾瞽指歸」が原作であり「三教指歸」はそれを書きあらためたということらしい。ちなみに「聾瞽指歸」とは「無知の者に生きる価値...仏道への指針をさし示す」といった程度の意味のようである。
さて空海は十五歳の時に都にのぼり、十八歳の時に当時の中国の制度をまねて設けられた大学に入学している。またそれ以前においても母方の叔父にあたる阿刀大足(あとのおおたり)という当代一流の漢学者について漢籍を習っていたというから中国語はもとより経書や中国文学についても当時から相当な知識を身につけていたと思われる。しかしその後の彼の行動や著作などから察するに世俗的な栄達を目指す教義としての儒教に満足できず、大学を中退し仏教に傾倒していった。
仏門に入ることに反対した親族たちに空海は「私が思うに、人間にはいろいろの性質があるので、それに応じて聖人の教えも三種ある。それは仏教と道教と儒教である。教義に深いと浅いの相違はあろうが、いずれも聖人の教えであって、どれか一つに入れば、忠孝にもとることはない」という言葉を残しているという。
当時聖人の教えとされていたものに仏教・道教・儒教の三つがあったが「いろいろと良い教えはあるけれども結局仏教が一番優れており、仏教は素晴らしい」とその理由を表明しているのが「聾瞽指歸」なのである。
それも戯曲風に仕立て、亀毛(きぼう)先生という登場人物に儒教を説かせ、虚亡隠士(きょぼういんじ)が道教を語り、そして仮名乞児(かめいこつじ)は仏教を説く。そして結局は仏教の真理がもっとも優れている事を皆が納得するまでの経過を対話により解説している。
いい換えれば「聾瞽指歸」は若い日の空海自身の思想遍歴や実体験を基として自らの決心を述べたものであり、仮名乞児は当時山野に入り苦行・荒行を実践していた自分の姿を映したものといわれている。
この「聾瞽指歸」が注目されるのはその後膨大な著作を残すことになる空海の第一作であることだ。
私が所持しているものは冒頭にも記したとおり京都国立博物館において買い求めたものだが、昭和48年(1973)に株式会社便利堂から出版されたものらしい。
それは縮小版とはいえ原本と同じく上下二巻の巻子本になっているのでただ単に活字本を見るより雰囲気が伝わってきて大変好ましい。また解説書として高野山霊宝館々長の山本知教氏になる小誌が付いている。
ただしいうまでもなく中国六朝から唐代にかけて使われた四六駢儷体(しろくべんれいたい)で書かれた空海の直筆を私がそのまま読める訳はない。
日常愛読しているのは「弘法大師 空海全集」(筑摩書房刊)であり、ここには読み下し文と口語訳、そして大変詳しい解説などが載っている。

※「聾瞽指歸」のセット内容
ところでこれまで何回か「巻子本」と表記したがこれは「かんすぼん」あるいは「けんすぼん」と読む。念のため記せば「巻子本」とは近年のような冊子形式をとる以前に行われた図書の古い形の装丁であり、俗に巻物といわれることは周知のとおりである。
絹や和紙を横に長く継ぎ合わせ、軸を芯(しん)にして巻いたもので中国では後漢から唐にかけて広く行われたが、わが国へは奈良時代に伝えられ、以来江戸時代まで経巻や絵巻物などに多く使われた形式だという。
■空海グッズも…
司馬遼太郎氏によれば戯曲の形で思想の優劣論を書いた例は中国にもないはずのようだ。ともかく1200年ほども昔、それも24歳の青年の頭脳から生み出された「聾瞽指歸」は仏教に興味はない人でも一読に値すると思う。いまでは平易な現代日本語訳も出ている。
とまあ...そんな具合だから私は空海ファンである(笑)。したがって京都に寄れば必ずといってよいほど教王護国寺(東寺)に足が向く。そしてその国宝館をはじめ金堂や講堂を廻り、大日如来脇侍の月光菩薩に「また来たよ!」などと心の内で声をかける。
その東寺は西寺と共に平安京の正面に位置する官寺であったが弘仁十四年(823)に弘法大師空海に勅賜され、空海はその東寺を真言密教の根本道場とした。まあ空海にとっては高野山は即身成仏を目指す修業の道場、そして東寺は一般大衆に向けての教化道場といった性格であり、ちょうど密教の両界曼陀羅すなわち金剛界曼陀羅と胎蔵界曼陀羅のように切ってもきれない車の両輪のような存在だったに違いない。
その後「聾瞽指歸」に味をしめた私は東寺において空海を描いた軸なども手に入れた。特に気に入っているのは密教の法具のひとつである「独鈷(とっこ)」のミニチュアだが、これはペーパーウェイトの代わりとして大変重宝している。

※東寺で購入した独鈷。ペーパーウェイトとしても重宝している
【参考文献】
・「弘法大師 空海全集」筑摩書房刊
・「国宝 聾瞽指歸 解説」便利堂刊
・「空海秘伝」東洋経済新報社刊/寺林峻著
・「空海の風景 上下巻」中公文庫/司馬遼太郎著
・「空海の思想について」講談社学術文庫/梅原猛著
・「曼陀羅の人 上下巻」TBSブリタニカ/陳舜臣著
※本稿は2000年にMac Fan誌に連載した「松田純一の好物学」の原稿を再編集したものです。
■歴史上の興味ある巨人
もしここにタイムマシンがあり、歴史上の人物の誰にでも会うことができるなら貴方は誰を希望するだろうか。
私には日本の歴史上会って話をしたい人物が3人いる。笑わないで聴いて欲しい...。その3人とは聖徳太子と弘法大師空海、そして幕末に無血開城を導いたあの勝海舟である。
なぜこの3人なのかと問われてもいまはその理由を聞いていただく場ではない。しかしなかでも弘法大師空海は宗教家として歴史に大きな足跡を残したことを別にしても日本の歴史上希有な人物でありいわゆる万能の天才だったようである。奇しくもあの司馬遼太郎氏も自著「空海の風景」において「空海を肉眼でみたい...」といわれている。
さて、万能の天才というと私たちはすぐにあのレオナルド・ダ・ヴィンチを思い出すが、彼と比べられるような歴史上の日本人を思い出そうとしても残念ながら難しい。せいぜい名高い戦国武将たちや一部の学者・芸術家程度しか頭に浮かんでこない。
結局「万能の天才」といったキャッチフレーズに当てはまるほどスケールの大きい人物は日本には生まれてこなかったようにも思える。
しかし空海...後の弘法大師だけは世界の天才達と肩をならべても遜色のないほど多方面で実績を残し、伝説的な語りぐさになっているだけでなく事実後世に大きな影響を残した巨人であった。
第十六次遣唐使として当時の世界一近代国家であった唐に渡った時、通訳がいらなかったといわれるその言語能力やかの地の一級の知識人たちが舌を巻いた文章力、さらに後に嵯峨天皇と橘逸勢(たちばなのはやなり)らと三名筆と呼ばれたことを考えるとまさしく超人である。そして故郷の満濃池による水害を救った土木技術はもとより、日本に筆の工法を持ち込んだとされる話やいろは唄の作者だとされる伝説も彼ならあり得ると思わせるリアリティを持っている。事実、空海は唐から真言密教と共に当時最先端の文化やテクノロジーをも持ち帰ったのだ。

※京都国立博物館内のミュージアムショップで購入した「聾瞽指歸」と弘法大師空海像の軸
話を戻そう...。今回のテーマだがその空海が唐に渡るはるか前、延暦十六年(797)十二月、彼が二十四歳のとき(一説では二十五歳)に書き上げた一種の戯曲作品であり優れた漢文で書かれているという「聾瞽指歸(ろうこしいき)」である。
この原本は高野山金剛峯寺所有物としてその霊宝館に保管されている国宝であり、弘法大師空海の真筆とされているものだ。どうやらもともとは一巻の巻物だったようだが現存している物は上下二巻に分かれた巻子本であり、わが国漢文学史上の白眉とされる貴重なものなのである。
そのような国宝とMacテクノロジー研究所にどんな関係があるのかといえば、実は以前「聾瞽指歸」の複製縮小版を京都国立博物館内のミュージアムショップで購入し愛蔵しているからだ。
■「聾瞽指歸」とは?
興味深いことに弘法大師の作として「聾瞽指歸」とほとんど同じ内容の「三教指歸(さんごうしいき)」という作品がある。その違いとしては序文と巻末にある詩が違うものの、その他の大部分でほんの少しの字句を変えている程度だという。どうやら「聾瞽指歸」が原作であり「三教指歸」はそれを書きあらためたということらしい。ちなみに「聾瞽指歸」とは「無知の者に生きる価値...仏道への指針をさし示す」といった程度の意味のようである。
さて空海は十五歳の時に都にのぼり、十八歳の時に当時の中国の制度をまねて設けられた大学に入学している。またそれ以前においても母方の叔父にあたる阿刀大足(あとのおおたり)という当代一流の漢学者について漢籍を習っていたというから中国語はもとより経書や中国文学についても当時から相当な知識を身につけていたと思われる。しかしその後の彼の行動や著作などから察するに世俗的な栄達を目指す教義としての儒教に満足できず、大学を中退し仏教に傾倒していった。
仏門に入ることに反対した親族たちに空海は「私が思うに、人間にはいろいろの性質があるので、それに応じて聖人の教えも三種ある。それは仏教と道教と儒教である。教義に深いと浅いの相違はあろうが、いずれも聖人の教えであって、どれか一つに入れば、忠孝にもとることはない」という言葉を残しているという。
当時聖人の教えとされていたものに仏教・道教・儒教の三つがあったが「いろいろと良い教えはあるけれども結局仏教が一番優れており、仏教は素晴らしい」とその理由を表明しているのが「聾瞽指歸」なのである。
それも戯曲風に仕立て、亀毛(きぼう)先生という登場人物に儒教を説かせ、虚亡隠士(きょぼういんじ)が道教を語り、そして仮名乞児(かめいこつじ)は仏教を説く。そして結局は仏教の真理がもっとも優れている事を皆が納得するまでの経過を対話により解説している。
いい換えれば「聾瞽指歸」は若い日の空海自身の思想遍歴や実体験を基として自らの決心を述べたものであり、仮名乞児は当時山野に入り苦行・荒行を実践していた自分の姿を映したものといわれている。
この「聾瞽指歸」が注目されるのはその後膨大な著作を残すことになる空海の第一作であることだ。
私が所持しているものは冒頭にも記したとおり京都国立博物館において買い求めたものだが、昭和48年(1973)に株式会社便利堂から出版されたものらしい。
それは縮小版とはいえ原本と同じく上下二巻の巻子本になっているのでただ単に活字本を見るより雰囲気が伝わってきて大変好ましい。また解説書として高野山霊宝館々長の山本知教氏になる小誌が付いている。
ただしいうまでもなく中国六朝から唐代にかけて使われた四六駢儷体(しろくべんれいたい)で書かれた空海の直筆を私がそのまま読める訳はない。
日常愛読しているのは「弘法大師 空海全集」(筑摩書房刊)であり、ここには読み下し文と口語訳、そして大変詳しい解説などが載っている。

※「聾瞽指歸」のセット内容
ところでこれまで何回か「巻子本」と表記したがこれは「かんすぼん」あるいは「けんすぼん」と読む。念のため記せば「巻子本」とは近年のような冊子形式をとる以前に行われた図書の古い形の装丁であり、俗に巻物といわれることは周知のとおりである。
絹や和紙を横に長く継ぎ合わせ、軸を芯(しん)にして巻いたもので中国では後漢から唐にかけて広く行われたが、わが国へは奈良時代に伝えられ、以来江戸時代まで経巻や絵巻物などに多く使われた形式だという。
■空海グッズも…
司馬遼太郎氏によれば戯曲の形で思想の優劣論を書いた例は中国にもないはずのようだ。ともかく1200年ほども昔、それも24歳の青年の頭脳から生み出された「聾瞽指歸」は仏教に興味はない人でも一読に値すると思う。いまでは平易な現代日本語訳も出ている。
とまあ...そんな具合だから私は空海ファンである(笑)。したがって京都に寄れば必ずといってよいほど教王護国寺(東寺)に足が向く。そしてその国宝館をはじめ金堂や講堂を廻り、大日如来脇侍の月光菩薩に「また来たよ!」などと心の内で声をかける。
その東寺は西寺と共に平安京の正面に位置する官寺であったが弘仁十四年(823)に弘法大師空海に勅賜され、空海はその東寺を真言密教の根本道場とした。まあ空海にとっては高野山は即身成仏を目指す修業の道場、そして東寺は一般大衆に向けての教化道場といった性格であり、ちょうど密教の両界曼陀羅すなわち金剛界曼陀羅と胎蔵界曼陀羅のように切ってもきれない車の両輪のような存在だったに違いない。
その後「聾瞽指歸」に味をしめた私は東寺において空海を描いた軸なども手に入れた。特に気に入っているのは密教の法具のひとつである「独鈷(とっこ)」のミニチュアだが、これはペーパーウェイトの代わりとして大変重宝している。

※東寺で購入した独鈷。ペーパーウェイトとしても重宝している
【参考文献】
・「弘法大師 空海全集」筑摩書房刊
・「国宝 聾瞽指歸 解説」便利堂刊
・「空海秘伝」東洋経済新報社刊/寺林峻著
・「空海の風景 上下巻」中公文庫/司馬遼太郎著
・「空海の思想について」講談社学術文庫/梅原猛著
・「曼陀羅の人 上下巻」TBSブリタニカ/陳舜臣著
※本稿は2000年にMac Fan誌に連載した「松田純一の好物学」の原稿を再編集したものです。
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