Apple IIc の魅力とそのセールス秘話
Apple IIc…といってもすでに現物をご覧になった方は少ないに違いない。しかしそのデザインは現在の視点から見てもなかなか魅力的であるが、Apple IIcはもともと...特に女性にアピールしようというねらいで開発されたマシンだった。この種の高価な製品を買おうと家族が決める場合、妻が発言力を持っているという考え方にもとづいていた。
スティーブ・ジョブズは当時から今でいうポータブルなマシンを開発したいと考えていた。しかし当時の技術力ではバッテリー技術が進んでいなかったし小型化にも限界があり、残念ながら思うような製品は作れなかった。しかしそれでも1984年4月24日に発表されたApple IIc (コードネーム Moby) はAppleで最初のポータブルを謳った製品だったしフロッグデザインが手がけたそのスノーホワイトデザインも多くの支持を集めた。なおApple IIcの “c” の意味するものは “compact” である。



※Apple IIcのカタログ一例(上)と筆者所有のApple IIcおよび専用ディスプレイ。ボディカラーは変色しているが完動品である
このApple IIcは1982年12月14日、スティーブ・ジョブズは会議を招集しその席上、Apple IIeの回路基板、キーボードおよびディスクドライブを取り出し、それらを本のサイズにまとめてみせ「これを次の製品にする」と明言した。どうやらそのきっかけは東芝がその時期に発売した最初のポータブルPCを知り決断したようだ。
Appleは潜在顧客として多くの女性も男性と同じくコンピュータの購買動機を持っていることを消費者調査で知る。しかしそれにはスタイリッシュなことは勿論、ボックスから取り出し余分なカードやケーブルをあれこれと買わなくてもすぐに接続して使えることが重要だったし、場所も取り過ぎないこともポイントだった。しかしブック型はともかく、顧客は小さなコンピュータにより多くの金を払うのだろうか…という議論もあった。

※メディアも女性ユーザーを意識したページ作りが目立った。1984年6月号「A+」誌表紙
当時の家庭用100ドルコンピュータとして人気があったタイメックス社やTI社の家庭用コンピュータは確かに小さいが、自宅に持ち帰ってみればただのオモチャであった。やはりAppleは単なる小型だから良いという製品ではなく、ゲームが楽しめることは当然だとしても「生産性を持つ道具」として優れたものでなければならないと考えた。

※Apple IIcの内部構造。前記1984年6月号「A+」の特集記事より
結果、Apple IIcのパッケージは明るい赤いボックスにコンピュータを手にした若い女性の姿をデザインしてパッケージされた。そしてこの写真がIIcの視覚的なシンボルとなった。ちょうどピカソ風デザインがMacintoshのシンボルとなったように…。

※Apple IIcのシンボルともなった代表的なカタログ
面白いのはそのテストフィルムに使われた女性はプロのモデルではなく、製品マーケティングチームのメンバーだったという。赤いキャップのつばで顔を隠しているのは本職のモデルではなかったからでもあるのだ。
したがって最初の写真はプロの眼から見ていささか完成度が欠けているように見えた。事実女性の歯並びは揃っていなかったし髪も乱れていた。彼女が抱えていたのも製品そのものではなくApple IIcのモックアップだった。
ところがきちんとモデルを使って同じ写真を撮り直すと今度は元の写真のような陽気でセクシーといった魅力が出なかったのである。そこで最初の写真をデジタル化し、歯並びと髪の乱れを整え、モックアップを本物の製品に取り替えるという編集を行ったという。
さて、製品発表は1984年4月24日、サンフランシスコのモスコーニセンターに4,000人のディーラー、ソフトウェア開発者、アナリスト、記者らを招待して行われた。そしてこのイベントには250万ドルの予算が使われたがテーマは「Apple II よ、永遠に」だった。
ただしこの製品発表会もさまざまな思惑が交錯していた。Apple II 部門の担当者たちは当然のことながらテーマに沿ってApple IIcだけを強くアピールする発表会にするように望み、また働いていたもののスティーブ・ジョブズはその場を利用しMacintoshのアピールを強調したいと考えていたからである。
Apple IIの責任者だったデル・ヨーカムはMacintoshを完全に追い出すことは出来ないまでも、それを最小限度に押さえ込もうと決心してイベントに挑んだ。

※発表会当日(1984年4月24日)付けニーヨークタイムズ紙
まずシャツに吊りズボン、そして蝶ネクタイ姿のスティーブ・ジョブズが登壇しMacintosh発表からこれまでの販売成績を公表した。その日までに約6万台以上が出荷されたというニュースはグッドニュースだった。

※ジョブズ、スカリーそしてウォズニアックの三人が一堂に会す。InfoWorld誌 1984年5月21月号より
続いてスティーブ・ウォズニアックが壇上に登場しマイクをとった。
悪戯好きなウォズは開口一番「ジョークをお話しします」と話し始めたが、彼の後ろには父兄のようにスティーブ・ジョブズがいたし、隣の台にはMacintoshが飾られていた。

※スティーブ・ウォズニアックのスピーチを後ろで囃し立てるジョブズ。"Steve Jobs enjoys jokes by Steve Wozniak."とキャプションがついたInfoWorld誌 1984年5月21月号より
スティーブジョブズはスティーブ·ウォズニアックのジョークを囃し立てるように楽しんでいたようだが、最後は手で顔を隠して引き下がった。だがウォズは調子が出てきたようでいましばらく聴衆の笑いを誘っていた。
しかし最後にジョン・スカリーが登場すると雰囲気は変わり、この日の主人公はスカリーだったことがはっきりする…。
製品発表に当たってジョン・スカリーは会場を埋め尽くしたアップルディーラーが座る席の下、1つおきにApple IIcを隠しておき、その小ささを強調する作戦に出た。そしてステージでの製品紹介のタイミングに合わせてあちこちに配されたAppleII 部門の担当者がApple IIcを一斉に取り出し、その1,295ドルのコンピューターを周りに座るディーラーたちに手渡した。
結果、1時間もしないうちに居合わせたディーラーたちは5万台以上の注文を入れたが、これは製品発表初日の注文数としてはApple史上最高の記録となったのである。
ともあれ、スノーホワイトのデザイン言語デビューとなったApple IIc はインダストリアルデザインで抜きんでた存在と認められた最初のApple製品であり、アメリカ工業デザイナー協会のデザイン・エクセレンス・アワードなど多くの賞を取得した。
勿論市場の評判も大変良く、例えば1984年に制作されたピーター・ハイアムズ監督「2010 : The Year We Make Contact」(2001年宇宙の旅の続編)では砂浜でフロイド博士が液晶フラットディスプレイ付きの「Apple IIc」を使っているシーンが登場するが、これなども当時のAppleとしては新しい広告手法の試みだったようだ。

※前記Apple IIcカタログにもFlat Panel Displayを使うシーンが掲載されている
ただし正直なところApple IIc のフラットパネル・ディスプレイはまだまだコントラストも低く良いものではなかったから映画のようなピーカンの浜辺ではまったく役に立たなかったはずだし、カタログなどでは映っていないが本体は確かにポータブルではあったもののバッテリー駆動ができるわけでもなかったから、現実には重くて馬鹿でかいACアダプタを必要としたのである。

※本体はポータブルだが別途重くて大きなACアダプタを必要とした
Apple Iic の開発にウォズは直接手をかさなかったが、これは間違いなくウォズのマシンだったし、デル・ヨーカム率いるApple IIチームの成果であった。そしてまたジョブズの発想であったことも確かなマシンだった。
スカリーは「Apple チャレンジは、堅固な基礎の上に打ち立てられる…」と話を続けたが,皮肉にもそのときAppleのその後の暗雲を象徴するかのように小さくはあったものの地震がサンフランシスコ全市を揺さぶった…。
問題はすぐに表面化した。何故なら発表会での評判は上々だったものの発売当初の1400万ドルの売上げ以降、Apple IIcの売上げがばったりと止まってしまったのだ。
おかしなことに…Appleの市場予測とは裏腹に人々が欲しがっていたのはApple IIcではなくIIeだったのである。しかし予測値が低かったため生産をカットしていたIIeは需要に対応できなかった。そして悪い連鎖は続く。
なぜなら前記した…あれほど素晴らしいと考えていたApple IIcのアイコンともなった女性の写真を使った梱包、すなわち赤い箱が顧客に軽薄な感じを与えているのではないかと考えられ始めたからだ。
そもそも売上げが伸びない理由をパッケージのデザインに向けるなど、本質を疎かにしている印象を受ける。事実ディスクドライブの不良率が高かったりという問題も表面化したのであった。
さらに不幸なことにモニタ、ディスクドライブ、その他の周辺機器を作っていたアクセサリー製造部門は予定通り動いていなかった。この事業部はいまだにMacintosh用のキーボードとマウスの製造に追われていたからで、ここでもMacintoshが他の製品より優先されるという問題に直面していた。無論それはスティーブ・ジョブズの思惑が第1に働いていたからだった…。
【主な参考資料】
・「アップル・デザイン」ポール・クンケル著/大谷和利訳 アクシスパブリッシング刊
・「エデンの西(上巻)」フランク・ローズ著/渡辺敏訳 サイマル出版会刊
スティーブ・ジョブズは当時から今でいうポータブルなマシンを開発したいと考えていた。しかし当時の技術力ではバッテリー技術が進んでいなかったし小型化にも限界があり、残念ながら思うような製品は作れなかった。しかしそれでも1984年4月24日に発表されたApple IIc (コードネーム Moby) はAppleで最初のポータブルを謳った製品だったしフロッグデザインが手がけたそのスノーホワイトデザインも多くの支持を集めた。なおApple IIcの “c” の意味するものは “compact” である。



※Apple IIcのカタログ一例(上)と筆者所有のApple IIcおよび専用ディスプレイ。ボディカラーは変色しているが完動品である
このApple IIcは1982年12月14日、スティーブ・ジョブズは会議を招集しその席上、Apple IIeの回路基板、キーボードおよびディスクドライブを取り出し、それらを本のサイズにまとめてみせ「これを次の製品にする」と明言した。どうやらそのきっかけは東芝がその時期に発売した最初のポータブルPCを知り決断したようだ。
Appleは潜在顧客として多くの女性も男性と同じくコンピュータの購買動機を持っていることを消費者調査で知る。しかしそれにはスタイリッシュなことは勿論、ボックスから取り出し余分なカードやケーブルをあれこれと買わなくてもすぐに接続して使えることが重要だったし、場所も取り過ぎないこともポイントだった。しかしブック型はともかく、顧客は小さなコンピュータにより多くの金を払うのだろうか…という議論もあった。

※メディアも女性ユーザーを意識したページ作りが目立った。1984年6月号「A+」誌表紙
当時の家庭用100ドルコンピュータとして人気があったタイメックス社やTI社の家庭用コンピュータは確かに小さいが、自宅に持ち帰ってみればただのオモチャであった。やはりAppleは単なる小型だから良いという製品ではなく、ゲームが楽しめることは当然だとしても「生産性を持つ道具」として優れたものでなければならないと考えた。

※Apple IIcの内部構造。前記1984年6月号「A+」の特集記事より
結果、Apple IIcのパッケージは明るい赤いボックスにコンピュータを手にした若い女性の姿をデザインしてパッケージされた。そしてこの写真がIIcの視覚的なシンボルとなった。ちょうどピカソ風デザインがMacintoshのシンボルとなったように…。

※Apple IIcのシンボルともなった代表的なカタログ
面白いのはそのテストフィルムに使われた女性はプロのモデルではなく、製品マーケティングチームのメンバーだったという。赤いキャップのつばで顔を隠しているのは本職のモデルではなかったからでもあるのだ。
したがって最初の写真はプロの眼から見ていささか完成度が欠けているように見えた。事実女性の歯並びは揃っていなかったし髪も乱れていた。彼女が抱えていたのも製品そのものではなくApple IIcのモックアップだった。
ところがきちんとモデルを使って同じ写真を撮り直すと今度は元の写真のような陽気でセクシーといった魅力が出なかったのである。そこで最初の写真をデジタル化し、歯並びと髪の乱れを整え、モックアップを本物の製品に取り替えるという編集を行ったという。
さて、製品発表は1984年4月24日、サンフランシスコのモスコーニセンターに4,000人のディーラー、ソフトウェア開発者、アナリスト、記者らを招待して行われた。そしてこのイベントには250万ドルの予算が使われたがテーマは「Apple II よ、永遠に」だった。
ただしこの製品発表会もさまざまな思惑が交錯していた。Apple II 部門の担当者たちは当然のことながらテーマに沿ってApple IIcだけを強くアピールする発表会にするように望み、また働いていたもののスティーブ・ジョブズはその場を利用しMacintoshのアピールを強調したいと考えていたからである。
Apple IIの責任者だったデル・ヨーカムはMacintoshを完全に追い出すことは出来ないまでも、それを最小限度に押さえ込もうと決心してイベントに挑んだ。

※発表会当日(1984年4月24日)付けニーヨークタイムズ紙
まずシャツに吊りズボン、そして蝶ネクタイ姿のスティーブ・ジョブズが登壇しMacintosh発表からこれまでの販売成績を公表した。その日までに約6万台以上が出荷されたというニュースはグッドニュースだった。

※ジョブズ、スカリーそしてウォズニアックの三人が一堂に会す。InfoWorld誌 1984年5月21月号より
続いてスティーブ・ウォズニアックが壇上に登場しマイクをとった。
悪戯好きなウォズは開口一番「ジョークをお話しします」と話し始めたが、彼の後ろには父兄のようにスティーブ・ジョブズがいたし、隣の台にはMacintoshが飾られていた。

※スティーブ・ウォズニアックのスピーチを後ろで囃し立てるジョブズ。"Steve Jobs enjoys jokes by Steve Wozniak."とキャプションがついたInfoWorld誌 1984年5月21月号より
スティーブジョブズはスティーブ·ウォズニアックのジョークを囃し立てるように楽しんでいたようだが、最後は手で顔を隠して引き下がった。だがウォズは調子が出てきたようでいましばらく聴衆の笑いを誘っていた。
しかし最後にジョン・スカリーが登場すると雰囲気は変わり、この日の主人公はスカリーだったことがはっきりする…。
製品発表に当たってジョン・スカリーは会場を埋め尽くしたアップルディーラーが座る席の下、1つおきにApple IIcを隠しておき、その小ささを強調する作戦に出た。そしてステージでの製品紹介のタイミングに合わせてあちこちに配されたAppleII 部門の担当者がApple IIcを一斉に取り出し、その1,295ドルのコンピューターを周りに座るディーラーたちに手渡した。
結果、1時間もしないうちに居合わせたディーラーたちは5万台以上の注文を入れたが、これは製品発表初日の注文数としてはApple史上最高の記録となったのである。
ともあれ、スノーホワイトのデザイン言語デビューとなったApple IIc はインダストリアルデザインで抜きんでた存在と認められた最初のApple製品であり、アメリカ工業デザイナー協会のデザイン・エクセレンス・アワードなど多くの賞を取得した。
勿論市場の評判も大変良く、例えば1984年に制作されたピーター・ハイアムズ監督「2010 : The Year We Make Contact」(2001年宇宙の旅の続編)では砂浜でフロイド博士が液晶フラットディスプレイ付きの「Apple IIc」を使っているシーンが登場するが、これなども当時のAppleとしては新しい広告手法の試みだったようだ。

※前記Apple IIcカタログにもFlat Panel Displayを使うシーンが掲載されている
ただし正直なところApple IIc のフラットパネル・ディスプレイはまだまだコントラストも低く良いものではなかったから映画のようなピーカンの浜辺ではまったく役に立たなかったはずだし、カタログなどでは映っていないが本体は確かにポータブルではあったもののバッテリー駆動ができるわけでもなかったから、現実には重くて馬鹿でかいACアダプタを必要としたのである。

※本体はポータブルだが別途重くて大きなACアダプタを必要とした
Apple Iic の開発にウォズは直接手をかさなかったが、これは間違いなくウォズのマシンだったし、デル・ヨーカム率いるApple IIチームの成果であった。そしてまたジョブズの発想であったことも確かなマシンだった。
スカリーは「Apple チャレンジは、堅固な基礎の上に打ち立てられる…」と話を続けたが,皮肉にもそのときAppleのその後の暗雲を象徴するかのように小さくはあったものの地震がサンフランシスコ全市を揺さぶった…。
問題はすぐに表面化した。何故なら発表会での評判は上々だったものの発売当初の1400万ドルの売上げ以降、Apple IIcの売上げがばったりと止まってしまったのだ。
おかしなことに…Appleの市場予測とは裏腹に人々が欲しがっていたのはApple IIcではなくIIeだったのである。しかし予測値が低かったため生産をカットしていたIIeは需要に対応できなかった。そして悪い連鎖は続く。
なぜなら前記した…あれほど素晴らしいと考えていたApple IIcのアイコンともなった女性の写真を使った梱包、すなわち赤い箱が顧客に軽薄な感じを与えているのではないかと考えられ始めたからだ。
そもそも売上げが伸びない理由をパッケージのデザインに向けるなど、本質を疎かにしている印象を受ける。事実ディスクドライブの不良率が高かったりという問題も表面化したのであった。
さらに不幸なことにモニタ、ディスクドライブ、その他の周辺機器を作っていたアクセサリー製造部門は予定通り動いていなかった。この事業部はいまだにMacintosh用のキーボードとマウスの製造に追われていたからで、ここでもMacintoshが他の製品より優先されるという問題に直面していた。無論それはスティーブ・ジョブズの思惑が第1に働いていたからだった…。
【主な参考資料】
・「アップル・デザイン」ポール・クンケル著/大谷和利訳 アクシスパブリッシング刊
・「エデンの西(上巻)」フランク・ローズ著/渡辺敏訳 サイマル出版会刊
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