ラテ飼育格闘日記(548)
まだ5月だというのに、ときに三十度を超える外気温の日になる季節になってきた。オトーサンも苦手な季節だがラテはすでに日陰の風通しの良い場所に腹ばいになって動かない…ということが多くなってきた。これからは些か散歩の時間も気温を考えて調整しなければならなくなる。
それでも朝夕の散歩は欠かせない。オトーサンは限られた時間をいかにラテが楽しく過ごせるかを考え、散歩の時間やコースを決めているつもりだが当のラテはそうしたオトーサンの思惑とはまったく別の次元にいる。
一緒の空間で日々を過ごし、同じ時間サイクルの中で生活していると擬人化以前にそこにいるワンコが我々ホモサピエンスとは種が違ういきものであることを忘れてしまう。

※なかなか凜々しい、いや...ベッピンさんです(笑)
美味しい物を食べ、ボール遊びなどをすればお互い顔を見合わせて笑い合う。女房が足が痙ったと呻いていれば何ごとかと顔を舐めにいく。
そうした日常を過ごしていると姿形は違うが、ラテはまさしく苦楽を共にする家族の一員であることを実感する。それはそれで間違いなのだが、冷静になって考えればラテとオトーサンたちは同じ日常を一緒に過ごしてはいるものの住んでいる世界はまるで違うということも認識しておく必要がある。

※ファミリーのオカーサンを息子さんとラテが奪い合い?
よく言われることだが、ワンコが見ている世界は私たちの認知している色合いと比較して知覚できる色が少ないためにかなり地味な世界のようだ。反面聴覚は我々が聞き取れない高い周波数の音を認識し、嗅覚に至っては我々の能力の500倍とも1000倍とも言われる信じられない能力を持っているといわれている。
事実ラテと散歩を一緒に…などといってるものの、知り合いの方に出会ったり子供たちと触れ合ったりしている姿はどう見ても我々の感じ方に重なるものがあり、喜んでいるのか嫌がっているのかといった感情面まで分かったつもりでいる。

※ファミリーの女子に出会うとラテの態度は他の子供たちと違うのが面白い
しかし道を歩いている時、ラテの視線はもっぱら地面とその周辺に限られている。地面と路面にある樹木や草木あるいは電柱やらの臭いを嗅ぐのに多くの時間をとっているのが現実だ。
オトーサンに言わせれば「そんなに地面ばかり見ていないで、若葉が映える青空を見てみろ。美しいぞ」と言いたくなる。
とはいえラテは周囲を嗅覚で嗅ぎ回り、細密な情報を得ているわけで、いわば嗅覚で世界を “見て” いることになる。我々と世界の見方、認識の仕方がまるで違うのだ。

※今日もワンコ好きの子供たちにモミクチャ(笑)
ラテは臭いで空間と時間を把握し、我々人間にはわかり得ない世界を認識して生きている。無論視覚も前記したように色味を別にすれば大切な感覚だし事実観察していればわかるが、視覚に頼った判断も多い。
こうして考えてみるとラテはワンコの世界観を人間界に持ち込んで融合させているように思える。それも大方は大変上手に融合し、時には上手く使い分けているというべきか。
そしてエピソード記憶も優れているようだ。ラテは語ってくれないが我々と同様、自身にとっての大切な記憶長い間覚えているように思える。
季節が暖かくなるとそれまで見向きをしなかった自動販売機の前で立ち止まり水を飲みたいと要求する。これは凄いことだとオトーサンは思っている。自動販売機といっても使用頻度が高い場所のものなら分かる気もするが、まったく初めての場所にある自動販売機も同じく喉の渇きを満たしてくれることを知っているのだから…。

※久しぶりに入った公園にある滑り台にラテはスタスタと近づいた...
※滑り台でオトーサンとラテが一緒に遊ぶ。なかなかに楽しい!
だから思わず擬人化というより人間扱いしてしまう(笑)。またラテの行動や態度も我々人間の理解を超えている場合があるものの、歩きながらオトーサンの足を突いたり、抱っこをせがんだり、アイコンタクトして吠えたりするその意味や意図も大方は理解できると考えている。そして悲しい、嬉しい、不安、怖いといった表情も慣れればストレートに分かるし、オトーサンの顔色をうかがいながら上目遣いで悪戯をするなど、ラテとの日々はまさしく個性的な感情・意識・意志を持った頭脳と対峙している喜びがある。
要はものの道理が分かっていると思ってしまいがちだが、しかし前記したようにラテは我々がどうあがいてもわかり得ない世界観の中で生きていることもまた事実なのだ。
それにも関わらず、世界観が違うにもかかわらず、程度問題としても種が違う者同士が理解し合える素晴らしさはワンコの醍醐味だ。
なんと言ったらよいか...オトーサンを必要とし、信頼を寄せてくれる相手と共に過ごす毎日ほど生き甲斐のあることはないのではあるまいか...。
それでも朝夕の散歩は欠かせない。オトーサンは限られた時間をいかにラテが楽しく過ごせるかを考え、散歩の時間やコースを決めているつもりだが当のラテはそうしたオトーサンの思惑とはまったく別の次元にいる。
一緒の空間で日々を過ごし、同じ時間サイクルの中で生活していると擬人化以前にそこにいるワンコが我々ホモサピエンスとは種が違ういきものであることを忘れてしまう。

※なかなか凜々しい、いや...ベッピンさんです(笑)
美味しい物を食べ、ボール遊びなどをすればお互い顔を見合わせて笑い合う。女房が足が痙ったと呻いていれば何ごとかと顔を舐めにいく。
そうした日常を過ごしていると姿形は違うが、ラテはまさしく苦楽を共にする家族の一員であることを実感する。それはそれで間違いなのだが、冷静になって考えればラテとオトーサンたちは同じ日常を一緒に過ごしてはいるものの住んでいる世界はまるで違うということも認識しておく必要がある。

※ファミリーのオカーサンを息子さんとラテが奪い合い?
よく言われることだが、ワンコが見ている世界は私たちの認知している色合いと比較して知覚できる色が少ないためにかなり地味な世界のようだ。反面聴覚は我々が聞き取れない高い周波数の音を認識し、嗅覚に至っては我々の能力の500倍とも1000倍とも言われる信じられない能力を持っているといわれている。
事実ラテと散歩を一緒に…などといってるものの、知り合いの方に出会ったり子供たちと触れ合ったりしている姿はどう見ても我々の感じ方に重なるものがあり、喜んでいるのか嫌がっているのかといった感情面まで分かったつもりでいる。

※ファミリーの女子に出会うとラテの態度は他の子供たちと違うのが面白い
しかし道を歩いている時、ラテの視線はもっぱら地面とその周辺に限られている。地面と路面にある樹木や草木あるいは電柱やらの臭いを嗅ぐのに多くの時間をとっているのが現実だ。
オトーサンに言わせれば「そんなに地面ばかり見ていないで、若葉が映える青空を見てみろ。美しいぞ」と言いたくなる。
とはいえラテは周囲を嗅覚で嗅ぎ回り、細密な情報を得ているわけで、いわば嗅覚で世界を “見て” いることになる。我々と世界の見方、認識の仕方がまるで違うのだ。

※今日もワンコ好きの子供たちにモミクチャ(笑)
ラテは臭いで空間と時間を把握し、我々人間にはわかり得ない世界を認識して生きている。無論視覚も前記したように色味を別にすれば大切な感覚だし事実観察していればわかるが、視覚に頼った判断も多い。
こうして考えてみるとラテはワンコの世界観を人間界に持ち込んで融合させているように思える。それも大方は大変上手に融合し、時には上手く使い分けているというべきか。
そしてエピソード記憶も優れているようだ。ラテは語ってくれないが我々と同様、自身にとっての大切な記憶長い間覚えているように思える。
季節が暖かくなるとそれまで見向きをしなかった自動販売機の前で立ち止まり水を飲みたいと要求する。これは凄いことだとオトーサンは思っている。自動販売機といっても使用頻度が高い場所のものなら分かる気もするが、まったく初めての場所にある自動販売機も同じく喉の渇きを満たしてくれることを知っているのだから…。

※久しぶりに入った公園にある滑り台にラテはスタスタと近づいた...
※滑り台でオトーサンとラテが一緒に遊ぶ。なかなかに楽しい!
だから思わず擬人化というより人間扱いしてしまう(笑)。またラテの行動や態度も我々人間の理解を超えている場合があるものの、歩きながらオトーサンの足を突いたり、抱っこをせがんだり、アイコンタクトして吠えたりするその意味や意図も大方は理解できると考えている。そして悲しい、嬉しい、不安、怖いといった表情も慣れればストレートに分かるし、オトーサンの顔色をうかがいながら上目遣いで悪戯をするなど、ラテとの日々はまさしく個性的な感情・意識・意志を持った頭脳と対峙している喜びがある。
要はものの道理が分かっていると思ってしまいがちだが、しかし前記したようにラテは我々がどうあがいてもわかり得ない世界観の中で生きていることもまた事実なのだ。
それにも関わらず、世界観が違うにもかかわらず、程度問題としても種が違う者同士が理解し合える素晴らしさはワンコの醍醐味だ。
なんと言ったらよいか...オトーサンを必要とし、信頼を寄せてくれる相手と共に過ごす毎日ほど生き甲斐のあることはないのではあるまいか...。
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