20年ぶりに再会〜Mac Japan誌の想い出
2度の引越が原因でいくつか大切なものを紛失してしまったが、そのひとつがMac Japanの増刊号である。幸い過日オークションで出品されていたので落札し20年ぶりにその誌面と再開したが、今回はそのMac Japan誌の思い出話をご紹介する...。
かつてはMac専門誌もMACLIFE、Mac Fan、Mac User、Mac Powerなどに代表される多くの雑誌がしのぎを削っていた時代があった。
私は縁あってMACLIFEの創刊に立ち会ったが、1989年4月に技術評論社が創刊したMac Japanのスタートからも立ち会わせていただいた深い想い出がある。そのMac Japan誌創刊号と20年ぶりに再開したわけだ。

※20年ぶりに手元に置くことができたMac Japan創刊号
私はそれまでにもI/OとかASCII、RAMといったパソコン関連雑誌に早くから投稿し多くの原稿を書いていたが最初の単行本は技術評論社から出版された「図形処理名人 花子」というPC-9801用グラフィックソフト誕生に合わせたものだった。
まったくラッキーというしかないが、この「図形処理名人 花子」は3ヶ月間ベストセラーを続けて2年の間に13刷を重ねる記録を打ち立てた。その後多くの書籍を書いたが残念ながらこの記録には遠く及ばないものばかりだ(笑)。まさしくビギナーズラックそのものである。
ともかくそれが縁で技術評論社のOさんやKさんらにはお世話になり、その後も単行本執筆はもとよりムックなどに様々な形で寄稿するようになった。
正確なデータは覚えていないが1988年の秋口あたりだったか、技術評論社のKさんから連絡があり、当時靖国通り沿いにあった編集部に伺ったところ新しいMacintosh雑誌を発刊することになったので協力して欲しいという話をいただいたのである。
当時私はサラリーマンだったが来年早々に起業しようと画策していた時期だったしMACLIFEのライターとしても常連だったものの旧知の技術評論社から出版されるという月刊誌「Mac Japan」のコンセプトに賛同して連載をさせていただくことになった。
MACLIFEはすでに多くの読者を得てそのスタイリッシュな誌面作りは高い評価を受けていたが、Mac Japanはプロ仕様を意識したプログラミング関連情報や当時の日本市場において相対的に弱い立場にあったユーザー、サードパーティー、ショップらの利益保護や強化に一役買いたいということもあり、よりユーザーよりの立場を強化したイメージで編集された。
これらの内容についてはあやふやな記憶によるものではなく実は当時の媒体資料にそれらのコンセプトは明確に打ち出されている。
手元に残っている「Macintosh~おいしいリンゴのかじり方教えます」と書かれたA4見開きの媒体資料を眺めていると技術評論社の応接で出版の経緯を熱く語るOさんやKさんらの顔が思い出される...。


※1989年初頭に技術評論社で受け取ったMac Japn発刊のための媒体向け資料表紙(上)とA4判見開きの中身(下)
というわけで同年10月号まではThe BASICの別冊という形だったが1989年5月号を創刊号とした「Mac Japan」がスタートした。その特集は「これでいいのかっ!? Macの日本語環境」だったが、私は「絵心のない人のためのグラフィック講座1」といった連載を開始した。
創刊3ヶ月後の8月号は早くも32ページほど本誌ページが増え雑誌も厚くなったし、スタートが好調だったのだろう...広告ページが増大しただけでなく本来なら競合相手であるはずのビジネス・アスキー刊「月刊Mac Power」の一面広告まで載るようになった。そして私の記事はともかく、藤本裕之さんの「情報概論」などMac Japanならではの名物記事も多々生み出されることになる。
こうしてMACLIFE誌とはいささか趣が異なった技術向けというか硬派のMacintosh月刊誌「Mac Japan」は好調な船出をしたのだった。
しかし起業したばかりのソフトハウスがフル回転する中、毎月8ページの連載をしつつ他にムックや単行本の執筆を続けるという無茶苦茶な毎日が続いた...。
気がつくと窓の外が白み始めていた...だなんて事も度々あり毎日の睡眠時間は平均で4時間という凄まじい生活になったのも今ではよい想い出である。
それに現在のように原稿が書き上がったといっても図版などと共にメールに添付して編集部に送って終わり...といった時代ではなかったから、そのほとんどはフロッピーディスク書き込んだものを持参することになっていた。
確かに面倒といえば面倒だが、靖国通り沿いを歩くと千鳥ヶ淵あたりは桜の季節や積雪による薄化粧などなど絶妙の美しさを見せてくれた。
そんな季節感を味わいながら編集部に伺い、旧知の編集者らとしばしの懇談することの楽しみがあったことも事実であり、会話の中から新しいアイデアや企画が生まれてこれまた新刊書として世に問うことができる機会もあったのである。
面白いことに「Mac Japnに何を書いたか」はほとんど覚えていないが、編集部のKさんらと語り合ったいくつかのことは今でも覚えていることがあるのだから不思議なものだ...。
結局私にとっての収穫は決して20年ぶりに再会した雑誌そのモノではなく、多くの方たちと直接巡り会い、語り合ったあれこれが血肉になっているように思える今日この頃である。
かつてはMac専門誌もMACLIFE、Mac Fan、Mac User、Mac Powerなどに代表される多くの雑誌がしのぎを削っていた時代があった。
私は縁あってMACLIFEの創刊に立ち会ったが、1989年4月に技術評論社が創刊したMac Japanのスタートからも立ち会わせていただいた深い想い出がある。そのMac Japan誌創刊号と20年ぶりに再開したわけだ。

※20年ぶりに手元に置くことができたMac Japan創刊号
私はそれまでにもI/OとかASCII、RAMといったパソコン関連雑誌に早くから投稿し多くの原稿を書いていたが最初の単行本は技術評論社から出版された「図形処理名人 花子」というPC-9801用グラフィックソフト誕生に合わせたものだった。
まったくラッキーというしかないが、この「図形処理名人 花子」は3ヶ月間ベストセラーを続けて2年の間に13刷を重ねる記録を打ち立てた。その後多くの書籍を書いたが残念ながらこの記録には遠く及ばないものばかりだ(笑)。まさしくビギナーズラックそのものである。
ともかくそれが縁で技術評論社のOさんやKさんらにはお世話になり、その後も単行本執筆はもとよりムックなどに様々な形で寄稿するようになった。
正確なデータは覚えていないが1988年の秋口あたりだったか、技術評論社のKさんから連絡があり、当時靖国通り沿いにあった編集部に伺ったところ新しいMacintosh雑誌を発刊することになったので協力して欲しいという話をいただいたのである。
当時私はサラリーマンだったが来年早々に起業しようと画策していた時期だったしMACLIFEのライターとしても常連だったものの旧知の技術評論社から出版されるという月刊誌「Mac Japan」のコンセプトに賛同して連載をさせていただくことになった。
MACLIFEはすでに多くの読者を得てそのスタイリッシュな誌面作りは高い評価を受けていたが、Mac Japanはプロ仕様を意識したプログラミング関連情報や当時の日本市場において相対的に弱い立場にあったユーザー、サードパーティー、ショップらの利益保護や強化に一役買いたいということもあり、よりユーザーよりの立場を強化したイメージで編集された。
これらの内容についてはあやふやな記憶によるものではなく実は当時の媒体資料にそれらのコンセプトは明確に打ち出されている。
手元に残っている「Macintosh~おいしいリンゴのかじり方教えます」と書かれたA4見開きの媒体資料を眺めていると技術評論社の応接で出版の経緯を熱く語るOさんやKさんらの顔が思い出される...。


※1989年初頭に技術評論社で受け取ったMac Japn発刊のための媒体向け資料表紙(上)とA4判見開きの中身(下)
というわけで同年10月号まではThe BASICの別冊という形だったが1989年5月号を創刊号とした「Mac Japan」がスタートした。その特集は「これでいいのかっ!? Macの日本語環境」だったが、私は「絵心のない人のためのグラフィック講座1」といった連載を開始した。
創刊3ヶ月後の8月号は早くも32ページほど本誌ページが増え雑誌も厚くなったし、スタートが好調だったのだろう...広告ページが増大しただけでなく本来なら競合相手であるはずのビジネス・アスキー刊「月刊Mac Power」の一面広告まで載るようになった。そして私の記事はともかく、藤本裕之さんの「情報概論」などMac Japanならではの名物記事も多々生み出されることになる。
こうしてMACLIFE誌とはいささか趣が異なった技術向けというか硬派のMacintosh月刊誌「Mac Japan」は好調な船出をしたのだった。
しかし起業したばかりのソフトハウスがフル回転する中、毎月8ページの連載をしつつ他にムックや単行本の執筆を続けるという無茶苦茶な毎日が続いた...。
気がつくと窓の外が白み始めていた...だなんて事も度々あり毎日の睡眠時間は平均で4時間という凄まじい生活になったのも今ではよい想い出である。
それに現在のように原稿が書き上がったといっても図版などと共にメールに添付して編集部に送って終わり...といった時代ではなかったから、そのほとんどはフロッピーディスク書き込んだものを持参することになっていた。
確かに面倒といえば面倒だが、靖国通り沿いを歩くと千鳥ヶ淵あたりは桜の季節や積雪による薄化粧などなど絶妙の美しさを見せてくれた。
そんな季節感を味わいながら編集部に伺い、旧知の編集者らとしばしの懇談することの楽しみがあったことも事実であり、会話の中から新しいアイデアや企画が生まれてこれまた新刊書として世に問うことができる機会もあったのである。
面白いことに「Mac Japnに何を書いたか」はほとんど覚えていないが、編集部のKさんらと語り合ったいくつかのことは今でも覚えていることがあるのだから不思議なものだ...。
結局私にとっての収穫は決して20年ぶりに再会した雑誌そのモノではなく、多くの方たちと直接巡り会い、語り合ったあれこれが血肉になっているように思える今日この頃である。
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