スティーブ・ジョブズとは何者だったのだろうか?
この5月13日に晋遊舎から月刊「Windows100%」6月号が発売されたが、私は本誌に「ジョブズって神格化されすぎじゃね?」を執筆した。本編はそれの姉妹編を意識して書いたものだが、月刊「Windows100%」6月号共々ご一読いだたければ幸いである。
スティーブ・ジョブズという男は死しても尚、なぜこれほど人々の注目を集めるのだろうか。そのカリスマ性はどこからくるのか...?という疑問に少しでも迫ってみたいというのが本編の趣旨である。

※晋遊舎刊ムック「Windows100%」2013年6月号の丁度100ページから見開き2ページ「ジョブズって神格化されすぎじゃね?」を執筆。35年にも及ぶライター稼業でWin専門誌に原稿書いたのはこれが初めてのはずだ(笑)
さて1996年12月、Apple がNeXTを買収しジョブズも顧問という形でAppleに復帰した後の活躍はあらためてご紹介することもないだろう。
Appleが瀕死の状態だったのを立て直し、世界一の企業にしたのはジョブズだったしその彼が神とか天才と讃えられたのも分からないではないが、昨今見聞きするジョブズ評価のほとんどはApple復帰後のものばかりなのがオールドファンには些か気がかりであるし、そもそも片手落ちのように思える。
とはいえ、別に彼の若かりし頃の悪たれの多くを暴き出し「ほれ見たことか、ジョブズとはこんな男だったのだ」と悪口を述べるつもりはない。そうではなくて本当のジョブズという人物の凄さ、ジョブズの本音・真意を知るにはApple復帰以前...やりたい放題時代の彼を見つめ直さなければ分からないと思うのだ。

※1977年当時のスティーブ・ジョブズ。スーツを身に纏ってはいるがヒッピー同然の姿だ。しかしその視線には抗しがたい魅力がある
後年のスティーブ・ジョブズは病気を別にすれば幸運にも恵まれ、かつ市場やメディアに対する対応の仕方を学習したからだろう…少なくとも対外的には大人の対応が目立つ人物になった。しかしスティーブ・ジョブズはスティーブ・ジョブズであり、ことAppleに関して自分のビジョンに反する意見や相手には相変わらず辛辣で容赦がなかった。
果たしてスティーブ・ジョブズとは何者だったのだろうか?
スティーブ・ジョブズはなぜシリコン・バレーに乱立した幾多のベンチャー企業の創業者たちと比較してもこれほどまでにカリスマ性を失わずにいられたのだろうか?
以下はそんな私自身が常々疑問に思ってきたことに対するひとつの回答でもあり、いたづらに神とか天才といった言葉で祭り上げるのではなく、スティーブ・ジョブズという男の本当の凄さをあらためて認識したいとする試みのひとつだ。
ところで「トラブルメーカー」…。この言葉ほどスティーブ・ジョブズという人物を一言で表すのにふさわしい言葉はないかも知れない。
ともかく他人の意見には耳をかさない…という以前に自分の言動に対して他人からどう思われるかなどまったく気にしない人物だった。交渉に出向いた会社で会議冒頭に「もっとマシな話はないのか」とテープルをひっくり返さんばかりの癇癪を起こしたりもした。

※Macintoshがリリースしたばかりの1984年2月13日号「InfoWorld」誌表紙にはセーターを着た珍しいジョブズが載っている
私たちは少なからず組織とか世間の評価を気にしながら生きている。だからこんな事をしたり、あんな発言をすれば人からどのように思われるだろうか…と内心気にしながら生きているといって良いだろう。
嫌な奴、ケチな野郎、頭の悪い人、センスのかけらもない男…等々といわれたくない、思われたくないと、時に虚栄心が起きたり背伸びをしたりもする。要するに自信がないといわれれば身も蓋もないが、人から悪くは思われたくないのである。
しかしスティーブ・ジョブズはそうした世間の思惑からは無縁のような男だった。
彼は親友であるはずのウォズニアックに嘘をつきバイト代をちょろまかしたし、独身時代恋人に生ませた子供の認知をずっと拒否し続け( 後に妻のローリーンに諭されて認知 )、気に入らないと社員たちを罵倒し時にそれは社員たち家族への悪口までエスカレートする。そして株式公開にあたり創業時から苦楽を共にした社員らにストックオプションの給付を拒否したり、レストランに行けばウェイトレスらが運んできた料理に理由もなく難癖をつけて突き返すという男でもあった。
さらに自身にとって都合が悪ければ所構わず泣き叫ぶ…。まるで赤子のようである。
赤子といえば...1978年、社員番号69番として、またAppleが雇った最初のMBA取得者として入社し、後にエレクトロニック・アーツ社を設立したトリップ・ホーキンスは生前のジョブズを評していう…。
「スティーブは、本当の両親のことを何も知らなかった。彼は、あまりにも騒々しい人生を送っている。何に対しても大声で泣きわめくんだ。十分に大きな泣き声をたてれば本当の両親が泣き声を聞きつけて、彼を捨てたのは間違いだったと気がつくと思っているんじゃないかな。」と。
他人がどう思おうと、自分の信念を…泣き叫んでも通そうとするのが若い時のスティーブ・ジョブズだった。
「ACCIDENTAL EMPIRES (和名:コンピュータ帝国の興亡)」1993年アスキー出版局刊の著者ロバート・X・クリンジリーは同書でジョブズを称し「シリコンバレーでもっとも危険な男」だという。
それはスティーブ・ジョブズは他の連中と違い、金儲けのためにこの業界にいるわけではない。だからこそ危険なのだと書いている…。
クリンジリーによれば、マイクロソフトのビル・ゲイツはパソコンとは世界中の通貨を自分のポケットに集める道具だと考えているから、金さえ払ってくれれば人々がコンピュータをどう扱おうと一向に気にしない。しかしジョブズはそこが気になるし、コンピュータで世界を変えたいと願い、為に世界中に向かいコンピュータの使い方を教え、コンピューティングのスタイルを定めたいと思っているという。

※「FORTUNE」誌 1984年2月20日号より、シカゴで開催されたディーラーミーティングでポーズを取るジョブズ
だから仕事に対する満足度が金で計られ、成功し裕福になって40歳で退職することが目標のシリコンバレー的なCEOの基準からすれば、スティーブ・ジョブズはクレイジーなのだ。
金で動かない人間がシリコンバレーにいる、だからこそ危険なのだ。人は成功して知名人となり金持ちになりたいからこそ起業したり転職したりするのが普通の人間だ…。しかしジョブズは多くの人たちや世間が反対しようが気にしない。成功の確率も気にしない。万一どれだけ損害を被るかも気にしない。そもそも自分のビジョンが最優先であり、信念を押し通すことができれば勝つ必要さえないというのがジョブズの流儀なのだ。
我々は結果から過去を見ている…。したがって1976年にジョブズらがApple Computerという会社を創業したという事実を輝かしいことと思っているが、それは一度間違ったら多大な負債を背負うことでもあり大きなリスクを背負うことだった事実を知らなすぎる。そしてなによりも当時のジョブズにもウォズニアックにも持ち金はなかった(笑)。
したがって、もうひとりの創立者であったロン・ウェインがAppleを創業したばかりでその先行きを心配し、早々に離脱したことを我々は笑えないし、ウォズニアックもウェインの決断はその時点で正当な判断だったといったほどだった。
Apple創立前に一緒にインドを放浪したダン・コケトによれば現在のシリコンバレーとは違い1970年代に会社を設立すること自体がかなり難しいことだったそうだ。そして彼は「Appleという会社が生まれたこと自体が幸運だった」といっている。しかしジョブズは突っ走った…。

※1976年Apple創業時のスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック
良し悪しはともかく今日我々が感じている “Appleらしさ” というすべてはスティーブ・ジョブズが生んだものだ。「Appleのビジョン」という目に見えないものを形作り、社員たちはもとより我々ユーザーにまでそれらを感染させたのは間違いなくスティーブ・ジョブズその人だった。まあ…正確にいうならレジス・マッケンナやマイク・マークラの仕掛けも多いにあるのだが…。
ともかくそのインパクトはパソコンが「表計算やワープロとして使えるから便利だ」という合理的な意味合い以前の問題だった。それは精神の働きを拡大する新しいドラッグか新しい宗教のように当時の我々を包み込んだのである。
そもそもApple II が誕生した時代、一般ユーザーにコンピュータをライフスタイルの一部として売り込み、顧客に「パソコンを買うというアイデア」と動機付けを植え付けたのはスティーブ・ジョブズだった。Apple II という小さなマシンに大きな未来を乗せたのもスティーブ・ジョブズだった。最高のビジョナリーといわれる所以である。
1986年1月、ジョブズの去ったAppleだったがサンフランシスコでは好例のMacworld Expoが開催された。
ジョブズを追い出した男...ジョブズの代わりを求められたジョン・スカリー CEOはインタビューアーの辛辣な質問に答えた...。
「(スカリー体制でAppleは)新しい会社になるのか?」「将来(これから)のAppleについてどう予測するか?」といった問いにスカリーはこれまでのビジョンは変える必要がないとし、Appleの目標は世界で最もエキサイティングな会社にすることだと答えた。
それはまるでジョブズのいう台詞だった。というか、スカリーにもジョブズの考えてきたビジョンを変えたり取り去っては、それはAppleではなくなってしまうことは明白だったからだろう。
後年Appleに復帰したジョブズの年俸はずっと1ドルのままだった。無論生活に困るわけではなかったが、若い頃から一貫して金では動かない人物の怖さ、それがスティーブ・ジョブズという男を理解するひとつのキーワードではないだろうか。
さらにスティーブ・ジョブズは生粋の技術者ではなかったが、巷でいわれているように技術的なことを知らない男ではなかった。そもそもがエレクトロニクス狂だったし、科学博好きでホームステッド高校ではエレクトロニクスを勉強した。また父親の影響もあって、サニーベールやマウンテンビューの大きなエレクトロニクス部品店にはしばしば通っていた。
スティーブ・ウォズニアックと友達になったとき、エレクトロニクス好きだったウォズの一番の理解者は間違いなくジョブズだった。
私が思うにスティーブ・ジョブズこそ1960年代のカウンター・カルチャーと称される反体制、自由指向を背景にしたハッカー精神を終生忘れないでいた希有な人物だったという気がする。
ジョブズは反統制指向、ドラッグが相乗的にアメリカのアート、音楽、文学、思想などありとあらゆる文化に多大な影響を与え、既存の価値観を否定する気風が高まった時代に育った。まさしく彼自身ヒッピーだった。
この時代は知識を共有すると共に、いまの管理社会を変えようという強い意識が若者たちに浸透していた時代だった。あのホームブリューコンピュータクラブに集まったリー・フェルゼンスタインやスティーブ・ドンビアあるいはスティーブ・ウォズニアックたちの多くは当時マイコンに関するあらゆる新しい情報はすべて共有されるべきだと考えていた。
よく知られていることだが、ウォズニアックはApple I の回路図でさえ必要だという人たちに無料で配った。

※ウェストコーストコンピュータフェア会場でリー・フェルゼンスタインと視線を交わすスティーブ・ジョブズ
無論彼らは誰かから指示された訳でもなく、自分たちのやりたいことだけを思うように実践していたのである。
当時ソフトウェアを売って商売にしようと考えたのはビル・ゲイツとポール・アレンくらいしかいなかった(笑)。
ホームブリューコンピュータクラブの戦士たちは、他者のために自分たちの才能をふるうべきというハッカー精神を実践していた。そして誰にでも使えるコンピュータの実現という共通の夢を分かち合えるようにと努力していたのである。
しかし時代は確実に変わりつつあっ た。それはハッカー精神に反すると考える向きもあったものの次第にビジネス色が色濃くなったことだ。パソコンがビジネスとなり、金儲けができる時代になったことはハッカーたちも敏感に感じ取っていた。
1976年の終わり頃のシリコン・バレーでは、プロセッサ・テクノロジー、クロメンコ、ノース・スター、ベクター・グラフィックといった会社が名を成しはじめていて少し前にはまったくなかったひとつの産業を築きつつあった。そしてそれら新興企業のスタッフや創業者には牙を抜かれた、あるいはハッカー精神を捨てたかつてのハッカーたちの姿も多かったのである。
依然として食うため以上の金は取らないと考えていたリー・フェルゼンスタインのような人物もいたが、それらの人たちは絶滅種になったのである。しかしApple創業者のひとりスティーブ・ジョブズは親友のウォズニアックの尻を叩き、世界を変えることを旗印にApple IIをビジネスの軌道に乗せるべく力を注ぎ、結果億万長者になったものの、多くの人たちが忘れあるいは妥協し放棄したハッカー精神というものを生涯持ち続けていたと考えれば彼の一連の言動には納得のいくことも多い。
ジョブズは良くも悪くも終生少年の心を持ったままのパソコンオタクであり、アマチュアリズムを忘れないハッカーだったのだ。
Appleはスティーブ・ジョブズの全てだった。スティーブ・ジョブズはAppleと同義だった。そのジョブズがいないAppleは果たしてどこに向かうのか…。

※6色アップルロゴが燦然と輝いていた時代のApple本社
かつてジョブズが追放されたとき、ビジョンで光り輝きクレイジーだったAppleはアノミー(anomie)感覚、すなわち孤立感とか断絶感といったものが充満し、結果として次第に弛緩・崩壊する方向に向かった。
いま再びジョブズがいなくなったAppleはどうなるのか…。
例えばジョブズは復帰後も株主というものを信頼していなかったから大幅な利益を出していたにもかかわらず一貫して株式配当はしなかった。しかし先般ティム・クック CEO 率いる新生Appleは株主還元プログラムに必要な現金を用立てるためとし、節税対策も鑑み170億ドルもの社債を発行した。
このひとつを取ってもAppleはジョブズ時代のAppleではなくなりつつあるが、再びアノミー感覚にとらわれる企業にならないことを切に願うばかりだ...。
【主な参考資料】
・「エデンの西 (上・下)」サイマル出版会
・「コンピュータ帝国の興亡」アスキー出版局
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社 ・「ハッカーズ」工学社 ・「パソコン創世記」TBSブリタニカ
スティーブ・ジョブズという男は死しても尚、なぜこれほど人々の注目を集めるのだろうか。そのカリスマ性はどこからくるのか...?という疑問に少しでも迫ってみたいというのが本編の趣旨である。

※晋遊舎刊ムック「Windows100%」2013年6月号の丁度100ページから見開き2ページ「ジョブズって神格化されすぎじゃね?」を執筆。35年にも及ぶライター稼業でWin専門誌に原稿書いたのはこれが初めてのはずだ(笑)
さて1996年12月、Apple がNeXTを買収しジョブズも顧問という形でAppleに復帰した後の活躍はあらためてご紹介することもないだろう。
Appleが瀕死の状態だったのを立て直し、世界一の企業にしたのはジョブズだったしその彼が神とか天才と讃えられたのも分からないではないが、昨今見聞きするジョブズ評価のほとんどはApple復帰後のものばかりなのがオールドファンには些か気がかりであるし、そもそも片手落ちのように思える。
とはいえ、別に彼の若かりし頃の悪たれの多くを暴き出し「ほれ見たことか、ジョブズとはこんな男だったのだ」と悪口を述べるつもりはない。そうではなくて本当のジョブズという人物の凄さ、ジョブズの本音・真意を知るにはApple復帰以前...やりたい放題時代の彼を見つめ直さなければ分からないと思うのだ。

※1977年当時のスティーブ・ジョブズ。スーツを身に纏ってはいるがヒッピー同然の姿だ。しかしその視線には抗しがたい魅力がある
後年のスティーブ・ジョブズは病気を別にすれば幸運にも恵まれ、かつ市場やメディアに対する対応の仕方を学習したからだろう…少なくとも対外的には大人の対応が目立つ人物になった。しかしスティーブ・ジョブズはスティーブ・ジョブズであり、ことAppleに関して自分のビジョンに反する意見や相手には相変わらず辛辣で容赦がなかった。
果たしてスティーブ・ジョブズとは何者だったのだろうか?
スティーブ・ジョブズはなぜシリコン・バレーに乱立した幾多のベンチャー企業の創業者たちと比較してもこれほどまでにカリスマ性を失わずにいられたのだろうか?
以下はそんな私自身が常々疑問に思ってきたことに対するひとつの回答でもあり、いたづらに神とか天才といった言葉で祭り上げるのではなく、スティーブ・ジョブズという男の本当の凄さをあらためて認識したいとする試みのひとつだ。
ところで「トラブルメーカー」…。この言葉ほどスティーブ・ジョブズという人物を一言で表すのにふさわしい言葉はないかも知れない。
ともかく他人の意見には耳をかさない…という以前に自分の言動に対して他人からどう思われるかなどまったく気にしない人物だった。交渉に出向いた会社で会議冒頭に「もっとマシな話はないのか」とテープルをひっくり返さんばかりの癇癪を起こしたりもした。

※Macintoshがリリースしたばかりの1984年2月13日号「InfoWorld」誌表紙にはセーターを着た珍しいジョブズが載っている
私たちは少なからず組織とか世間の評価を気にしながら生きている。だからこんな事をしたり、あんな発言をすれば人からどのように思われるだろうか…と内心気にしながら生きているといって良いだろう。
嫌な奴、ケチな野郎、頭の悪い人、センスのかけらもない男…等々といわれたくない、思われたくないと、時に虚栄心が起きたり背伸びをしたりもする。要するに自信がないといわれれば身も蓋もないが、人から悪くは思われたくないのである。
しかしスティーブ・ジョブズはそうした世間の思惑からは無縁のような男だった。
彼は親友であるはずのウォズニアックに嘘をつきバイト代をちょろまかしたし、独身時代恋人に生ませた子供の認知をずっと拒否し続け( 後に妻のローリーンに諭されて認知 )、気に入らないと社員たちを罵倒し時にそれは社員たち家族への悪口までエスカレートする。そして株式公開にあたり創業時から苦楽を共にした社員らにストックオプションの給付を拒否したり、レストランに行けばウェイトレスらが運んできた料理に理由もなく難癖をつけて突き返すという男でもあった。
さらに自身にとって都合が悪ければ所構わず泣き叫ぶ…。まるで赤子のようである。
赤子といえば...1978年、社員番号69番として、またAppleが雇った最初のMBA取得者として入社し、後にエレクトロニック・アーツ社を設立したトリップ・ホーキンスは生前のジョブズを評していう…。
「スティーブは、本当の両親のことを何も知らなかった。彼は、あまりにも騒々しい人生を送っている。何に対しても大声で泣きわめくんだ。十分に大きな泣き声をたてれば本当の両親が泣き声を聞きつけて、彼を捨てたのは間違いだったと気がつくと思っているんじゃないかな。」と。
他人がどう思おうと、自分の信念を…泣き叫んでも通そうとするのが若い時のスティーブ・ジョブズだった。
「ACCIDENTAL EMPIRES (和名:コンピュータ帝国の興亡)」1993年アスキー出版局刊の著者ロバート・X・クリンジリーは同書でジョブズを称し「シリコンバレーでもっとも危険な男」だという。
それはスティーブ・ジョブズは他の連中と違い、金儲けのためにこの業界にいるわけではない。だからこそ危険なのだと書いている…。
クリンジリーによれば、マイクロソフトのビル・ゲイツはパソコンとは世界中の通貨を自分のポケットに集める道具だと考えているから、金さえ払ってくれれば人々がコンピュータをどう扱おうと一向に気にしない。しかしジョブズはそこが気になるし、コンピュータで世界を変えたいと願い、為に世界中に向かいコンピュータの使い方を教え、コンピューティングのスタイルを定めたいと思っているという。

※「FORTUNE」誌 1984年2月20日号より、シカゴで開催されたディーラーミーティングでポーズを取るジョブズ
だから仕事に対する満足度が金で計られ、成功し裕福になって40歳で退職することが目標のシリコンバレー的なCEOの基準からすれば、スティーブ・ジョブズはクレイジーなのだ。
金で動かない人間がシリコンバレーにいる、だからこそ危険なのだ。人は成功して知名人となり金持ちになりたいからこそ起業したり転職したりするのが普通の人間だ…。しかしジョブズは多くの人たちや世間が反対しようが気にしない。成功の確率も気にしない。万一どれだけ損害を被るかも気にしない。そもそも自分のビジョンが最優先であり、信念を押し通すことができれば勝つ必要さえないというのがジョブズの流儀なのだ。
我々は結果から過去を見ている…。したがって1976年にジョブズらがApple Computerという会社を創業したという事実を輝かしいことと思っているが、それは一度間違ったら多大な負債を背負うことでもあり大きなリスクを背負うことだった事実を知らなすぎる。そしてなによりも当時のジョブズにもウォズニアックにも持ち金はなかった(笑)。
したがって、もうひとりの創立者であったロン・ウェインがAppleを創業したばかりでその先行きを心配し、早々に離脱したことを我々は笑えないし、ウォズニアックもウェインの決断はその時点で正当な判断だったといったほどだった。
Apple創立前に一緒にインドを放浪したダン・コケトによれば現在のシリコンバレーとは違い1970年代に会社を設立すること自体がかなり難しいことだったそうだ。そして彼は「Appleという会社が生まれたこと自体が幸運だった」といっている。しかしジョブズは突っ走った…。

※1976年Apple創業時のスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック
良し悪しはともかく今日我々が感じている “Appleらしさ” というすべてはスティーブ・ジョブズが生んだものだ。「Appleのビジョン」という目に見えないものを形作り、社員たちはもとより我々ユーザーにまでそれらを感染させたのは間違いなくスティーブ・ジョブズその人だった。まあ…正確にいうならレジス・マッケンナやマイク・マークラの仕掛けも多いにあるのだが…。
ともかくそのインパクトはパソコンが「表計算やワープロとして使えるから便利だ」という合理的な意味合い以前の問題だった。それは精神の働きを拡大する新しいドラッグか新しい宗教のように当時の我々を包み込んだのである。
そもそもApple II が誕生した時代、一般ユーザーにコンピュータをライフスタイルの一部として売り込み、顧客に「パソコンを買うというアイデア」と動機付けを植え付けたのはスティーブ・ジョブズだった。Apple II という小さなマシンに大きな未来を乗せたのもスティーブ・ジョブズだった。最高のビジョナリーといわれる所以である。
1986年1月、ジョブズの去ったAppleだったがサンフランシスコでは好例のMacworld Expoが開催された。
ジョブズを追い出した男...ジョブズの代わりを求められたジョン・スカリー CEOはインタビューアーの辛辣な質問に答えた...。
「(スカリー体制でAppleは)新しい会社になるのか?」「将来(これから)のAppleについてどう予測するか?」といった問いにスカリーはこれまでのビジョンは変える必要がないとし、Appleの目標は世界で最もエキサイティングな会社にすることだと答えた。
それはまるでジョブズのいう台詞だった。というか、スカリーにもジョブズの考えてきたビジョンを変えたり取り去っては、それはAppleではなくなってしまうことは明白だったからだろう。
後年Appleに復帰したジョブズの年俸はずっと1ドルのままだった。無論生活に困るわけではなかったが、若い頃から一貫して金では動かない人物の怖さ、それがスティーブ・ジョブズという男を理解するひとつのキーワードではないだろうか。
さらにスティーブ・ジョブズは生粋の技術者ではなかったが、巷でいわれているように技術的なことを知らない男ではなかった。そもそもがエレクトロニクス狂だったし、科学博好きでホームステッド高校ではエレクトロニクスを勉強した。また父親の影響もあって、サニーベールやマウンテンビューの大きなエレクトロニクス部品店にはしばしば通っていた。
スティーブ・ウォズニアックと友達になったとき、エレクトロニクス好きだったウォズの一番の理解者は間違いなくジョブズだった。
私が思うにスティーブ・ジョブズこそ1960年代のカウンター・カルチャーと称される反体制、自由指向を背景にしたハッカー精神を終生忘れないでいた希有な人物だったという気がする。
ジョブズは反統制指向、ドラッグが相乗的にアメリカのアート、音楽、文学、思想などありとあらゆる文化に多大な影響を与え、既存の価値観を否定する気風が高まった時代に育った。まさしく彼自身ヒッピーだった。
この時代は知識を共有すると共に、いまの管理社会を変えようという強い意識が若者たちに浸透していた時代だった。あのホームブリューコンピュータクラブに集まったリー・フェルゼンスタインやスティーブ・ドンビアあるいはスティーブ・ウォズニアックたちの多くは当時マイコンに関するあらゆる新しい情報はすべて共有されるべきだと考えていた。
よく知られていることだが、ウォズニアックはApple I の回路図でさえ必要だという人たちに無料で配った。

※ウェストコーストコンピュータフェア会場でリー・フェルゼンスタインと視線を交わすスティーブ・ジョブズ
無論彼らは誰かから指示された訳でもなく、自分たちのやりたいことだけを思うように実践していたのである。
当時ソフトウェアを売って商売にしようと考えたのはビル・ゲイツとポール・アレンくらいしかいなかった(笑)。
ホームブリューコンピュータクラブの戦士たちは、他者のために自分たちの才能をふるうべきというハッカー精神を実践していた。そして誰にでも使えるコンピュータの実現という共通の夢を分かち合えるようにと努力していたのである。
しかし時代は確実に変わりつつあっ た。それはハッカー精神に反すると考える向きもあったものの次第にビジネス色が色濃くなったことだ。パソコンがビジネスとなり、金儲けができる時代になったことはハッカーたちも敏感に感じ取っていた。
1976年の終わり頃のシリコン・バレーでは、プロセッサ・テクノロジー、クロメンコ、ノース・スター、ベクター・グラフィックといった会社が名を成しはじめていて少し前にはまったくなかったひとつの産業を築きつつあった。そしてそれら新興企業のスタッフや創業者には牙を抜かれた、あるいはハッカー精神を捨てたかつてのハッカーたちの姿も多かったのである。
依然として食うため以上の金は取らないと考えていたリー・フェルゼンスタインのような人物もいたが、それらの人たちは絶滅種になったのである。しかしApple創業者のひとりスティーブ・ジョブズは親友のウォズニアックの尻を叩き、世界を変えることを旗印にApple IIをビジネスの軌道に乗せるべく力を注ぎ、結果億万長者になったものの、多くの人たちが忘れあるいは妥協し放棄したハッカー精神というものを生涯持ち続けていたと考えれば彼の一連の言動には納得のいくことも多い。
ジョブズは良くも悪くも終生少年の心を持ったままのパソコンオタクであり、アマチュアリズムを忘れないハッカーだったのだ。
Appleはスティーブ・ジョブズの全てだった。スティーブ・ジョブズはAppleと同義だった。そのジョブズがいないAppleは果たしてどこに向かうのか…。

※6色アップルロゴが燦然と輝いていた時代のApple本社
かつてジョブズが追放されたとき、ビジョンで光り輝きクレイジーだったAppleはアノミー(anomie)感覚、すなわち孤立感とか断絶感といったものが充満し、結果として次第に弛緩・崩壊する方向に向かった。
いま再びジョブズがいなくなったAppleはどうなるのか…。
例えばジョブズは復帰後も株主というものを信頼していなかったから大幅な利益を出していたにもかかわらず一貫して株式配当はしなかった。しかし先般ティム・クック CEO 率いる新生Appleは株主還元プログラムに必要な現金を用立てるためとし、節税対策も鑑み170億ドルもの社債を発行した。
このひとつを取ってもAppleはジョブズ時代のAppleではなくなりつつあるが、再びアノミー感覚にとらわれる企業にならないことを切に願うばかりだ...。
【主な参考資料】
・「エデンの西 (上・下)」サイマル出版会
・「コンピュータ帝国の興亡」アスキー出版局
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社 ・「ハッカーズ」工学社 ・「パソコン創世記」TBSブリタニカ
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