カタログから 薄幸のマシンApple III を考察してみよう...
AppleがMacintosh以前にリリースしたパーソナルコンピュータといえば、Apple Iは勿論Apple II、Apple IIIそしてLisaという具合になる。これらの機種の内、私にとって一番影の薄いマシンといえばApple IIIなのだ(笑)。まあ、Apple Iは今となっては高嶺の花過ぎるが幸いLisaは完動品が手元にあるしApple IIは自身で使ってきた経緯があるもののApple IIIは実物を触ったことさえない...。
今般、Apple III関連のカタログを3種類入手した課程でいくつかの発見もあったので、これまで具体的に触れることはなかったApple IIIについて考えてみようと思う。

※Apple III
Apple IIIがリリースされたのは1980年5月19日にアナハイムで開催されたナショナル・コンピュータ・カンファレンスにおいてだった。そして当初は7月に出荷するとされていたものの実際製品が出荷されたのは秋に入ってからと随分と遅れる結果となった。
開発には2年ほどかかったようだが開発の陣頭指揮をとっていたのは勿論スティーブ・ジョブズであった。しかしApple IIがウォズニアック1人の仕事であったことと比べるとApple IIIはジョブズにより集められたチームで開発が進められたがそのコンセプトはビジネス市場をターゲットにしたものだった。というよりApple IIが持っている家庭ならびにホビー向けというイメージとは隔絶し、よりパワフルでプロフェッショナル向けの高性能マシンを目指したのがApple IIIだった。
しかし今回あらためてこのApple III誕生の経緯を調べているとこの時代のAppleは失敗に学ぶことはなく同じような失策を繰り返していることがよくわかる(笑)。

※Apple III発売と同時に1980年製作されたカタログ「Apple III Information Analyst ~ More Than A Worksaver 」表紙。このカタログにはあのProfileハードディスクの記載はない
Apple IIIにはApple IIのエミュレーションモードも備えていたが、Apple III 用に開発されたソフトウェアでこそその実力を発揮し、Sophisticated Operating SystemというOSやリアルタイムクロック、80桁×24行表示、最大560×192ピクセルのモノクログラフィックスモードを活かすことができた。しかし結果論だがこのApple III用としてのソフトウェアも多くはなくハードウェア販売の後押しにはならなかった。
CPUはApple IIの2倍にあたる2MHzのクロックで動作する6502Aが採用され、RAMは最大128KB搭載でき、容量143KBのシュガート社製5.25インチフロッピーディスクドライブを一基内蔵していた。
またキーボードはテンキーが組み組まれていたこともあって重いと同時にApple III本体のサイズはApple IIと比較するとかなり大ぶりな姿だった。
当時ウォズニアックはこのApple IIIの開発には携わっていなかったという。Apple IIとIIIは狭いフロアの中で開発が進められていたためウォズニアックもその進捗状況を見ていたものの開発の主導権はエンジニアたちではなくスティーブ・ジョブズやマイク・マークラといった管理職や経営陣だったことが問題を多く引き起こす元凶だった。
なにしろジョブズは相変わらず昨日指示したことを今日は撤回するといった言動が続き開発に遅れを生じさせる。その上、ジョブズはApple IIIに冷却ファンは必要ないとしケースのサイズもエンジニアたちの要求を無視して決めてしまう。そうした原因も含めApple IIIは電源を入れたままにしておくとマザーボードは熱くなりチップは僅かながら膨張してソケットから抜け電源が落ちたり動作不良を起こした。さらに部品同士をつなぐ短いケーブルは金メッキされていないことで腐食が進み問題をさらに大きくしてしまう。
Appleは何としてでも自社のメインコンピュータをApple IIからApple IIIへ移行させたかった。そのためApple IIIの発表後、Apple IIに関する技術的なプロジェクトはキャンセルされ、その取り組みが禁止されたという。
文字通りApple Computer社の社運をApple IIIに託した様々な努力が続けられたが当のApple IIIはトラブルが続き売れず、結局Apple初の大失策となった。
「アップルコンフィデンシャル」によれば6番の社員番号を持つランディ・ウィギィントンの「Apple IIIは乱交パーティで身ごもってしまった赤ん坊のようなものだった。その後みんなはこの私生児に頭を悩まし、誰もが自分の子ではないと主張するんだ」という発言は当時のニュアンスを実に良く伝えているように思う。
Apple IIIは不良品の交換サービスや部品の改良などを続けたが市場に対して一度失った信頼を取り戻すことができなかった。
1983年12月、Appleは改良したApple III Plusを安価で提供したが結局1984年4月24日、この製品ラインを廃止した後、翌年1985年9月にはAppleの製品リストから消去させている。
業界ではApple IIIのOS (Sophisticated Operating System) を遭難信号と同じ頭文字から「SOS」と呼んで揶揄したという。
Apple IIIの失敗は6,000万ドル以上の損失とされたがスティーブ・ウォズニアックの個人的な試算では3億ドルに達したという。そういった時期、Appleの稼ぎ頭は相変わらずApple IIだった。Apple IIがAppleの屋台骨を支えていたのである。
ウォズニアックはその頃の印象を「1980年から1983年まで、AppleはApple IIIを最優先に動いた。Apple社ではなくApple III社といってもよいくらいだった...」と回想している。
そういえば1977年5月からAppleの社長を務め、Appleの株公開まで尽力したマイケル・スコットが1981年3月にAppleを去っている。Appleの歴史を時系列に眺めるとこのマイケル・スコットの不在が当時のApple経営の根幹をマイク・マークラやスティーブ・ジョブズの思い通りにさせてしまったように思えてならない。

※1982年発行のApple IIIカタログ「The Apple III Personal Computer System For The Professional」表紙
ところで今回Apple IIIのカタログ類を数種入手でき、それらを比較していたときに気がついたが発表当時(1980年)のカタログ「Apple III Information Analyst ~ More Than A Worksaver 」にはあのプロファイル(Profile)ハードディスクは存在していないのである。
現在私たちが見ることが出来るApple IIIの写真の多くには後にLisaに転用されたこの5MBのハードディスクが装備されている。しかし繰り返すが1980年発売当時のカタログに周辺機器として紹介されているのはプリンタと外部フロッピーディスクドライブだけである。
ただし2年後の1982年に製作されたApple IIIのカタログ「The Apple III Personal Computer System For The Professional」にはこのシーゲイト社製ST506規格のディスクを利用した3,495ドルもするハードディスクが紹介されているが、そのリリースは1981年の11月だったようだ。

※前記「The Apple III Personal Computer System For The Professional」に記載されているProfileハードディスク。後にLisaに転用される
この時期、IBM PCにはまだハードディスクがなかったこともあり、Appleの優位性が目立ったものの本体のApple IIIが売れなかったことでその存在意味はなくなってしまったのである。
Apple IIIはAppleにとって最初の悪夢であったし誰もがその悪夢をいち早く忘れようとした時代だったがこうした大きな失策をしても会社の経営に根本的な問題を生せず、Appleの屋台骨を支え続けたApple IIというパソコンの偉大さにあらためて敬意を表したいと思う。
そう、なぜ私がApple IIIを触ったことがなかったのか...。それは当時Appleの日本総代理店だったESD社の水島社長が「Apple IIIは高価な上にApple IIと同様8ビットマシンだしエミュレーションでApple IIのソフトも走るから存在が薄い。それにApple II以上に信頼性にかけるから取り扱わない」と判断されたからだ。この判断は正しかったわけだが、だからこそAppleの総本山であったESDでも私はApple IIIに巡り会った記憶がないのである。
まったくもってApple IIIは後のLisa以上に薄幸のマシンだったのである。
【主な参考資料】
・スティーブ・ウォズニアック著「アップルを創った怪物」ダイヤモンド社刊
・斎藤由多加著「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊
・オーウェン・W・リンツメイヤー/林信行著「アップル・コンフィデンシャル2.5J」アスペクト刊
今般、Apple III関連のカタログを3種類入手した課程でいくつかの発見もあったので、これまで具体的に触れることはなかったApple IIIについて考えてみようと思う。

※Apple III
Apple IIIがリリースされたのは1980年5月19日にアナハイムで開催されたナショナル・コンピュータ・カンファレンスにおいてだった。そして当初は7月に出荷するとされていたものの実際製品が出荷されたのは秋に入ってからと随分と遅れる結果となった。
開発には2年ほどかかったようだが開発の陣頭指揮をとっていたのは勿論スティーブ・ジョブズであった。しかしApple IIがウォズニアック1人の仕事であったことと比べるとApple IIIはジョブズにより集められたチームで開発が進められたがそのコンセプトはビジネス市場をターゲットにしたものだった。というよりApple IIが持っている家庭ならびにホビー向けというイメージとは隔絶し、よりパワフルでプロフェッショナル向けの高性能マシンを目指したのがApple IIIだった。
しかし今回あらためてこのApple III誕生の経緯を調べているとこの時代のAppleは失敗に学ぶことはなく同じような失策を繰り返していることがよくわかる(笑)。

※Apple III発売と同時に1980年製作されたカタログ「Apple III Information Analyst ~ More Than A Worksaver 」表紙。このカタログにはあのProfileハードディスクの記載はない
Apple IIIにはApple IIのエミュレーションモードも備えていたが、Apple III 用に開発されたソフトウェアでこそその実力を発揮し、Sophisticated Operating SystemというOSやリアルタイムクロック、80桁×24行表示、最大560×192ピクセルのモノクログラフィックスモードを活かすことができた。しかし結果論だがこのApple III用としてのソフトウェアも多くはなくハードウェア販売の後押しにはならなかった。
CPUはApple IIの2倍にあたる2MHzのクロックで動作する6502Aが採用され、RAMは最大128KB搭載でき、容量143KBのシュガート社製5.25インチフロッピーディスクドライブを一基内蔵していた。
またキーボードはテンキーが組み組まれていたこともあって重いと同時にApple III本体のサイズはApple IIと比較するとかなり大ぶりな姿だった。
当時ウォズニアックはこのApple IIIの開発には携わっていなかったという。Apple IIとIIIは狭いフロアの中で開発が進められていたためウォズニアックもその進捗状況を見ていたものの開発の主導権はエンジニアたちではなくスティーブ・ジョブズやマイク・マークラといった管理職や経営陣だったことが問題を多く引き起こす元凶だった。
なにしろジョブズは相変わらず昨日指示したことを今日は撤回するといった言動が続き開発に遅れを生じさせる。その上、ジョブズはApple IIIに冷却ファンは必要ないとしケースのサイズもエンジニアたちの要求を無視して決めてしまう。そうした原因も含めApple IIIは電源を入れたままにしておくとマザーボードは熱くなりチップは僅かながら膨張してソケットから抜け電源が落ちたり動作不良を起こした。さらに部品同士をつなぐ短いケーブルは金メッキされていないことで腐食が進み問題をさらに大きくしてしまう。
Appleは何としてでも自社のメインコンピュータをApple IIからApple IIIへ移行させたかった。そのためApple IIIの発表後、Apple IIに関する技術的なプロジェクトはキャンセルされ、その取り組みが禁止されたという。
文字通りApple Computer社の社運をApple IIIに託した様々な努力が続けられたが当のApple IIIはトラブルが続き売れず、結局Apple初の大失策となった。
「アップルコンフィデンシャル」によれば6番の社員番号を持つランディ・ウィギィントンの「Apple IIIは乱交パーティで身ごもってしまった赤ん坊のようなものだった。その後みんなはこの私生児に頭を悩まし、誰もが自分の子ではないと主張するんだ」という発言は当時のニュアンスを実に良く伝えているように思う。
Apple IIIは不良品の交換サービスや部品の改良などを続けたが市場に対して一度失った信頼を取り戻すことができなかった。
1983年12月、Appleは改良したApple III Plusを安価で提供したが結局1984年4月24日、この製品ラインを廃止した後、翌年1985年9月にはAppleの製品リストから消去させている。
業界ではApple IIIのOS (Sophisticated Operating System) を遭難信号と同じ頭文字から「SOS」と呼んで揶揄したという。
Apple IIIの失敗は6,000万ドル以上の損失とされたがスティーブ・ウォズニアックの個人的な試算では3億ドルに達したという。そういった時期、Appleの稼ぎ頭は相変わらずApple IIだった。Apple IIがAppleの屋台骨を支えていたのである。
ウォズニアックはその頃の印象を「1980年から1983年まで、AppleはApple IIIを最優先に動いた。Apple社ではなくApple III社といってもよいくらいだった...」と回想している。
そういえば1977年5月からAppleの社長を務め、Appleの株公開まで尽力したマイケル・スコットが1981年3月にAppleを去っている。Appleの歴史を時系列に眺めるとこのマイケル・スコットの不在が当時のApple経営の根幹をマイク・マークラやスティーブ・ジョブズの思い通りにさせてしまったように思えてならない。

※1982年発行のApple IIIカタログ「The Apple III Personal Computer System For The Professional」表紙
ところで今回Apple IIIのカタログ類を数種入手でき、それらを比較していたときに気がついたが発表当時(1980年)のカタログ「Apple III Information Analyst ~ More Than A Worksaver 」にはあのプロファイル(Profile)ハードディスクは存在していないのである。
現在私たちが見ることが出来るApple IIIの写真の多くには後にLisaに転用されたこの5MBのハードディスクが装備されている。しかし繰り返すが1980年発売当時のカタログに周辺機器として紹介されているのはプリンタと外部フロッピーディスクドライブだけである。
ただし2年後の1982年に製作されたApple IIIのカタログ「The Apple III Personal Computer System For The Professional」にはこのシーゲイト社製ST506規格のディスクを利用した3,495ドルもするハードディスクが紹介されているが、そのリリースは1981年の11月だったようだ。

※前記「The Apple III Personal Computer System For The Professional」に記載されているProfileハードディスク。後にLisaに転用される
この時期、IBM PCにはまだハードディスクがなかったこともあり、Appleの優位性が目立ったものの本体のApple IIIが売れなかったことでその存在意味はなくなってしまったのである。
Apple IIIはAppleにとって最初の悪夢であったし誰もがその悪夢をいち早く忘れようとした時代だったがこうした大きな失策をしても会社の経営に根本的な問題を生せず、Appleの屋台骨を支え続けたApple IIというパソコンの偉大さにあらためて敬意を表したいと思う。
そう、なぜ私がApple IIIを触ったことがなかったのか...。それは当時Appleの日本総代理店だったESD社の水島社長が「Apple IIIは高価な上にApple IIと同様8ビットマシンだしエミュレーションでApple IIのソフトも走るから存在が薄い。それにApple II以上に信頼性にかけるから取り扱わない」と判断されたからだ。この判断は正しかったわけだが、だからこそAppleの総本山であったESDでも私はApple IIIに巡り会った記憶がないのである。
まったくもってApple IIIは後のLisa以上に薄幸のマシンだったのである。
【主な参考資料】
・スティーブ・ウォズニアック著「アップルを創った怪物」ダイヤモンド社刊
・斎藤由多加著「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊
・オーウェン・W・リンツメイヤー/林信行著「アップル・コンフィデンシャル2.5J」アスペクト刊
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