「解体新書」底本のミステリー(前編)

私の手元には集めたいくつかの「解体新書」がある。現代語訳の書籍や解説本、そして西村書店編集部の復刻版などだが、個人的に特別な存在としていわゆるレプリカが二種ある。レプリカとは申し上げるまでもなく本物に忠実に作られた複製品であるが、そのレプリカを比較する過程で謎が生じた…。


念のために記すが、「解体新書」とは前野良沢、杉田玄白、中川淳庵らが協力して翻訳にあたり、安永三年(1774年)に刊行された西洋医学書の翻訳書だ。原典はドイツ人ヨハン・アダム・クルムスのオランダ語版であり通称「ターヘル・アナトミア」と呼ばれていた。

この翻訳および刊行は、一時代を画する偉業として医学史上高く評価され、以後我が国の名医たちが次々と本書に学び、医学の発展に偉大なる貢献をした歴史的偉業なのだ。
まあ、興味の無い方にとってはどうでもよい話題だろうが「解体新書」フリークの私にとってはなかなかに時代は勿論、関わった人たちの人間模様等々、実に興味深いテーマなのである。
ということでまず分かっている範囲ではあるが二種の「解体新書」レプリカの詳細を記してみよう。なお人名の敬称は略させていただいた。そしてそれぞれの詳細についてはリンク先をご参照願いたい。

1)「大鳥蘭三郎・解体新書」小川鼎三監修/大鳥蘭三郎校註
http://www.mactechlab.jp/article61.html
  出版: 1973年(昭和48年)講談社
表紙:雲母入鳥の子/渋茶
底本:慶応義塾大学医学部北里記念医学図書館所蔵
装丁:「解体新書」全五巻が帙に保護され専用の桐箱に収められている
  発売当時の価格:39,000円
  企画:「解体新書」発行二百年記念として3,000部発行

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※「大鳥蘭三郎・解体新書」小川鼎三監修/大鳥蘭三郎校註の「解体新書」レプリカ


2)国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」小川鼎三/緒方富雄監修
http://www.mactechlab.jp/article60.html
出版:1978年(昭和53年)日本世論調査研究所
表紙:藍色の和紙
底本:靜嘉堂文庫所蔵
  装丁:出前用岡持ちのような縦置桐箱に他の和書(レプリカ)と共に帙に保護されて収納
  発売当時の価格:330,000円
  企画:日蘭修交三百八十年記念

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※国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」小川鼎三/緒方富雄監修の「解体新書」レプリカ


共に四十年以上も前のものだが、昨今出版業界が大きく低迷している現状ではこうした高度で熱意のある出版は今後も期待できないと考えている。それだけにこの二種類のレプリカは個人的な宝でもある…。
さて「解体新書」の製本は木版印刷した和紙を、真ん中で二つ折りにして、端を揃えて糸で綴じる和綴じだが、四つ目綴じとか明朝綴じといわれ当時のポピュラーな製本方法だ。そして現代の我々は忘れがちであるが、原本は木版であり多いときには同じ版木で数百部が摺られたという。

勿論売れ行きがよければ何度も摺り増しを行った。問題は「解体新書」の場合、増刷が何度あり全部で何冊摺られたかはすでに不明だが、浮世絵がそうであるように大量に摺れば版木が痛んできてシャープな印刷ができなくなってくる。事実「解体新書」にも版木を彫り直したと思われる版もあるようだ。そうした意味においても浮世絵は初版がもっとも価値あるものとされる。
実際に前記二種を比べても版木の違いが刷った結果として差に現れている。具体的にいえば「大鳥蘭三郎・解体新書」小川鼎三監修/大鳥蘭三郎校註の方が断然シャープである。

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※木版の精緻さ比較。左が「大鳥蘭三郎・解体新書」で右が「日本医学の夜明け」版の扉画【クリックで拡大】


さて本題に入るが、では前記した二つのレプリカが見本としたオリジナル、すなわち底本の「解体新書」は同じ時期に刷られ販売されたものなのだろうか。共に安永三年に刊本されたものだがそのクオリティはともかく、気になったのは二つのレプリカの表紙の色と判型サイズが違っていたことだった。

「大鳥蘭三郎・解体新書」版の表紙は雲母入鳥の子/渋茶だが、日本医学の夜明け」版の方は藍色である。拘るようだがレプリカ、復刻版となればオリジナルのままに再現するのが基本のはずだ。大切なのは中身であるからして表紙の色などどうでも良い…とは言えない。
馬鹿な物言いに聞こえるかも知れないが、杉田玄白や中川淳庵が刷り上がり製本された「解体新書」の表紙に藍色を見たのか、渋茶を見たのかは私にとってどうでもよい事ではないのである。

「大鳥蘭三郎・解体新書」版は慶応義塾大学医学部北里記念医学図書館所蔵のものを使用したと解説書にある。ただしこの原本は流布されたものが五巻ひと組だったのとは違い、上下二巻にまとめられその判型もやや大きいという。監修者の大鳥蘭三郎があとがきで「将軍家・宮家あたりに献上するために、特別に刷られたものではないかと推察される」と書かれているが、一方レプリカ製作に対しては一般に流布している五巻本の体裁をとっている。
しかし「日本医学の夜明け」版と比較すると確かに判型自体が縦横2,3mm大きいし刷られた版木の寸法もかなり違う。

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※判型の差比較。左が「日本医学の夜明け」版の奥付で右が「大鳥蘭三郎・解体新書」版の奥付。和本の判型も些か「大鳥蘭三郎・解体新書」版が大きい


現在のようにコピー機でプリントサイズを拡大縮小できる時代ではなく、「大鳥蘭三郎・解体新書」版の解説にあるように底本すなわち版木自体が大きかったと思わなければならない。
事情に疎い私などはどこか版木はひとつであると思い込んでいた向きもあるが、浮世絵がそうであったように最初から複数の彫り師に複数の版木を彫らせることは珍しいことではなかったようだ。さらに私自身はまた見たことはないが、版元の須原屋市兵衛の所在地が奥付に記載されているが、本によって「日本橋室町二丁目」と「日本橋室町三丁目」の二種類が存在しているという。理由についてはよく分かっていないようだが、三丁目の上が欠けて二丁目になったのでなければ版が違うということになる。

さて表紙の話しだが、ネットでググってみると初版本として残存しているいくつかの「解体新書」の表紙は藍色ではなく古書のため色あせたりしているが渋茶といった色であり、今のところ藍色の表紙を持つオリジナルには行きついていない。
この藍色の表紙で復元されている「日本医学の夜明け」版だが、セットに付属する470ページにもなる豪華な解説本によれば「靜嘉堂文庫」所蔵の「解体新書」を手本にしたとある。

靜嘉堂文庫といえば東京都世田谷区岡本にある専門図書館及び美術館である。国宝や重文を含む日本および東洋の古典籍及び古美術品を収蔵しているが、事業主体は公益財団法人静嘉堂。そして同財団は三菱財閥の第二代総帥岩崎弥之助・第四代総帥岩崎小弥太父子の所有した庭園と遺品の古典籍・古美術コレクションを基礎として発足したとのこと。
しがってそこに収蔵されている「解体新書」だとすれば、由緒由来が不明なものではあるまい…。ただ残念な事にその「解体新書」のビジュアルが確認出来ないだけでなく同文庫は専門家のための図書館ということで一般からの問い合わせ窓口もないので現在も所蔵しているかどうかはもとより、表紙の色が藍色であるかどうかについて今のところ分からない。

Wikipediaによれば「解体新書」の原本は日本大学医学部、初版は九州大学医学図書館、津山洋学資料館、中津市大江医家史料館などに所蔵とあるものの各所蔵の表紙ビジュアルは大江医家史料館を除きネット検索では確認できなかった。
ともあれ一応ネットで調べられるだけ調べた範囲で以下に所蔵されているという「解体新書」は初版本と明記されているものを含めすべて表紙は渋茶だったと思われ、藍色のものはなかった。

・適塾所蔵
・国立国会図書館
・慶應義塾大学信濃町メディアセンター所蔵
・東京大学医学図書館所蔵
・内藤記念くすり博物館所蔵
・東京医科歯科大学図書館所蔵
・大江医家史料館所蔵
・研医会図書館所蔵
・明星大学図書館所蔵
・甲南女子学園阿部記念図書館所蔵
・さぬき市志度/平賀源内記念館所蔵

では「日本医学の夜明け」の「解体新書」レプリカ表紙はなぜに藍色なのか…。それがいまのところ分からない。
オリジナルも初版と重版で違ったのか、あるいは「日本医学の夜明け」の「解体新書」復刻版制作時に何らかの意図があって意図的にオリジナルと違う色の和紙を使ったのか。あるいは底本そのものが刊本以後に何らか手を加えられたのか…。
とはいえ現存している「解体新書」で安永四年とか安永五年の刊行日付を持ったものは見つかっておらず、何部刷ったかはともかくすべてが安永三年の刊本のようである。

繰り返すが「日本医学の夜明け」のプロジェクトで復刻された「解体新書」は靜嘉堂文庫所蔵のものだと解説書に記されている。そして本企画の監修は解剖学者、医史学者で東京大学名誉教授の小川鼎三と血清学者、医学史学者、東京大学名誉教授の緒方富雄である。すでにお二人とも鬼籍に入っているが当時医学界の重鎮中の重鎮であり、僭越ながら復刻版を製作するにあたり参考にしたオリジナルを軽視するとは思えない。だとすれば靜嘉堂文庫所蔵の「解体新書」表紙は藍色なのか?

また例えば「日本医学の夜明け」に「解体新書」同様復元された「蘭学事始」や「和蘭医学問答」を確認するとそれらは底本に忠実な表紙の色を使っている。
ということで、いまのところ靜嘉堂文庫所蔵の「解体新書」がどういうものなのか、表紙が藍色なのかどうかは調べた限り分からないでいる。

とにかくそうそうパソコンの前に座っていて都合の良い資料が見つかるわけでないだろうが、これが今のところ個人的に謎を追った限界である…。
無論原書漢文の内容を読む、確認するだけならこうしたレプリカである必要はなく、例えば西村書店編集部の復刻版で十分用は足せるわけだが、当時の “知” と “文化” そして関わった人たちの情熱をよりよく知るには限りなく本物に近いものを手にしたいとレプリカを集めてきた次第。
この私的な疑問・謎を解く旅は本そのものに関してだけでなく、その扱いやこれまで保存されてきた過程・歴史にも秘密があるようだ。
というわけで、後編につづく…。

【主な参考資料】
・片桐一男著「知の開拓者 杉田玄白」勉誠出版
・片桐一男全訳注「杉田玄白 蘭学事始」講談社
・酒井シヅ全現代語訳「杉田玄白 解体新書」講談社
・緒方富雄校注「蘭学事始」岩波書店
・国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」日本世論調査研究所
・杉本つとむ編「図録 蘭学事始」早稲田大学出版部
・「大鳥蘭三郎・解体新書」付属「解体新書解説」講談社



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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。ゆうMUG会員