杉田玄白「鷧斎日録」を読む
日記をつけている方は少なくないと思うが、私はといえば日々つぶやくTwitterやInstagramなどへの投稿が一種の日記になっていると思うし、愛犬の成長ぶりを軸に「ラテ飼育格闘日記」を本ブログに週一で載せており、あらためての日記はつけていない。また自分の日記はともあれ、他人の日記を覗くというのはなかなかに興味深いものだが、著名人の公開されている日記の中には公開される…公開することを意識して書かれているものも多い。
さて今回は江戸時代に「解体新書」を著したことで知られている医師、杉田玄白の日記についてのお話しである。
玄白は筆まめというか記録魔というべきか、日記をこまめにつけていた。その一部であろうと思われるが、天明8年〜文化3年(1788年~1806年)までの日記が全九冊「鷧斎(いさい)日録」という名で伝わっている。これらは玄白56歳から74歳まで約19年間の日々の貴重な記録であるが、玄白は文化14年(1817年)に85歳で没しているから文字通り晩年の記録である。

※「鷧斎日録」全文が載っている株式会社生活社刊「杉田玄白全集第一巻」(1944年発行)
「鷧斎日録」の存在が世に知られだしたのは昭和11年(1936年)のことだったという。同年「東京朝日新聞」記事をはじめ、高浜二郎氏や原田謙太郎氏により「歴史地理」「日本医療新報」「中央公論」といった媒体に報道や論文の発表が相次いだ。
ちなみに私の手元には昭和11年9月に日本歴史地理学会発行「歴史地理」第六十八巻 第三号に「杉田玄白の手記『鷧斎日録』」と題された論文が載っている現物がある。


※昭和11年9月に日本歴史地理学会発行「歴史地理」と掲載されている高浜二郎氏の論文
ということで最初に「鷧斎日録」を玄白の子孫の方から閲覧を許されたのは高浜二郎氏だったが多々経緯もあってほとんど世に知られることなく、その後の新聞発表では「蘭学事始以上の珍本、百廿余年目に発見!」と国宝的珍書が発見されたと奉じている。
「鷧斎日録」は虫食いが甚だしいため、保険をかけた上で修理に出し、一枚一枚裏打ちをし一冊となるのを待ち構えるようにして原田謙太郎氏、内田孝一氏、岡本隆一氏、三廼俊一氏、杉靖三郎氏、村上秀氏の六氏により分担して写筆研究を行ったという。
結果予定よりかなり遅れたが、昭和19年11月15日に杉靖三郎氏を編者として株式会社生活社より「杉田玄白全集第一巻」として刊行された。
私の手元にはその初版本があるが、奥付を確認すると初版発行部数は1,500部で定価は十二円五十銭とある。ちなみにこの頃の物価をググってみると、1000円で家が建つとか軍事産業の工務部次長で34歳の男性の月給が167円だったといった話しがある。無論この前後は食料が配給制になったりと物価の変動が著しい戦渦の時代だった。ということで誤解を承知で言ってみれば十二円五十銭という価格は現在の50,000円ほどの重みがあったに違いない。
高価な専門書といった感じだったようだ。
ともかく戦時中でもあり紙不足でもあったからか紙質が著しく良くないものの600ページほどの本がまずまずの保存状態で入手できた。

※「杉田玄白全集第一巻」の奥付
さて、内容を見てみると天候、体調はもとより日々の出来事だけでなく随想、和歌、狂歌、俳句、漢詩、年収などが多彩に織り込まれている。
特に玄白が毎日のように小石川、浅草、吉原、品川まで江戸の町を広く往診に出かけていることにも頭が下がる。
要は…「鷧斎日録」は臨床医としての玄白の往診記録を主軸として、玄白の回りの人たちの言動、玄白自作の詩歌、おそらく藩邸勤務や往診の過程で知り得た当時の社会事情やその情報を書き留めた日記なのである。
その記述は基本とても簡素なもので、諸情報の記録についても事実のみが記され、それに関して玄白自身のコメント類はほとんど書かれていない。
例えば丙辰年(1796年)正月からの記述の一部をご紹介すると、
・元旦 雨夜雪 御屋敷御禮相済。
歳旦
若水の汲上られて今年哉
天神下出ル。
・二日 雨 天神下出ル。
・三日 曇 在宿。
・四日 晴 風気在宿。
・五日 雨 同。
・六日 雨 前夜より大風雨。
・七日 曇夕晴 近所年禮。
・八日 晴 浅草・吉原病用。夜御福引。
・九日 同 牛込・小川町邊年禮。
・十日 雪 在宿鏡開。
といった具合…。
また家族のこともよく記録されており、特に出産や死亡、藩邸への出向や子供を連れて芝居見物に行ったこと、あるいは墓参などを書き留めている。さらに子供や孫を可愛がっていたことが伺われるし、市川団十郎(五世)や火付盗賊改の長官こと長谷川平蔵宣似の名も登場している。
この「鷧斎日録」は杉田玄白という史実の人物をよりよく知るためにも重要なタイムカプセルであるが、当時の世相をリアルに知ることができる一級の資料でもある。
なお私が知る限り「鷧斎日録」の全文が読めるのは前記した株式会社生活社刊「杉田玄白全集第一巻」だけのようだがすでに書籍を入手されるのは難しい。ただし幸いなことに国立国会図書館デジタルコレクションにアップされており、無料でPDFファイルとしてダウンロードできる。

※「杉田玄白全集第一巻」は国立国会図書館デジタルコレクションにアップされている
とはいえこれを読破するのも正直大変だと思うので興味のある方には松崎欣一著「杉田玄白晩年の世界〜『鷧斎日録』を読む」(慶應義塾大学出版会)をお勧めしたい。
本書も500ページを超える本だが、全文掲載というのではなく例えば「臨床医として」「教養人として」「記録者として」といった具合にいくつかの項目別に「鷧斎日録」を読み解き、実に詳細なる研究結果を公開している。

※松崎欣一著「杉田玄白晩年の世界〜『鷧斎日録』を読む」(慶應義塾大学出版会)
少し例を上げれば、医者仲間の会合や俳会などの会合への出席頻度、大雨・洪水の記事の集計、火災関係の記事リストなどだが火事の記録をこれだけ整然と列べられると「火事と喧嘩は江戸の華」ではないが、いかに江戸の町は火災が多かったのかが分かる。その他、往診のために外出した地域と回数、打ち壊しや百姓一揆の詳細が分かるだけでなく、玄白の家族や親族がどのようなものであったかも理解しやすい。
「解体新書」の翻訳で知られる蘭学者・臨床医の豊かな晩年と共に同時代の世相まで眼前に浮かんでくる「鷧斎日録」はもっともっと一般にも知られて良き内容に思えるのだが。
さて今回は江戸時代に「解体新書」を著したことで知られている医師、杉田玄白の日記についてのお話しである。
玄白は筆まめというか記録魔というべきか、日記をこまめにつけていた。その一部であろうと思われるが、天明8年〜文化3年(1788年~1806年)までの日記が全九冊「鷧斎(いさい)日録」という名で伝わっている。これらは玄白56歳から74歳まで約19年間の日々の貴重な記録であるが、玄白は文化14年(1817年)に85歳で没しているから文字通り晩年の記録である。

※「鷧斎日録」全文が載っている株式会社生活社刊「杉田玄白全集第一巻」(1944年発行)
「鷧斎日録」の存在が世に知られだしたのは昭和11年(1936年)のことだったという。同年「東京朝日新聞」記事をはじめ、高浜二郎氏や原田謙太郎氏により「歴史地理」「日本医療新報」「中央公論」といった媒体に報道や論文の発表が相次いだ。
ちなみに私の手元には昭和11年9月に日本歴史地理学会発行「歴史地理」第六十八巻 第三号に「杉田玄白の手記『鷧斎日録』」と題された論文が載っている現物がある。


※昭和11年9月に日本歴史地理学会発行「歴史地理」と掲載されている高浜二郎氏の論文
ということで最初に「鷧斎日録」を玄白の子孫の方から閲覧を許されたのは高浜二郎氏だったが多々経緯もあってほとんど世に知られることなく、その後の新聞発表では「蘭学事始以上の珍本、百廿余年目に発見!」と国宝的珍書が発見されたと奉じている。
「鷧斎日録」は虫食いが甚だしいため、保険をかけた上で修理に出し、一枚一枚裏打ちをし一冊となるのを待ち構えるようにして原田謙太郎氏、内田孝一氏、岡本隆一氏、三廼俊一氏、杉靖三郎氏、村上秀氏の六氏により分担して写筆研究を行ったという。
結果予定よりかなり遅れたが、昭和19年11月15日に杉靖三郎氏を編者として株式会社生活社より「杉田玄白全集第一巻」として刊行された。
私の手元にはその初版本があるが、奥付を確認すると初版発行部数は1,500部で定価は十二円五十銭とある。ちなみにこの頃の物価をググってみると、1000円で家が建つとか軍事産業の工務部次長で34歳の男性の月給が167円だったといった話しがある。無論この前後は食料が配給制になったりと物価の変動が著しい戦渦の時代だった。ということで誤解を承知で言ってみれば十二円五十銭という価格は現在の50,000円ほどの重みがあったに違いない。
高価な専門書といった感じだったようだ。
ともかく戦時中でもあり紙不足でもあったからか紙質が著しく良くないものの600ページほどの本がまずまずの保存状態で入手できた。

※「杉田玄白全集第一巻」の奥付
さて、内容を見てみると天候、体調はもとより日々の出来事だけでなく随想、和歌、狂歌、俳句、漢詩、年収などが多彩に織り込まれている。
特に玄白が毎日のように小石川、浅草、吉原、品川まで江戸の町を広く往診に出かけていることにも頭が下がる。
要は…「鷧斎日録」は臨床医としての玄白の往診記録を主軸として、玄白の回りの人たちの言動、玄白自作の詩歌、おそらく藩邸勤務や往診の過程で知り得た当時の社会事情やその情報を書き留めた日記なのである。
その記述は基本とても簡素なもので、諸情報の記録についても事実のみが記され、それに関して玄白自身のコメント類はほとんど書かれていない。
例えば丙辰年(1796年)正月からの記述の一部をご紹介すると、
・元旦 雨夜雪 御屋敷御禮相済。
歳旦
若水の汲上られて今年哉
天神下出ル。
・二日 雨 天神下出ル。
・三日 曇 在宿。
・四日 晴 風気在宿。
・五日 雨 同。
・六日 雨 前夜より大風雨。
・七日 曇夕晴 近所年禮。
・八日 晴 浅草・吉原病用。夜御福引。
・九日 同 牛込・小川町邊年禮。
・十日 雪 在宿鏡開。
といった具合…。
また家族のこともよく記録されており、特に出産や死亡、藩邸への出向や子供を連れて芝居見物に行ったこと、あるいは墓参などを書き留めている。さらに子供や孫を可愛がっていたことが伺われるし、市川団十郎(五世)や火付盗賊改の長官こと長谷川平蔵宣似の名も登場している。
この「鷧斎日録」は杉田玄白という史実の人物をよりよく知るためにも重要なタイムカプセルであるが、当時の世相をリアルに知ることができる一級の資料でもある。
なお私が知る限り「鷧斎日録」の全文が読めるのは前記した株式会社生活社刊「杉田玄白全集第一巻」だけのようだがすでに書籍を入手されるのは難しい。ただし幸いなことに国立国会図書館デジタルコレクションにアップされており、無料でPDFファイルとしてダウンロードできる。

※「杉田玄白全集第一巻」は国立国会図書館デジタルコレクションにアップされている
とはいえこれを読破するのも正直大変だと思うので興味のある方には松崎欣一著「杉田玄白晩年の世界〜『鷧斎日録』を読む」(慶應義塾大学出版会)をお勧めしたい。
本書も500ページを超える本だが、全文掲載というのではなく例えば「臨床医として」「教養人として」「記録者として」といった具合にいくつかの項目別に「鷧斎日録」を読み解き、実に詳細なる研究結果を公開している。

※松崎欣一著「杉田玄白晩年の世界〜『鷧斎日録』を読む」(慶應義塾大学出版会)
少し例を上げれば、医者仲間の会合や俳会などの会合への出席頻度、大雨・洪水の記事の集計、火災関係の記事リストなどだが火事の記録をこれだけ整然と列べられると「火事と喧嘩は江戸の華」ではないが、いかに江戸の町は火災が多かったのかが分かる。その他、往診のために外出した地域と回数、打ち壊しや百姓一揆の詳細が分かるだけでなく、玄白の家族や親族がどのようなものであったかも理解しやすい。
「解体新書」の翻訳で知られる蘭学者・臨床医の豊かな晩年と共に同時代の世相まで眼前に浮かんでくる「鷧斎日録」はもっともっと一般にも知られて良き内容に思えるのだが。
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