ホームコンピュータの元祖「Altair 8800」物語(2)
「ポピュラー・エレクトロニクス (Popular Electronics) 」1975年1月号と2月号に掲載された Altair 8800 の記事が当時のマニアたちに個人でコンピュータを所有することの魅力に気づかせ期待を増幅したことは歴史が証明していることだ。そして Altair 8800 は事実上歴史始まって以来初の一般個人向けコンピュータとなった。
Altair 8800の開発は当時電卓の製造ならびに通信販売をしていたMITS社のオーナー、エド・ロバーツが多額の負債に苦しみながら最後の手段として取り組んだ事業だった。
エド・ロバーツの試算ではAltair 8800が200台ほど売れなければ会社は倒産の憂き目に遭うはずだった。
とはいえ時代の女神はエド・ロバーツに微笑んだ。なぜならインテル社が開発したマイクロプロセッサ8008の後継の8080が開発され1974年当初にはかなり値下がりもしていたことも含め、ロバーツは起死回生の決断としてこれまで前例もなければ市場さえ定かでない個人向けコンピュータを開発することに決め、その頭脳に8080を採用することにした。
この頃、インテルの8080の通常価格は360ドルだったが外見に問題があり検査落ちしたチップを大量購入することを条件にひとつ75ドルで仕入れることができたことがAltair 8800低価格の秘密であった。しかし当然のことながら1台のコンピュータにプロセッサは1個しか必要ない。ロバーツは自身が開発するコンピュータの販売が電卓で生じた大きな穴埋めとなるためには大量に売らなければならないことを十分承知していた。
一方ポピュラー・エレクトロニクス誌も同誌で記事にできる有力なコンピュータを探していた。なぜなら競合他社でもコンピュータに関する記事が登場しつつあったからである。
ポピュラー・エレクトロニクス誌のコンセプトは明白だった。それは個人で安く手に入り、すべての部品が揃い、動作することだった。
同誌編集部には特集記事になりうるいくつかの候補が持ち込まれ検討されていたが、1974年7月に競合のラジオ・エレクトロニクス誌がマーク-8というインテル8008を使った制作記事を載せ、ホビイストらの大きな興奮を生んだ。ただしマーク-8は部品の組み立てキットに必要な部品がすべて揃っているわけでなく、ユーザー自身で調達しなければならなかったためブームになることはなかった。
ポピュラー・エレクトロニクス誌はそれと同じような記事では二番煎じになるからと最新のマイクロプロセッサ8080を使ったマシンの記事を載せる方針を固める。ポピュラー・エレクトロニクス誌の技術編集者だったレスリー・ソロモンはすでに面識があり8080でコンピュータを開発するという情報を得ていたエド・ロバーツの顔を思い浮かべた...。

※1975年「ポピュラー・エレクトロニクス誌」1月号に載った最初のページ。表紙と同じくダミーのAltair 8800が使われている
エド・ロバーツの方でも方針を決めたにせよ大きな壁が立ちふさがっていた。それは開発のための資金調達である。彼の試算によれば6万5千ドル必要だった。しかしMITS社はすでに30万ドル以上もの借金を抱えていたから銀行に相談してもすんなりと融資を受けられるとは思っていなかったしもし断られたら開発は断念するしかなかった。
ともあれここでも幸運の女神はエド・ロバーツに微笑んだ。
銀行はこのまま会社を倒産させては元も子もないと考え、少しでも返済が進むようにと6万5千ドルの融資をしてくれることになったのだ。
結局ポピュラー・エレクトロニクス誌のレスリー・ソロモンの依頼を受け、エド・ロバーツの作るマシンはポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙を飾ることになった。
ロバーツと2人の技術者は編集部に送る試作機を完成させるため猛烈に働いた。同時に記事を仕上げる準備も進められたが彼らが作っているマシンにはまだ名前がなかった。
まだ名前がついていないことを知ったソロモンはたまたま彼の12歳になる娘がスター・トレックを見ているとき「コンピュータにつける良い名前を探している」といった。娘のローレンは「エンタープライズのコンピュータは今夜…アルテア(Altair~牽牛星)にいくのよ」と答えたいう。
ソロモンはロバーツに電話してその名前…アルテアでどうかと尋ねたところロバーツはどんな名でも200台売れれば良いと言ったためコンピュータの名前は Altair と決まった。
ロバーツたちはポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙を飾るマシンを綺麗に仕上げ鉄道の速達便で編集部へ送った。しかしそのAltairは編集部に届かなかったのである。
鉄道会社のストライキが原因だったようだが送ったはずのAltairは行方不明となった。問題はポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙をどうするかだ…。
どう考えても再度作り直す時間はなかった。MITS社の技術者ビル・イエーツは急遽金属製の箱に穴を開け小さなランプとスイッチをそれらしく付けて編集部に再送付する。
要するに問題のポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙はダミーを使うしかすべがなかったのである。
ただし読者はそんなことを問題視する者などいなかった。MITS社にはポピュラー・エレクトロニクス誌が書店にならんだ初日だけで200台ほどの注文が舞い込み電話は鳴りっぱなしとなった。そして3ヶ月で4,000台ほどの注文が舞い込んだのである。
後にコモドール社のCEO、チャック・ペドルは「最初の物を作った功績は確かにエド・ロバーツにあるが、彼の記事を出したレスリー・ソロモンにも同じ功績がある」と言ったほどポピュラー・エレクトロニクス誌は確かに時代の扉を開いたのである。
つづく
【参考資料】
・「Popular Electronics」 1975年1月号~3月号
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社刊
・「ハッカーズ」工学社刊
Altair 8800の開発は当時電卓の製造ならびに通信販売をしていたMITS社のオーナー、エド・ロバーツが多額の負債に苦しみながら最後の手段として取り組んだ事業だった。
エド・ロバーツの試算ではAltair 8800が200台ほど売れなければ会社は倒産の憂き目に遭うはずだった。
とはいえ時代の女神はエド・ロバーツに微笑んだ。なぜならインテル社が開発したマイクロプロセッサ8008の後継の8080が開発され1974年当初にはかなり値下がりもしていたことも含め、ロバーツは起死回生の決断としてこれまで前例もなければ市場さえ定かでない個人向けコンピュータを開発することに決め、その頭脳に8080を採用することにした。
この頃、インテルの8080の通常価格は360ドルだったが外見に問題があり検査落ちしたチップを大量購入することを条件にひとつ75ドルで仕入れることができたことがAltair 8800低価格の秘密であった。しかし当然のことながら1台のコンピュータにプロセッサは1個しか必要ない。ロバーツは自身が開発するコンピュータの販売が電卓で生じた大きな穴埋めとなるためには大量に売らなければならないことを十分承知していた。
一方ポピュラー・エレクトロニクス誌も同誌で記事にできる有力なコンピュータを探していた。なぜなら競合他社でもコンピュータに関する記事が登場しつつあったからである。
ポピュラー・エレクトロニクス誌のコンセプトは明白だった。それは個人で安く手に入り、すべての部品が揃い、動作することだった。
同誌編集部には特集記事になりうるいくつかの候補が持ち込まれ検討されていたが、1974年7月に競合のラジオ・エレクトロニクス誌がマーク-8というインテル8008を使った制作記事を載せ、ホビイストらの大きな興奮を生んだ。ただしマーク-8は部品の組み立てキットに必要な部品がすべて揃っているわけでなく、ユーザー自身で調達しなければならなかったためブームになることはなかった。
ポピュラー・エレクトロニクス誌はそれと同じような記事では二番煎じになるからと最新のマイクロプロセッサ8080を使ったマシンの記事を載せる方針を固める。ポピュラー・エレクトロニクス誌の技術編集者だったレスリー・ソロモンはすでに面識があり8080でコンピュータを開発するという情報を得ていたエド・ロバーツの顔を思い浮かべた...。

※1975年「ポピュラー・エレクトロニクス誌」1月号に載った最初のページ。表紙と同じくダミーのAltair 8800が使われている
エド・ロバーツの方でも方針を決めたにせよ大きな壁が立ちふさがっていた。それは開発のための資金調達である。彼の試算によれば6万5千ドル必要だった。しかしMITS社はすでに30万ドル以上もの借金を抱えていたから銀行に相談してもすんなりと融資を受けられるとは思っていなかったしもし断られたら開発は断念するしかなかった。
ともあれここでも幸運の女神はエド・ロバーツに微笑んだ。
銀行はこのまま会社を倒産させては元も子もないと考え、少しでも返済が進むようにと6万5千ドルの融資をしてくれることになったのだ。
結局ポピュラー・エレクトロニクス誌のレスリー・ソロモンの依頼を受け、エド・ロバーツの作るマシンはポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙を飾ることになった。
ロバーツと2人の技術者は編集部に送る試作機を完成させるため猛烈に働いた。同時に記事を仕上げる準備も進められたが彼らが作っているマシンにはまだ名前がなかった。
まだ名前がついていないことを知ったソロモンはたまたま彼の12歳になる娘がスター・トレックを見ているとき「コンピュータにつける良い名前を探している」といった。娘のローレンは「エンタープライズのコンピュータは今夜…アルテア(Altair~牽牛星)にいくのよ」と答えたいう。
ソロモンはロバーツに電話してその名前…アルテアでどうかと尋ねたところロバーツはどんな名でも200台売れれば良いと言ったためコンピュータの名前は Altair と決まった。
ロバーツたちはポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙を飾るマシンを綺麗に仕上げ鉄道の速達便で編集部へ送った。しかしそのAltairは編集部に届かなかったのである。
鉄道会社のストライキが原因だったようだが送ったはずのAltairは行方不明となった。問題はポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙をどうするかだ…。
どう考えても再度作り直す時間はなかった。MITS社の技術者ビル・イエーツは急遽金属製の箱に穴を開け小さなランプとスイッチをそれらしく付けて編集部に再送付する。
要するに問題のポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙はダミーを使うしかすべがなかったのである。
ただし読者はそんなことを問題視する者などいなかった。MITS社にはポピュラー・エレクトロニクス誌が書店にならんだ初日だけで200台ほどの注文が舞い込み電話は鳴りっぱなしとなった。そして3ヶ月で4,000台ほどの注文が舞い込んだのである。
後にコモドール社のCEO、チャック・ペドルは「最初の物を作った功績は確かにエド・ロバーツにあるが、彼の記事を出したレスリー・ソロモンにも同じ功績がある」と言ったほどポピュラー・エレクトロニクス誌は確かに時代の扉を開いたのである。
つづく
【参考資料】
・「Popular Electronics」 1975年1月号~3月号
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社刊
・「ハッカーズ」工学社刊
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