ホームコンピュータの元祖「Altair 8800」物語(4)
Altair 8800の成功はまずポピュラー・エレクトロニクス誌の企画なくしては始まらなかったと考えられるが、その後はユーザー同士の口コミの効果も大きかった。そしてどの時代にも並外れて行動的なユーザーが存在し、この個人で所有できるコンピュータの存在を積極的に広めた人物も目立った…。
そうしたパワーユーザーとして知られている人物の1人がスティーブ・ドンピアだ。
建築業者だったドンピアはポピュラー・エレクトロニクス誌の記事に啓示を受け、早速MITS社に小切手を送りすべての部品と周辺機器を1つずつ欲しいと注文する。
彼はすでにコンピュータに興味を持ち、ELIZAプログラムの一種を楽しんだりBASICブログラムを勉強しつつ自宅にテレタイプを購入していた人物だった。
ドンピアは一日も早く組立に必要な部品を手にしたいと考えたが同時に果たしてMITS社という企業は本当に存在しているのか...を確かめたくなった。
なにしろMITS社はポピュラー・エレクトロニクス誌によればニューメキシコ州のアルバカーキというところにあるという。しかし行ったことも見たこともない場所にあるという会社に多額の小切手を送ったのだ。会社の存在確認と、会社があったら必要な部品を一式その場で調達してこようとドンビアは考えた。
飛行機でMITS社のあるアルバカーキに向かい、レンタカーを使い知り得た住所付近を5回も回った…。
彼は広い芝生の中にMITSという標示がある立派なビルを探していたが、実は商店街のマッサージ・パーラーとコイン・ランドリーに挟まれたとある小さな建物だったことに驚く。しかし間違いなくMITS社は存在した。

※1975年「ポピュラー・エレクトロニクス」誌の2月号に載ったAltair 8800の広告
ドンピアは気がつかなかったが近くの駐車場には3週間も前からオーダー済みAltair 8800キット一式の配達準備ができるのを待っているハッカーもいた。
それほど出荷は大幅に遅れていた。長い間待っても品物が届かないからと当然苦情も多々舞い込んだ。
電話を受ける女性は「大丈夫、必ずコンピュータは届きますから」と同じ文句を繰り返していたが中には強い態度に出る客もいた。
そんなときMITSの社員は「わかりました。お名前は?経理に言ってすぐに返金用小切手を振り出させますから…」というと客は決まって大人しくなった。
「いや、そうじゃない。欲しいのは小切手ではなくマシンなんだ!」と...。
結局スティーブ・ドンピアは製造番号四番のAltair 8800を完成させることができた。しかし苦労して組み立てたAltair 8800ができることはフロントパネルのランプをチカチカと点滅させることだけだった。
アマチュアのパイロットでもあるドンビアはある日、プログラムを書きながら小型ラジオで天気予報を聞いていた。そしてAltairのプログラムをスタートさせたとき、それは起こった。
側に置いたラジオが「ピィーツ、ピィーッ」と大きなノイズを発したのである。Altairがプログラムを実行していく度にラジオと周波数の干渉が起きノイズが出たがノイズは時に低く時に高く鳴った。ドンビアは驚喜する。何故なら彼はAltair 8800初の周辺機器を発見したからである。
大きな問題はノイズ音のコントロールだ。もしプログラムでノイズの音程をコントロールすることができたらAltairで音楽を演奏させることができるに違いない…。
8時間ほどの格闘の末、彼は音階のチャートを作り上げ作曲用のプログラムを完成した。そして次のホームブリューコンピュータクラブの会合時にデモするためビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル(Fool on the Hill)」を演奏する手筈を整えた。
だからというわけではないが、コンピュータと音楽は相性が良いらしい…。何故なら私自身もPET2001というオールインワンのマイコンを入手したときプログラムのセーブとロードのためのカセットテープレコーダーを別にすれば最初に接続した外部機器は小さなアンプ付きスピーカーだった。それを組立てマイコンと繋いで音楽らしきものを自動で奏でるプログラムを組んだものだ…。それは1979年のことだった。

※1979年、私がマイコン雑誌に投稿した自動メロディー出力プログラム
ともかくドンピアの努力は続く。クラブでの実演はプログラムを入力するところから始めなければならない。
何しろ外部記憶装置、すなわちフロッピードライブとかカセットデッキあるいは鑽孔テープによるプログラムの保存とローディングの環境が整っていない時期だったから、Altair本体のスイッチを切ったら次はまたゼロから手入力しなければならなかった。
そもそもAltair 8800をホームブリューコンピュータクラブに持ち込んだだけで会場内がざわついた。ほとんどの参加者はまだAltair 8800の実物を見たことがなかったからだ。
クラブの会合は古い学校の木造校舎2階の一室で開催されたが、やっとプログラム入力が終わりかけたとき、廊下で遊んでいた子供がコードに躓きコンセントが外れてしまうというアクシデントが起きた。無論入力したプログラムはその一瞬で消え失せたがドンビアは怯まずAltair 8800のフロントスイッチを操り最初からプロクラムの入力をやり直した。
準備ができドンビアがAltair 8800の実行スイッチを入れたとき上に乗せたラジオが文字通りのノイズ音を発し始めた。しかしそれは間違いなくメロディーを奏でていた。
部屋中のハッカーたちはあれこれと質問したい気持ちも忘れ畏敬の念にうたれ静まりかえっていた。
ドンビアのAltairはビートルズの曲を終えると息をもつかさず次の曲の演奏を始めた。それは「デイジー」だった。
「2001年宇宙の旅」でHAL9000コンピュータがボーマン船長に思考回路を止められる際に歌ったあの曲だ...。
これ以上コンピュータに奏でさせるに相応しい曲があるだろうか…。演奏が終わると部屋中に拍手と歓声の嵐が巻き起こりハッカーたちは飛び上がって手をたたき合い喜んだ。
彼らが目にしたものはこれまで誰もが思いつかない新しいアイデアだった。まさしく彼らにとってコンピュータの可能性に確信を持った歴史を書き換える大事件だったのである。
ドンビアは続けて自身がMITS社を訪問したこと、そこで見たことを報告すると会場は再びざわめいた…。
スティーブ・ドンピアはその後ピープルズ・コンピュータ・カンパニーの会報に「MUSIC OF A SORT」というタイトルでその経験を紹介しプログラムの機械語コードをも公開した。ためにしばらくの間、Altairオーナーたちの多くがAltairを楽器?として楽しんだという。
ちなみに世界は広い…。YouTubeでAltair 8800bを使い「Fool on the Hill」を演奏させている映像がある。ピッチやテンポなど1975年当時にドンビアが奏でたものとは違うかも知れないが、まあまあこんなものだったと思う。
※Altair 8800bによる「Fool on the Hill」の演奏
現在、若い方たちにとってはこの程度のことで大の大人達が嬉々とした事実を信じられないかも知れない。しかしこのエピソードはホームコンピュータにおけるひとつのエポックメイキングであったことは間違いなく、こうした工夫の積み重ねの上に現在の我々があることを忘れてはならない。
つづく
【参考資料】
・「Popular Electronics」 1975年1月号~4月号
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社刊
・「コンピュータ~写真で見る歴史」タッシェン・ジャパン社刊
・「ハッカーズ」工学社刊
そうしたパワーユーザーとして知られている人物の1人がスティーブ・ドンピアだ。
建築業者だったドンピアはポピュラー・エレクトロニクス誌の記事に啓示を受け、早速MITS社に小切手を送りすべての部品と周辺機器を1つずつ欲しいと注文する。
彼はすでにコンピュータに興味を持ち、ELIZAプログラムの一種を楽しんだりBASICブログラムを勉強しつつ自宅にテレタイプを購入していた人物だった。
ドンピアは一日も早く組立に必要な部品を手にしたいと考えたが同時に果たしてMITS社という企業は本当に存在しているのか...を確かめたくなった。
なにしろMITS社はポピュラー・エレクトロニクス誌によればニューメキシコ州のアルバカーキというところにあるという。しかし行ったことも見たこともない場所にあるという会社に多額の小切手を送ったのだ。会社の存在確認と、会社があったら必要な部品を一式その場で調達してこようとドンビアは考えた。
飛行機でMITS社のあるアルバカーキに向かい、レンタカーを使い知り得た住所付近を5回も回った…。
彼は広い芝生の中にMITSという標示がある立派なビルを探していたが、実は商店街のマッサージ・パーラーとコイン・ランドリーに挟まれたとある小さな建物だったことに驚く。しかし間違いなくMITS社は存在した。

※1975年「ポピュラー・エレクトロニクス」誌の2月号に載ったAltair 8800の広告
ドンピアは気がつかなかったが近くの駐車場には3週間も前からオーダー済みAltair 8800キット一式の配達準備ができるのを待っているハッカーもいた。
それほど出荷は大幅に遅れていた。長い間待っても品物が届かないからと当然苦情も多々舞い込んだ。
電話を受ける女性は「大丈夫、必ずコンピュータは届きますから」と同じ文句を繰り返していたが中には強い態度に出る客もいた。
そんなときMITSの社員は「わかりました。お名前は?経理に言ってすぐに返金用小切手を振り出させますから…」というと客は決まって大人しくなった。
「いや、そうじゃない。欲しいのは小切手ではなくマシンなんだ!」と...。
結局スティーブ・ドンピアは製造番号四番のAltair 8800を完成させることができた。しかし苦労して組み立てたAltair 8800ができることはフロントパネルのランプをチカチカと点滅させることだけだった。
アマチュアのパイロットでもあるドンビアはある日、プログラムを書きながら小型ラジオで天気予報を聞いていた。そしてAltairのプログラムをスタートさせたとき、それは起こった。
側に置いたラジオが「ピィーツ、ピィーッ」と大きなノイズを発したのである。Altairがプログラムを実行していく度にラジオと周波数の干渉が起きノイズが出たがノイズは時に低く時に高く鳴った。ドンビアは驚喜する。何故なら彼はAltair 8800初の周辺機器を発見したからである。
大きな問題はノイズ音のコントロールだ。もしプログラムでノイズの音程をコントロールすることができたらAltairで音楽を演奏させることができるに違いない…。
8時間ほどの格闘の末、彼は音階のチャートを作り上げ作曲用のプログラムを完成した。そして次のホームブリューコンピュータクラブの会合時にデモするためビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル(Fool on the Hill)」を演奏する手筈を整えた。
だからというわけではないが、コンピュータと音楽は相性が良いらしい…。何故なら私自身もPET2001というオールインワンのマイコンを入手したときプログラムのセーブとロードのためのカセットテープレコーダーを別にすれば最初に接続した外部機器は小さなアンプ付きスピーカーだった。それを組立てマイコンと繋いで音楽らしきものを自動で奏でるプログラムを組んだものだ…。それは1979年のことだった。

※1979年、私がマイコン雑誌に投稿した自動メロディー出力プログラム
ともかくドンピアの努力は続く。クラブでの実演はプログラムを入力するところから始めなければならない。
何しろ外部記憶装置、すなわちフロッピードライブとかカセットデッキあるいは鑽孔テープによるプログラムの保存とローディングの環境が整っていない時期だったから、Altair本体のスイッチを切ったら次はまたゼロから手入力しなければならなかった。
そもそもAltair 8800をホームブリューコンピュータクラブに持ち込んだだけで会場内がざわついた。ほとんどの参加者はまだAltair 8800の実物を見たことがなかったからだ。
クラブの会合は古い学校の木造校舎2階の一室で開催されたが、やっとプログラム入力が終わりかけたとき、廊下で遊んでいた子供がコードに躓きコンセントが外れてしまうというアクシデントが起きた。無論入力したプログラムはその一瞬で消え失せたがドンビアは怯まずAltair 8800のフロントスイッチを操り最初からプロクラムの入力をやり直した。
準備ができドンビアがAltair 8800の実行スイッチを入れたとき上に乗せたラジオが文字通りのノイズ音を発し始めた。しかしそれは間違いなくメロディーを奏でていた。
部屋中のハッカーたちはあれこれと質問したい気持ちも忘れ畏敬の念にうたれ静まりかえっていた。
ドンビアのAltairはビートルズの曲を終えると息をもつかさず次の曲の演奏を始めた。それは「デイジー」だった。
「2001年宇宙の旅」でHAL9000コンピュータがボーマン船長に思考回路を止められる際に歌ったあの曲だ...。
これ以上コンピュータに奏でさせるに相応しい曲があるだろうか…。演奏が終わると部屋中に拍手と歓声の嵐が巻き起こりハッカーたちは飛び上がって手をたたき合い喜んだ。
彼らが目にしたものはこれまで誰もが思いつかない新しいアイデアだった。まさしく彼らにとってコンピュータの可能性に確信を持った歴史を書き換える大事件だったのである。
ドンビアは続けて自身がMITS社を訪問したこと、そこで見たことを報告すると会場は再びざわめいた…。
スティーブ・ドンピアはその後ピープルズ・コンピュータ・カンパニーの会報に「MUSIC OF A SORT」というタイトルでその経験を紹介しプログラムの機械語コードをも公開した。ためにしばらくの間、Altairオーナーたちの多くがAltairを楽器?として楽しんだという。
ちなみに世界は広い…。YouTubeでAltair 8800bを使い「Fool on the Hill」を演奏させている映像がある。ピッチやテンポなど1975年当時にドンビアが奏でたものとは違うかも知れないが、まあまあこんなものだったと思う。
※Altair 8800bによる「Fool on the Hill」の演奏
現在、若い方たちにとってはこの程度のことで大の大人達が嬉々とした事実を信じられないかも知れない。しかしこのエピソードはホームコンピュータにおけるひとつのエポックメイキングであったことは間違いなく、こうした工夫の積み重ねの上に現在の我々があることを忘れてはならない。
つづく
【参考資料】
・「Popular Electronics」 1975年1月号~4月号
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社刊
・「コンピュータ~写真で見る歴史」タッシェン・ジャパン社刊
・「ハッカーズ」工学社刊
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