第1回ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)開催物語
ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)のことを語るには主催者であるジム・ウォーレンについて語らなければならないだろう。ウォーレンはカリフォルニア生まれのテキサス育ちでテキサスで5年間数学を教えた後にサンフランシスコ湾地区に移住してシリコン・バレー北にある小さな町ベルモントの女子大の数学教師をしていた。
そこでも5年間教職にあったがその頃彼は自宅でヌード・パーティーを開いていたという。本人は慎ましやかなパーティーだとはいうものの、プレイボーイ誌やBBCが取材に来てタイム誌に記事が載りそれが大学当局に知れたとき大学がカトリック系だったことも関係して辞職を勧告された。
新しい職を探したウォーレンはスタンフォード医療センターでプログラミングの職に就き、その仕事が好きになった。興味は増し、彼はその分野での最新情報を追うようになりそれが後に彼を「DR. DOBB’S JOURNAL」の編集者にさせることにもなった。

※第1回WCCF CONFERENCE PROCEEDINGS(会報)に載っている「DR. DOBB’S JOURNAL」の広告ページ
その頃、ニュージャージやアトランティックシティなどでコンピュータショーが開催され始めていた。ジム・ウォーレンはマイクロコンピュータの中心地はまぎれもなくシリコンバレーがあるこの西海岸であり、この地で開催されるべきだと考えるようになった。そして雑誌の編集ならびに発行と同じような意味においてメディア、メーカー、技術者たちの交友を実現する場となるであろうマイコン・ショーを開催するのは自分の仕事だと決意するにいたる。
いや、それは出版物よりはるかに新鮮な情報を提供してくれるに違いないとジム・ウォーレンは確信する。

※第1回WCCF会報に主催者として載っているジム・ウォーレン(1977年)
ウェーレンは当初、ショーの会場としてスタンフォード大学の施設を借りようと考えたが、あいにくスタンフォード大学側が都合が悪いと断ってきた。そのためサンフランシスコのシビックオーディトリアムを覗きに行き気に入ってしまった。
そこは収容能力はあるし展示会場となるスペースも申し分なかった。ただし費用を確認すると一日の借り賃はかなり高かったので驚く。
彼はパートナーたちとレストランに入り、ナプキンに収支のシミュレーションをする…。展示の数は?その料金設定は?そして入場料は?
…だとすればおよそ6,000人程度の入場者数で収支はまかなえるだけでなく利益がでることもわかった。
決断が早いウォーレンは早速「コンピュータ・フェア」という自分の主催会社を設立して仲間たちと開催準備にとりかかることになった。そしてイベント名を「WEST COAST COMPUTER FAIRE」と名付けた。
ウォーレンはマイコン産業の社長たちに電話をかけはじめる。ウォーレンは編集業を通じて彼らの大半を個人的に知っていたのである。
「ああ、僕はジム・ウォーレン。今度コンピュータ・フェアをやるつもりだけど、出展の興味はあるかい?」と。
電話口の答えは「もちろんさ!」「凄いな、出るとも!」といったものがほとんどだったから、彼は「OK。じゃあ出展の金を送ってくれよ。展示スペースを確保するから」と。
Appleのスティーブ・ジョブズへも同じように電話をかけ、会場入り口正面のブースの予約を即決で取ったという。
数日もするとすでに黒字が目に見えていた…。結局出展社数は第1回にもかかわらず150社が集まった。

※第1回WCCF会場の様子。もの凄い来場者数だ(BYTE誌1977年7月号より)
ところでジム・ウォーレンは来場者の数を土曜日と日曜日の両日で7,000人から10,000人と見越していたが実際には13,000人も集まったのである。
晴れわたった土曜日の当日、市民ホールの片側には2列、反対側には3列もの長い列が数時間にわたって続いた。
行列が必要以上に伸びた原因は来場者数が予想よりはるかに多かっただけでなくジム・ウォーレンの失策も影響した。なぜなら入場料を一律の料金にしなかったため窓口が混乱したこと、受付窓口のバイト人数を支出を抑えるために少なめにしたことなどが直接の原因であった。
ウォーレンはその長い列を見て一瞬これは大混乱になるのではと危惧するが、幸い大混乱は起きなかった。
来場者たちは入場できる1時間ほどの間、お互いにお喋りをしていた。彼らにしてみれば会場の外とはいえすでに展示会は始まっていて、自分たちと同じコンピュータ・マニアとの会話を貴重で楽しい物と感じていたからである。
こうした事は我々自身でもWWDCとか新型iPhoneの発売日、あるいはMacworld Expoなどで長蛇の列に並ぶ楽しさを思い出せば理解できるに違いない。
会場に入ってみれば最新の製品達がずらりと列び、ホビイストたちがメーカーの設計者たちと直接話しをする機会もあった。
一部のエリアでは満員電車なみの混雑さだった。Apple Computer社のブースはスティーブ・ジョブズが説明に追われていたがウォーレン曰く、出展企業は名も知れないような会社ばかりだったからAppleはそれらと比べれば会社らしい方だったという。
そういえば、富田倫生著「パソコン創世記」によれば、この第1回WCCFには日本人も少なからずいたらしい。
以前ご紹介したイーエスディラボラトリ社の水島社長とAppleの出会いに関しては繰り返さないが、当時マイコン雑誌 I/Oを発行したばかりで後にアスキー出版を立ち上げる西和彦もいたという。
無論彼は単なる物見遊山ではなくブースを確保し I/O誌をならべ日本から持ち込んだビデオ・インターフェースボードやライトペンを会場で販売していたという。

※1978年発行、工学社刊「I/O」誌の別冊表紙。I/O誌は当時こんな感じのマイコン雑誌だった
また日本製としては別途ソード社製の汎用マイクロコンピュータ・システムとサンフランシスコ市のコンピュータ学校が教材用にと改良したNEC製TK-80完成基板が出品されていたらしい。さらにWCCF会報の出展リストを見ると 兼松江商(株)の米国会社が出展していたようだが私の手元にあるWCCF会報の出展リストには前記した I/O (工学社)やソード(株)の記述は見えない…。

※第1回WCCFの出展社リストが載っている会報
その他、いかにも日本人らしい出来事だが、有名私立大学工学部教授の引率で一流メーカーのエンジニアや企画調査担当者などが超デラックス観光バスで会場に乗り付けたらしい…。彼らはバッジを外して行動し、各ブースを丹念に回って技術資料を収集したという。
さて展示だけでなくテッド・ネルソン、リー・フェルゼンスタイン、SF作家のフレデリック・ポールらの講演も人気だった。
この第1回ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)はそれまでのショーと比較すると3,4倍の規模だっただけでなく会報の発行や運営手法などにおいても新しい時代への扉を開くという大きな貢献を成したのである。
ジム・ウォーレンはこの第1回WCCF開催前にすでに第2回目の開催を企画し決めていた。会場はカリフォルニア州のサン・ホゼだったが、その展示ブースは開催1ヶ月前には全部売り切れだったという。
これまでご紹介したポピュラー・エレクトロニクス誌とAltair 8800の関係のように、コンピュータ雑誌によってマイコンが認知され、ニーズが確立されたとするならウォーレンが当時のマイコン同様手作りで開催したWCCFの成功により、こうした展示会のメリットが知れ渡り、その後この種の展示会が多々開催されるようになったのである。
【主な参考資料】
・「THE FIRST WEST COAST COMPUTER FAIRE」Computer Faire社
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「ハッカーズ」工学社
・「マッキントッシ伝説」アスキー出版局
・「パソコン創世記」TBSブリタニカ
そこでも5年間教職にあったがその頃彼は自宅でヌード・パーティーを開いていたという。本人は慎ましやかなパーティーだとはいうものの、プレイボーイ誌やBBCが取材に来てタイム誌に記事が載りそれが大学当局に知れたとき大学がカトリック系だったことも関係して辞職を勧告された。
新しい職を探したウォーレンはスタンフォード医療センターでプログラミングの職に就き、その仕事が好きになった。興味は増し、彼はその分野での最新情報を追うようになりそれが後に彼を「DR. DOBB’S JOURNAL」の編集者にさせることにもなった。

※第1回WCCF CONFERENCE PROCEEDINGS(会報)に載っている「DR. DOBB’S JOURNAL」の広告ページ
その頃、ニュージャージやアトランティックシティなどでコンピュータショーが開催され始めていた。ジム・ウォーレンはマイクロコンピュータの中心地はまぎれもなくシリコンバレーがあるこの西海岸であり、この地で開催されるべきだと考えるようになった。そして雑誌の編集ならびに発行と同じような意味においてメディア、メーカー、技術者たちの交友を実現する場となるであろうマイコン・ショーを開催するのは自分の仕事だと決意するにいたる。
いや、それは出版物よりはるかに新鮮な情報を提供してくれるに違いないとジム・ウォーレンは確信する。

※第1回WCCF会報に主催者として載っているジム・ウォーレン(1977年)
ウェーレンは当初、ショーの会場としてスタンフォード大学の施設を借りようと考えたが、あいにくスタンフォード大学側が都合が悪いと断ってきた。そのためサンフランシスコのシビックオーディトリアムを覗きに行き気に入ってしまった。
そこは収容能力はあるし展示会場となるスペースも申し分なかった。ただし費用を確認すると一日の借り賃はかなり高かったので驚く。
彼はパートナーたちとレストランに入り、ナプキンに収支のシミュレーションをする…。展示の数は?その料金設定は?そして入場料は?
…だとすればおよそ6,000人程度の入場者数で収支はまかなえるだけでなく利益がでることもわかった。
決断が早いウォーレンは早速「コンピュータ・フェア」という自分の主催会社を設立して仲間たちと開催準備にとりかかることになった。そしてイベント名を「WEST COAST COMPUTER FAIRE」と名付けた。
ウォーレンはマイコン産業の社長たちに電話をかけはじめる。ウォーレンは編集業を通じて彼らの大半を個人的に知っていたのである。
「ああ、僕はジム・ウォーレン。今度コンピュータ・フェアをやるつもりだけど、出展の興味はあるかい?」と。
電話口の答えは「もちろんさ!」「凄いな、出るとも!」といったものがほとんどだったから、彼は「OK。じゃあ出展の金を送ってくれよ。展示スペースを確保するから」と。
Appleのスティーブ・ジョブズへも同じように電話をかけ、会場入り口正面のブースの予約を即決で取ったという。
数日もするとすでに黒字が目に見えていた…。結局出展社数は第1回にもかかわらず150社が集まった。

※第1回WCCF会場の様子。もの凄い来場者数だ(BYTE誌1977年7月号より)
ところでジム・ウォーレンは来場者の数を土曜日と日曜日の両日で7,000人から10,000人と見越していたが実際には13,000人も集まったのである。
晴れわたった土曜日の当日、市民ホールの片側には2列、反対側には3列もの長い列が数時間にわたって続いた。
行列が必要以上に伸びた原因は来場者数が予想よりはるかに多かっただけでなくジム・ウォーレンの失策も影響した。なぜなら入場料を一律の料金にしなかったため窓口が混乱したこと、受付窓口のバイト人数を支出を抑えるために少なめにしたことなどが直接の原因であった。
ウォーレンはその長い列を見て一瞬これは大混乱になるのではと危惧するが、幸い大混乱は起きなかった。
来場者たちは入場できる1時間ほどの間、お互いにお喋りをしていた。彼らにしてみれば会場の外とはいえすでに展示会は始まっていて、自分たちと同じコンピュータ・マニアとの会話を貴重で楽しい物と感じていたからである。
こうした事は我々自身でもWWDCとか新型iPhoneの発売日、あるいはMacworld Expoなどで長蛇の列に並ぶ楽しさを思い出せば理解できるに違いない。
会場に入ってみれば最新の製品達がずらりと列び、ホビイストたちがメーカーの設計者たちと直接話しをする機会もあった。
一部のエリアでは満員電車なみの混雑さだった。Apple Computer社のブースはスティーブ・ジョブズが説明に追われていたがウォーレン曰く、出展企業は名も知れないような会社ばかりだったからAppleはそれらと比べれば会社らしい方だったという。
そういえば、富田倫生著「パソコン創世記」によれば、この第1回WCCFには日本人も少なからずいたらしい。
以前ご紹介したイーエスディラボラトリ社の水島社長とAppleの出会いに関しては繰り返さないが、当時マイコン雑誌 I/Oを発行したばかりで後にアスキー出版を立ち上げる西和彦もいたという。
無論彼は単なる物見遊山ではなくブースを確保し I/O誌をならべ日本から持ち込んだビデオ・インターフェースボードやライトペンを会場で販売していたという。

※1978年発行、工学社刊「I/O」誌の別冊表紙。I/O誌は当時こんな感じのマイコン雑誌だった
また日本製としては別途ソード社製の汎用マイクロコンピュータ・システムとサンフランシスコ市のコンピュータ学校が教材用にと改良したNEC製TK-80完成基板が出品されていたらしい。さらにWCCF会報の出展リストを見ると 兼松江商(株)の米国会社が出展していたようだが私の手元にあるWCCF会報の出展リストには前記した I/O (工学社)やソード(株)の記述は見えない…。

※第1回WCCFの出展社リストが載っている会報
その他、いかにも日本人らしい出来事だが、有名私立大学工学部教授の引率で一流メーカーのエンジニアや企画調査担当者などが超デラックス観光バスで会場に乗り付けたらしい…。彼らはバッジを外して行動し、各ブースを丹念に回って技術資料を収集したという。
さて展示だけでなくテッド・ネルソン、リー・フェルゼンスタイン、SF作家のフレデリック・ポールらの講演も人気だった。
この第1回ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)はそれまでのショーと比較すると3,4倍の規模だっただけでなく会報の発行や運営手法などにおいても新しい時代への扉を開くという大きな貢献を成したのである。
ジム・ウォーレンはこの第1回WCCF開催前にすでに第2回目の開催を企画し決めていた。会場はカリフォルニア州のサン・ホゼだったが、その展示ブースは開催1ヶ月前には全部売り切れだったという。
これまでご紹介したポピュラー・エレクトロニクス誌とAltair 8800の関係のように、コンピュータ雑誌によってマイコンが認知され、ニーズが確立されたとするならウォーレンが当時のマイコン同様手作りで開催したWCCFの成功により、こうした展示会のメリットが知れ渡り、その後この種の展示会が多々開催されるようになったのである。
【主な参考資料】
・「THE FIRST WEST COAST COMPUTER FAIRE」Computer Faire社
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「ハッカーズ」工学社
・「マッキントッシ伝説」アスキー出版局
・「パソコン創世記」TBSブリタニカ
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