ホームブリューコンピュータクラブの誕生とその役割

アップルという企業やパーソナルコンピュータ誕生の歴史を遡る旅を続けているが、印象的なこととしてAltair 8800のようなホビーコンピュータの登場は勿論だがそれらを積極的に評価し広めようとした個性的で実力派の人たちの存在が浮かび上がってくる。そうした人々の活動の中心となったのがホームブリューコンピュータクラブという存在だった。                                                                                              
Appleの歴史を遡るならスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックという二人の人物を抜きにして語れないが、彼らも一時積極的に参加していたコンピュータクラブのひとつがホームブリューコンピュータクラブだ。その存在と活動はその後のパーソナルコンピュータ誕生にも大きく関わってくるものだったことは忘れてはならない。
ちなみに “Homebrew” とは自宅でビールなどを醸造する意味から転じ、自分でコンピュータを手作りするというニュアンスで使われ命名されたという。また「ホームブリュー」を「ホームブルー」と記してある書籍などがあるが、そもそも発音をカナ表記する難しさもあるわけだが、最近では「ホームブリュー」と記すことが一般的になっているようだ。身近に別の団体だと勘違いしていた人がいるので念のため記しておきたい。

さて、よくパーソナルコンピュータの誕生は60年代のカウンター・カルチャーと称される反体制、反戦、自由指向が理解できないと成り立ちは分かりにくいと聞く。確かに日本でも学生運動はあったが米国における文化としての気風や時代の流れは極東の日本で例え同じ時代を共有していたとしてもなかなかダイレクトに理解できないというのが本当のところだ。
しかしウエストコーストコンピュータフェア(WCCF)の主催者であるジム・ウォーレンはそうした60年代の反統制指向の遺伝情報が当時のハッカーたちの原動力だったと言っている。
反戦運動とドラッグが相乗的にアメリカのアート、音楽、文学、思想などありとあらゆる文化に多大な影響を与え、既存の価値観を否定する気風が高まった時代だったのである。

ジム・ウォーレンは言う。1960年代終盤にはそのカウンター・カルチャーに影響されサンフランシスコを中心とするベイエリアでフリーユニバーシティと呼ばれる活動が活発になっていったと…。
それは老若男女を問わず学ぶ機会を均等にシェアしようという試みで、大学に入らなくても何かを学びたい人が自由に学べ、教えたい人が教えるというスタイルが普通で実際の教室は誰かの自宅だった。この時代は知識を共有すると共に、いまの管理社会を変えようという強い意識が浸透していた時代だったという。
1970年代になるとこのフリーユニバーシティは自然消滅していくが、ホームブリューコンピュータクラブという集まりはこうした文化背景の流れを組むものであった。そしてAltair 8800の発売に触発される形でクラブは発足したらしい。

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※第1回ウエストコーストコンピュータフェアの非営利スポンサーのひとつとしてホームブリューコンピュータクラブの名がある(第1回ウエストコーストコンピュータフェア会報より)


ともかく1960年代の終わりころ米国の大学は動乱期だった。そして多くの若者が既製の価値と体制・体系に疑問を持ち自身の価値とのギャップに苦しみ大きな違和感を感じていた時代だった。
政治の話しはともかくコンピュータに関わることでも根っこは一緒だった感がある。
IBMをはじめとする巨大コンピュータメーカーの市場支配を打破し、それらのコンピュータ利用を牛耳っているプログラマやエンジニア、オペレータたちを「コンピュータの聖職者」と揶揄するいわゆる革命家とも呼ぶべきハッカーたちが登場しつつあった。

1970年代の後半までユーザーは一般的にタイム・シェアリング式のコンピュータを使わざるを得なかった。
通常鍵のかかった部屋に設置してあるメインフレームとそれに接続した端末装置を使うには前記した聖職者といわれる人たちの許可を取らなければならなかった。
確かにミニコンは存在したがそんな高価ものを個人で持っている人はほとんどいなかった。勿論リー・フェルゼンスタインのようにタイムシェアリングシステムを使いやすくしようと努力している人物もいた。フェルゼンスタインは鉱石ラジオ技術が普及したようにコンピュータも一般に普及させたいと考えるようになっていた。
そんな折も折、1975年1月号のポピュラーエレクトロニクス誌にAltair 8800が紹介されたのだった。彼らは大きな衝撃を受けると同時に一筋の希望が差し込んだ!

機械技術者でコンピュータ・ホビイストのゴードン・フレンチと共にホームブリューコンピュータクラブを立ち上げたフレッド・ムーアはコンピュータに関心のある者、教師ならびに革新的な教育家などのリストを得てコンピュータ技術に関する共通の情報を持ち合う場を持とうと檄をとばした。
こうしてホームブリューコンピュータクラブは1975年3月5日、シリコン・バレーに隣接したメンロ・パーク郊外にあったゴードン・フレンチの自宅の車庫で第1回が開催され32人が集まったのである。先のリー・フェルゼンスタインも友人を誘って参加したがそこにはあのスティーブ・ウォズニアックもいた。



※2004年にテレビ出演した際のリー・フェルゼンスタインおよびスティーブ・ウォズニアックら往年のメンバーたち。今は亡きジェフ・ラスキンの姿も...


そしてスティーブ・ドンビアは自分がMITS社を訪問したこと、すでにAltairは1,500台出荷され、さらにこの月だけで100台が出荷されるということ、そしてMITS社は大量の注文をかかえて対応に苦慮しているといった情報を報告し、コンピュータは誰でもが買おうと思えば買える次代が到来したのだと力説した。
この第1回の会合の様子は「Homebrew Newsletter #1 Vol 1」としてここで見ることが出来る。

4月の会合はメンロ・パーク市の小学校で行われたがここでスティーブ・ドンビアは自身が組み立てたAltair 8800を持ち込み、その上に乗せた小型のFMラジオからメロディーを出力させた。
Alteia 8800による初めてのコンサートが終わると会員たちは全員起立してドンビアに拍手したという。
参加者たちはドンビアを羨ましいと思いながら、自分たちもコンピュータを手に入れたらいったい何ができるのか、何を実現したいのかを思い浮かべた。

彼らの多くは夢想した。コンピュータは次代を担うものであり、誰でもがコンピュータを使って自分のやりたいことのために役立てる時代がくることを…。ただし彼らにも当初コンピュータという代物は果たして何者なのか…何の役に立つのか…といったことについては明確な理解はされていなかったと思われる。
ともかくホームブリューコンピュータクラブの評判は大きくなり第3回目の会合では100名を超える参加者となった。

当時のホビーストたちはソフトウェアよりもハードウェアに関心があった。何故ってありもしないコンピュータ用のプログラムなど作り得なかったからだが、Altair 8800の出現でソフトウェアが必須となったのである。だからプログラムが書ける人はそれぞれの力量でプログラムを書くようになったが、それを売買するようになろうとは誰もが思ってもみなかった。あのビル・ゲイツたちを除いて...(笑)。
無論Altairのメモリは256バイトと極小だったから複雑なことをさせることはできなかった。しかしともかくその能力を実演してみせる簡素なプログラムを書こうと努力する人たちが多々登場する。先のドンビアの音楽演奏プログラムのように…。

しかし彼らはなぜこの玩具のようなコンピュータに魅せられたのだろうか。それは多分に知識欲が大きな動機だったに違いないしコンピュータそのものがこれまでになく新しくて刺激的な遊び道具だったのかも知れない。
Apple Computer社の共同設立者であるスティーブ・ウォズニアックは言う。自分は内気でホームブリューコンピュータクラブでもなかなか発言できないでいたという。しかしある日自作のコンピュータ(Apple Iの原型)を皆に見せることができたことがきっかけで周りの人たちと話しができるようになったと…。

私自身にも思い当たることかが多々ある。1980年代後半あたりから急にパソコンを軸にしたコミュニケーションが多くなった。機会があればお話ししたい様々な思い出もあるが、あるとき同好の友人知人たち十数人と一泊で旅行に行ったことがあった。確か東京駅かどこかで待ち合わせたはずだが、待ち合わせの時間中、電車で移動中、ケーブルカー乗車中、夕食で膳を囲んでいる間、そして温泉につかりながらも我々はずっと絶え間なくAppleのこと、Macintoshのことを喋り続けていた(笑)。
食事が終わり、世話役のM氏が旅館の人に「ビデオを見ることが出来る部屋を予約していたのですが…」と聞く。係の女性は顔には表さなかったものの、きっと「こいつら皆でアダルトビデオでも見るんだろう…」と考えたに違いないが、我々がそこで見たのはAppleの新作コマーシャル映像だったのである(笑)。

私にとってもそうだったが、当時のホビーストやマニアにとって “コンピュータそのものが意思疎通のための言語” だった感がある。コンピュータのことなら一晩でも二晩でも話しは尽きなかった。
総じていえることは未知の領域を探る知的冒険家の醍醐味をそれぞれの立場で感じ取っていたに違いない。
ただしホームブリューコンピュータクラブ設立当時はまだまだ環境が整っていなかった。マイコンが時代を先取りして世の中を変えるようになるには、優れたソフトウェアや周辺機器によりマイコンが玩具から有用な道具に変わらなければならない。そのために早急に必要なのはオペレーティング・システムといわゆる高級言語とよばれる開発環境であった。

当時マイコンに関するあらゆる新しい情報はホームブリューコンピュータクラブの会員たちにより持ち込まれ、共有された。そうした中からハッカー精神に反すると考える向きもあったものの次第にビジネスが生まれはじめる。
1976年の終わり頃のシリコン・バレーでは、プロセッサ・テクノロジー、クロメンコ、ノース・スター、ベクター・グラフィックといった会社が名を成しはじめていて少し前にはまったくなかったひとつの産業を築いていたのである。そして驚くべきはその産業はあたかも光速のようなスピードで成長していった。

当時、他にもこうしたクラブは存在したがホームブリューコンピュータクラブは最も成功したクラブのひとつであり、マイコン創造の触媒となった。なぜならそれらに関わる人たちをホビーストから起業家…ビジネスへと橋渡しする大きな役割を果たしたといえよう。
しかし前記したリー・フェルゼンスタインだが、ホームブリューコンピュータクラブのモデレータを1975年から1986年まで務めたことだけでも大変な人物だったが、友人のボブ・マルシュに頼まれAltair用のメモリボードを設計し、それは多いに売れたという。またAltair 8800bのビデオディスプレイモジュールの設計をも行いマイクロコンピュータ革命に一石を投じた。しかし彼はハッカー倫理に則り、あくまでボランティアの姿勢を崩さずそれで金を儲けることは避けたという。

Lee Felsenstein

※リー・フェルゼンスタイン (InfoWorld誌 Volume5, Number45 より)


ホームブリューコンピュータクラブの戦士たちは、他者のために自分たちの才能をふるい、ハッカー倫理を実践していた。そして誰にでも使えるコンピュータの実現という共通の夢を分かち合いその研究が実践されてきた同クラブは1986年12月17日、スタンフォード大学の講堂に80名が集まり最後のミーティングを行った。その会合をもってホームブリューコンピュータクラブは11年間の歴史に終止符を打った。
リー・フェルゼンスタインは言う。「我々は自分たちが時代遅れになり役に立たなくなったと言っているのではない。こういったスタイルでの集まりこそ時代遅れになったと考えたのだ」と…。
フェルゼンスタインの言うとおり、時代は確実に代わり、ハッカー倫理もそのままでは通用しなくなったのである。

【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「ハッカーズ」工学社
・「パソコン創世記」TBSブリタニカ刊
・「マッキントッシ伝説」アスキー出版局
・「アップルを創った怪物」ダイヤモンド社
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Author:mactechlab
主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。また直近では「木挽町お鶴捕物控え」を発表している。
2018年春から3Dプリンターを複数台活用中であり2021年からはレーザー加工機にも目を向けている。ゆうMUG会員