第1回WCCFにおけるAppleブース出展経緯の考察
以前に「第1回ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)開催物語」といったアーティクルを紹介し、パーソナルコンピュータが熱烈に一般の人たちに知られるようになっていくきっかけを作った、いわば業界のビッグ・バンのような催事を見てきたが、そこに目立つブースを確保していたApple Computer社はどんな様子だったのだろうか….。
1976年4月1日のエイプリルフールにApple Computerという会社を立ち上げた2人のスティーブだったが(本当は3人だが早期離脱のロン・ウェインは除いておく)最初は法人化してはいなかった。最初の仕事はジョブズがBYTE SHOPから注文を取ってきたApple I を友人たちや家族まで巻き込み、はんだ付けする毎日だったがとにかくApple I は200台ほど作られ、175台が売れたという。その感触を掴んだジョブズとウォズニアックはより洗練したコンピュータ開発を企画する。
無論Appleの法人化を実現しビジネス的興味を持って精力的に活動したのはスティーブ・ジョブズだった。したがってできることは積極的に取り組んでいたしホームブリューコンピュータクラブでの紹介はもとより当時小規模ながら始まっていたコンピュータのイベントへも積極的に参加しApple Iの紹介に努めていたようだ。
例えば1976年8月28と29日の両日、ニュージャージ州アトランティックシティで開催された「PC '76 Computer Show」にはApple 1のデモのためブースで説明するスティーブ・ジョブズの姿があった…。
とはいえ彼らはまだまだプロモーションに関しては素人だったし資金もなかった。Appleのブースは黄色いカーテンで囲ったスペースにテーブルを置いただけという安っぽい造りだったし、置いてあるものと言えばApple Iとモニタを除けばマニア向け雑誌に載ったAppleの記事をラミネートしたものと片面印刷でしかない名刺だけだった。
そしてブースに詰めていたジョブズもウォズニアックそして応援に駆けつけたダン・コケトも皆開襟シャツに長髪、髭もじゃでとても信頼できそうな雰囲気ではなかった。さらにブースの位置もよほどの物好きしか行かないであろう隅っこだった…。

※1976年開催「PC '76 Computer Show」でApple Iを説明するスティーブ・ジョブズ
しかしジョブズはこうした自分たちの弱点をよく承知していたものと思われる。
翌年1977年4月に開催された「第1回ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)」はコンピュータ関連の催事としてそれまでになく大規模なものとなったが、Appleはそのイベントに新製品のApple II をお披露目することにした。このときのAppleは10ヶ月前とはまったく違うアプローチで自社とその製品をアピールすることになった。
WCCF主宰のジム・ウォーレンが直接スティーブ・ジョブズに電話をかけ、出展を促すと二つ返事で予約が取れたと言うがその条件としてブースは会場正面入り口という最良のポジションだった。
WCCFへの出展は決めたもののそれは関係者にとって大変骨の折れることだった。準備のための時間も少なかったからフェア直前からAppleの全社員8人は狂ったように働いたし特にApple IIの開発者であるスティーブ・ウォズニアックはために昼夜となく働いた。ただしそのApple IIを商品化する上で重要な貢献をしたのはやはりジョブズだった。とはいえ彼が拘ったプラスチック製のケースにしてもこれがなかなか旨くいかずやっと搬入日の4月15日になって届いたのだった。
ケースだけではなくApple II自体も皆が髪を振り乱して働き続けた結果4台のプロトタイプが出来上がったものの静電気に弱いチップを使ったため、キーボードは20分毎に動かなくなった。それにフェアで配る予定の新しい名刺は2日前になっても納品されずジョブズ達をヤキモキさせた。
クリス・エスピノザやランディ・ウィギントン、ロッド・ホルトらはデモンストレーションのブログラムをいくつか書き、それをカセットテープに記憶させていった。カセットが足りなくなると近くのディスカウント・ストアに買いに走ったという。
ともかく明日から開催という前日にセント・フランシスホテルに陣取った彼らが賢明に働いた結果、ケースにマザーボードが取り付けられ、テストが済んだのは夜中の1時を回っていた。しかし努力の甲斐があってAppleにとって記念すべきデビューの朝が明けようとしていたのである。
Appleがフェアに出展するための予算はブースデザインだけでも5.000ドルほどが見込まれたがこの時期、Appleはマイク・マークラの支援の他にバンク・オブ・アメリカからの融資も成功しフェアにたっぷりと予算をかけることができたのは幸いだった。
Appleは室内装飾の専門家を雇い、展示ブースのデザインを依頼しレインボーカラーのアップルロゴを制作し会社らしく見える各種看板も用意する。
他の会社はそのほとんどがこれまでの展示会同様にブースを仕切っている垂れ幕に社名を書いた厚紙を飾り、折りたたみのテーブルを配置するだけという有様だった。それに比べるとApple社のブースには目立つ6色のアクリル製アップルロゴが燦然と輝いていたし大きなスクリーンにはカラーで万華鏡のようなアニメーションが動いていて別世界だった。
ブースに詰めかけた人々はそこに美しく洒落たケースに納まった世界初のパーソナルコンピュータを目のあたりにする。さらに来場者らはケースの蓋を開けたマザーボードを見るにつけ、その洗練された造りに驚かされた。
その上、大型スクリーンに鮮やかなカラーで映し出されるアニメーションがその小さなマシンで実行されているとは思えず、後ろに大型コンピュータが隠されているのではないかと疑ったためジョブズは苦笑しながらも何度も垂れ幕をめくっては何も隠していないことを示さなければならなかった。
200近い展示スペースのほとんどは人で一杯だったが一部のエリアでは満員電車なみの混雑だった。その中でApple Computer社のブースではシャツにネクタイを締めベストを着たティーブ・ジョブズが説明に追われていた。なぜならマイク・マークラとAppleの広報・広告を担当することになったレジス・マッケナはスタッフらの身なりにも注意を払ったからだ。ためにジョブズもサンフランシスコの洋服屋に連れて行かれ三つ揃えのスーツを作らされた。
ここにある一枚の写真はそんな当時の様子を撮ったものらしいが、ジョブズと視線を合わせているのはホームブリューコンピュータクラブのモデレーターを務めていたリー・フェルゼンスタインに違いない。

※WCCFにおける三つ揃え姿のスティーブ・ジョブズ。どこか自信と余裕がうかがえるではないか...。彼が視線を送っているのはリー・フェルゼンスタイン
ジョブズは勿論、社長のマイク・スコット、クリス・エスピノサやランディ・ウィギントンらも説明や来場者の対応に追われていた。マイク・マークラは会場を回り、代理店の確保に努力していたがAltairのMITS社より大幅な自由を与えてくれそうなAppleに対して協力を望む代理店が多かったという。
そんな中、スティーブ・ウォズニアックはここでもいたずらを考案し、想像上の新型マシンのパンフレットをでっち上げてジョブズまでをも欺いた(笑)。
この会場には日本へ初めてApple IIを持ち込み、国内総代理店として知られるようになる(株)イーエスディラボラトリ(ESD)の代表取締役、水島敏雄がいた。
そのESD社が発行していたアップルマガジン1984年 Vol.2に水島氏自身が「私の袖をスティーブが掴まえたのが始まり」とApple IIとの出会いのきっかけが紹介されている…。ただしAppleのブースでは前記したように万華鏡のアニメーションやブロック崩しといったデモをやっていたのを見て最初はTVゲーム機だと勘違いしたという。それを知ったスティーブ・ジョブズは躍起となってApple IIはパーソナルコンピュータであることを説明したらしい。またブースでは回路図やモニタリストの公開もしていたという。
この「第1回ウェストコーストコンピュータフェア」はAppleにとって大成功だった。あのテッド・ネルソンはApple IIが大文字しか使えないといって不満をもらしたが、ほとんどの来場者はApple IIの洗練されたデザインとカラーグラフィックスが使えるそのスペックを気に入った。
「第1回ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)」は延べ13.000人の来場者がひしめき合い主宰者のジム・ウォーレンらを驚かせた。そしてAppleはこのイベントが終わったと同時に注文が殺到することになる。
運命の歯車は噛み合い加速度を増して回り始めたのだった…。
【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「ハッカーズ」工学社
・「パソコン創世記」TBSブリタニカ
・「アップルマガジン 1984年 Vol.2」イーエスディラボラトリ
・「スティーブ・ジョブズの王国」プレジデント社
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社
1976年4月1日のエイプリルフールにApple Computerという会社を立ち上げた2人のスティーブだったが(本当は3人だが早期離脱のロン・ウェインは除いておく)最初は法人化してはいなかった。最初の仕事はジョブズがBYTE SHOPから注文を取ってきたApple I を友人たちや家族まで巻き込み、はんだ付けする毎日だったがとにかくApple I は200台ほど作られ、175台が売れたという。その感触を掴んだジョブズとウォズニアックはより洗練したコンピュータ開発を企画する。
無論Appleの法人化を実現しビジネス的興味を持って精力的に活動したのはスティーブ・ジョブズだった。したがってできることは積極的に取り組んでいたしホームブリューコンピュータクラブでの紹介はもとより当時小規模ながら始まっていたコンピュータのイベントへも積極的に参加しApple Iの紹介に努めていたようだ。
例えば1976年8月28と29日の両日、ニュージャージ州アトランティックシティで開催された「PC '76 Computer Show」にはApple 1のデモのためブースで説明するスティーブ・ジョブズの姿があった…。
とはいえ彼らはまだまだプロモーションに関しては素人だったし資金もなかった。Appleのブースは黄色いカーテンで囲ったスペースにテーブルを置いただけという安っぽい造りだったし、置いてあるものと言えばApple Iとモニタを除けばマニア向け雑誌に載ったAppleの記事をラミネートしたものと片面印刷でしかない名刺だけだった。
そしてブースに詰めていたジョブズもウォズニアックそして応援に駆けつけたダン・コケトも皆開襟シャツに長髪、髭もじゃでとても信頼できそうな雰囲気ではなかった。さらにブースの位置もよほどの物好きしか行かないであろう隅っこだった…。

※1976年開催「PC '76 Computer Show」でApple Iを説明するスティーブ・ジョブズ
しかしジョブズはこうした自分たちの弱点をよく承知していたものと思われる。
翌年1977年4月に開催された「第1回ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)」はコンピュータ関連の催事としてそれまでになく大規模なものとなったが、Appleはそのイベントに新製品のApple II をお披露目することにした。このときのAppleは10ヶ月前とはまったく違うアプローチで自社とその製品をアピールすることになった。
WCCF主宰のジム・ウォーレンが直接スティーブ・ジョブズに電話をかけ、出展を促すと二つ返事で予約が取れたと言うがその条件としてブースは会場正面入り口という最良のポジションだった。
WCCFへの出展は決めたもののそれは関係者にとって大変骨の折れることだった。準備のための時間も少なかったからフェア直前からAppleの全社員8人は狂ったように働いたし特にApple IIの開発者であるスティーブ・ウォズニアックはために昼夜となく働いた。ただしそのApple IIを商品化する上で重要な貢献をしたのはやはりジョブズだった。とはいえ彼が拘ったプラスチック製のケースにしてもこれがなかなか旨くいかずやっと搬入日の4月15日になって届いたのだった。
ケースだけではなくApple II自体も皆が髪を振り乱して働き続けた結果4台のプロトタイプが出来上がったものの静電気に弱いチップを使ったため、キーボードは20分毎に動かなくなった。それにフェアで配る予定の新しい名刺は2日前になっても納品されずジョブズ達をヤキモキさせた。
クリス・エスピノザやランディ・ウィギントン、ロッド・ホルトらはデモンストレーションのブログラムをいくつか書き、それをカセットテープに記憶させていった。カセットが足りなくなると近くのディスカウント・ストアに買いに走ったという。
ともかく明日から開催という前日にセント・フランシスホテルに陣取った彼らが賢明に働いた結果、ケースにマザーボードが取り付けられ、テストが済んだのは夜中の1時を回っていた。しかし努力の甲斐があってAppleにとって記念すべきデビューの朝が明けようとしていたのである。
Appleがフェアに出展するための予算はブースデザインだけでも5.000ドルほどが見込まれたがこの時期、Appleはマイク・マークラの支援の他にバンク・オブ・アメリカからの融資も成功しフェアにたっぷりと予算をかけることができたのは幸いだった。
Appleは室内装飾の専門家を雇い、展示ブースのデザインを依頼しレインボーカラーのアップルロゴを制作し会社らしく見える各種看板も用意する。
他の会社はそのほとんどがこれまでの展示会同様にブースを仕切っている垂れ幕に社名を書いた厚紙を飾り、折りたたみのテーブルを配置するだけという有様だった。それに比べるとApple社のブースには目立つ6色のアクリル製アップルロゴが燦然と輝いていたし大きなスクリーンにはカラーで万華鏡のようなアニメーションが動いていて別世界だった。
ブースに詰めかけた人々はそこに美しく洒落たケースに納まった世界初のパーソナルコンピュータを目のあたりにする。さらに来場者らはケースの蓋を開けたマザーボードを見るにつけ、その洗練された造りに驚かされた。
その上、大型スクリーンに鮮やかなカラーで映し出されるアニメーションがその小さなマシンで実行されているとは思えず、後ろに大型コンピュータが隠されているのではないかと疑ったためジョブズは苦笑しながらも何度も垂れ幕をめくっては何も隠していないことを示さなければならなかった。
200近い展示スペースのほとんどは人で一杯だったが一部のエリアでは満員電車なみの混雑だった。その中でApple Computer社のブースではシャツにネクタイを締めベストを着たティーブ・ジョブズが説明に追われていた。なぜならマイク・マークラとAppleの広報・広告を担当することになったレジス・マッケナはスタッフらの身なりにも注意を払ったからだ。ためにジョブズもサンフランシスコの洋服屋に連れて行かれ三つ揃えのスーツを作らされた。
ここにある一枚の写真はそんな当時の様子を撮ったものらしいが、ジョブズと視線を合わせているのはホームブリューコンピュータクラブのモデレーターを務めていたリー・フェルゼンスタインに違いない。

※WCCFにおける三つ揃え姿のスティーブ・ジョブズ。どこか自信と余裕がうかがえるではないか...。彼が視線を送っているのはリー・フェルゼンスタイン
ジョブズは勿論、社長のマイク・スコット、クリス・エスピノサやランディ・ウィギントンらも説明や来場者の対応に追われていた。マイク・マークラは会場を回り、代理店の確保に努力していたがAltairのMITS社より大幅な自由を与えてくれそうなAppleに対して協力を望む代理店が多かったという。
そんな中、スティーブ・ウォズニアックはここでもいたずらを考案し、想像上の新型マシンのパンフレットをでっち上げてジョブズまでをも欺いた(笑)。
この会場には日本へ初めてApple IIを持ち込み、国内総代理店として知られるようになる(株)イーエスディラボラトリ(ESD)の代表取締役、水島敏雄がいた。
そのESD社が発行していたアップルマガジン1984年 Vol.2に水島氏自身が「私の袖をスティーブが掴まえたのが始まり」とApple IIとの出会いのきっかけが紹介されている…。ただしAppleのブースでは前記したように万華鏡のアニメーションやブロック崩しといったデモをやっていたのを見て最初はTVゲーム機だと勘違いしたという。それを知ったスティーブ・ジョブズは躍起となってApple IIはパーソナルコンピュータであることを説明したらしい。またブースでは回路図やモニタリストの公開もしていたという。
この「第1回ウェストコーストコンピュータフェア」はAppleにとって大成功だった。あのテッド・ネルソンはApple IIが大文字しか使えないといって不満をもらしたが、ほとんどの来場者はApple IIの洗練されたデザインとカラーグラフィックスが使えるそのスペックを気に入った。
「第1回ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)」は延べ13.000人の来場者がひしめき合い主宰者のジム・ウォーレンらを驚かせた。そしてAppleはこのイベントが終わったと同時に注文が殺到することになる。
運命の歯車は噛み合い加速度を増して回り始めたのだった…。
【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「ハッカーズ」工学社
・「パソコン創世記」TBSブリタニカ
・「アップルマガジン 1984年 Vol.2」イーエスディラボラトリ
・「スティーブ・ジョブズの王国」プレジデント社
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社
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