Apple最高技術責任者エレン・ハンコックの思い出
エレン・ハンコックはAppleのCEO、ギル・アメリオに依頼されAppleの最高技術責任者兼研究開発部門の副社長としてAppleに入った。皮肉にも彼女が最初に決断したことはコープランドの開発が絶望的であるということだった。
優れたOSとして登場したMac OSだがその生誕から10周年である1994年あたりになると時代の進化に遅れを取っている部分も目立ってきた。すなわち「モダンOS」と呼ばれる機能だ。
プリエンプティブ・マルチタスク...すなわちCPU機能を適宜割り振り、複数のアプリケーションを同時に実行できる機能。そしてメモリプロテクション(メモリ保護)...すなわち特定のプロセスがトラブルを生じても他のプロセスのメモリ空間には影響を与えないという機能を望まれていた。
現在のMac OS Xにはそのどちらの機能をも理想的な形で搭載されているがこの話はそれ以前の物語である。そして当時の問題としてはそのどちらもWindows95にはすでに搭載されていたのであった。
さて「コープランド(Copland)」はMacintosh用モダンOSの開発コード名であり、Appleを再び業界最前線に引き戻す革新的な新オペレーティング・システムとして当時大がかりにアナウンスされていた。そのCoplandが初めて公式に発表されたのは1994年のことだが、それまでにもAppleはデベロッパーに対して、タリジェントの"ピンク"など、モダンOSの登場を示唆し続けてきたが一向にそれらは登場する気配がなかった。
エレン・ハンコックはナショナル・セミコンダクター社において当時のApple CEOギル・アメリオ腹心の部下だった。アメリオに請われエレン・ハンコックは1996年7月に最高技術責任者兼研究開発部門の副社長に就任した。しかし皮肉なことに彼女が決断した最初のことは問題のCopland自社開発は無理だと判断し、その必要なテクノロジーを外部から求めるようCEOに進言したことだった。
技術最高責任者が社内の開発進捗具合を調査した結果、Coplandを完成することは「難しい」と結論づけたのだ!!。
それまで数年間、Coplandに対応する製品を開発しようと人的リソースはもとより開発資金を投入し、Appleを信じてついてきたデベロッパーたちは激怒した。中にはAppleに絶望し、二度とAppleには関わりたくないと断言して業界を去ったデベロッパーたちもいた。
モダンOSを自社開発できないと決断した後、問題は「では、どうするか」だった。外部にパートナーを求めるしかないわけだが、最初にAppleが目をつけたのが1990年にAppleを退社し、Be社を設立したジャン=ルイ・ガッセー率いるBe OSだった。しかし結果論だが技術面よりガッセーはAppleの弱みにつけ込み過ぎ、足下を見過ぎた。そのためAppleの思惑を遙かに超える売値を提示したことが最終的には採用されなかった一番の原因ではなかったか...。
採用を考えられたモダンOSにはBeOSの他に、SUNマイクロシステムズのソラリスなどとともに、驚いたことにはマイクロソフトのウィンドウズNTという噂もあった。
こうした紆余曲折の中で1996年12月20日、AppleはすでにNeXT社を買収する意向を、そして翌1997年1月のMacWorldExpo/SFにおいて新Mac OS戦略のRhapsodyの発表を行った。RhapsodyはNeXTのOSおよび開発環境であるNEXTSTEPをマルチプラットフォームに発展させたOPENSTEPをベースとして開発された。
一番の問題はいかにしてCoplandの資産をNEXTSTEPと融合して新しいモダンOSであるRhapsodyとするかにあった。そして世界のデベロッパーたちが賛同し、Appleについてきてくれるかどうかにあった。
1997年2月に幕張で第7回MacWorldExpo/Tokyoが開催されたとき、アップルコンピュータ社の肝いりで私をも含む日本のデベロッパー代表がエレン・ハンコックと面談できることになったが、彼女と会うタイミングはそのように大変難しいデリケートな状況時だったのである。
勿論私たちと会うその目的は単なる雑談であるはずはなく、我々日本のデベロッパーにAppleの現状...新Mac OSの進捗状況を説明しよう...理解させようという意図でお膳立てされたものであった。
見晴らしの良いホテルの一室に設けられた会議室の窓側を背にしてテーブル中央に座ったエレン・ハンコックは技術者というよりアメリカのホームドラマに出てくる品の良い金持ちのオバチャンといった感じの人だった。
頭髪はほぼ銀髪であったがそのシックな服装にもかかわらず、彼女のトレードマークとされた肩に巻いたブルーとピンクが目立つかなり派手なデザインのショール(スカーフ)が印象的だった。

※向かってエレン・ハンコックの右が筆者。ハンコックの左が当時のアップル代表取締役 志賀社長
当日の話題は当然ながら「Appleの次世代OS戦略およびそのタイムスケジュール」に絞られた。我々デベロッパーはRhapsodyがCoplandのように大幅に遅れたり、最悪はまた出荷できないようなことになるのでは...と心配していた。
エレン・ハンコックはAppleのモダンOS実現のため、NeXT社を買収したことを説明し、それまで数社と交渉中であったこと、そしてなぜNEXTSTEPにターゲットを決めたかについて触れた。ただしいま思えばはったりであったが「多くの選択肢の中にはまだAppleの独自開発という選択肢も残っている」と明言することを忘れなかった。
「Appleを引き続き応援して欲しい」といった話に続いて会話の行きがかり上、エレン・ハンコックは私の方を向き「OSが変わるのはデベロッパーとして大きな負担ですか?」と質問された。
私はすかさず「確かに大変な負担ですが、私はこれまでOSが変わることより、多々Appleの担当者が変わる事で苦労をしてきました」とその場の雰囲気を和らげようとして答えた。彼女は両手をあげながら笑い「そうね...」と悪戯っぽい表情をして賛同を示した。
続けて私は「ところで、選択肢の中には本当にウィンドウズNTも入っていたのでしょうか」とこれまた努めて柔らかな口調で質問したが、それには苦笑しながらも「ノーコメント...ノーコメントです」と答えた姿が脳裏に焼き付いている。私はエレン・ハンコックのこの返事とその物言いから噂通り選択肢の中にウィンドウズNTも含まれていた...それだけAppleは逼迫していたのだということを確信した(^_^;)。
Appleはその後にRhapsodyを1997年10月、デベロッパー各社に対してPowerMacで動作する最初のバージョンを提供した。

ただしその後はまだ記憶に新しいがスティーブ・ジョブズが暫定CEOに復帰し、Mac OS Xを発表するに至ったことは皆さんよくご承知の通りである。そして1997年7月、エレン・ハンコックはCEOのギル・アメリオがAppleを辞任するのと同時にAppleを去った。
この一連の顛末はAppleの歴史にとって最大級のピンチであり、ある意味汚点でもあったが私はその歴史の単なる傍観者でなくその真っ只中にいたのである...。
優れたOSとして登場したMac OSだがその生誕から10周年である1994年あたりになると時代の進化に遅れを取っている部分も目立ってきた。すなわち「モダンOS」と呼ばれる機能だ。
プリエンプティブ・マルチタスク...すなわちCPU機能を適宜割り振り、複数のアプリケーションを同時に実行できる機能。そしてメモリプロテクション(メモリ保護)...すなわち特定のプロセスがトラブルを生じても他のプロセスのメモリ空間には影響を与えないという機能を望まれていた。
現在のMac OS Xにはそのどちらの機能をも理想的な形で搭載されているがこの話はそれ以前の物語である。そして当時の問題としてはそのどちらもWindows95にはすでに搭載されていたのであった。
さて「コープランド(Copland)」はMacintosh用モダンOSの開発コード名であり、Appleを再び業界最前線に引き戻す革新的な新オペレーティング・システムとして当時大がかりにアナウンスされていた。そのCoplandが初めて公式に発表されたのは1994年のことだが、それまでにもAppleはデベロッパーに対して、タリジェントの"ピンク"など、モダンOSの登場を示唆し続けてきたが一向にそれらは登場する気配がなかった。
エレン・ハンコックはナショナル・セミコンダクター社において当時のApple CEOギル・アメリオ腹心の部下だった。アメリオに請われエレン・ハンコックは1996年7月に最高技術責任者兼研究開発部門の副社長に就任した。しかし皮肉なことに彼女が決断した最初のことは問題のCopland自社開発は無理だと判断し、その必要なテクノロジーを外部から求めるようCEOに進言したことだった。
技術最高責任者が社内の開発進捗具合を調査した結果、Coplandを完成することは「難しい」と結論づけたのだ!!。
それまで数年間、Coplandに対応する製品を開発しようと人的リソースはもとより開発資金を投入し、Appleを信じてついてきたデベロッパーたちは激怒した。中にはAppleに絶望し、二度とAppleには関わりたくないと断言して業界を去ったデベロッパーたちもいた。
モダンOSを自社開発できないと決断した後、問題は「では、どうするか」だった。外部にパートナーを求めるしかないわけだが、最初にAppleが目をつけたのが1990年にAppleを退社し、Be社を設立したジャン=ルイ・ガッセー率いるBe OSだった。しかし結果論だが技術面よりガッセーはAppleの弱みにつけ込み過ぎ、足下を見過ぎた。そのためAppleの思惑を遙かに超える売値を提示したことが最終的には採用されなかった一番の原因ではなかったか...。
採用を考えられたモダンOSにはBeOSの他に、SUNマイクロシステムズのソラリスなどとともに、驚いたことにはマイクロソフトのウィンドウズNTという噂もあった。
こうした紆余曲折の中で1996年12月20日、AppleはすでにNeXT社を買収する意向を、そして翌1997年1月のMacWorldExpo/SFにおいて新Mac OS戦略のRhapsodyの発表を行った。RhapsodyはNeXTのOSおよび開発環境であるNEXTSTEPをマルチプラットフォームに発展させたOPENSTEPをベースとして開発された。
一番の問題はいかにしてCoplandの資産をNEXTSTEPと融合して新しいモダンOSであるRhapsodyとするかにあった。そして世界のデベロッパーたちが賛同し、Appleについてきてくれるかどうかにあった。
1997年2月に幕張で第7回MacWorldExpo/Tokyoが開催されたとき、アップルコンピュータ社の肝いりで私をも含む日本のデベロッパー代表がエレン・ハンコックと面談できることになったが、彼女と会うタイミングはそのように大変難しいデリケートな状況時だったのである。
勿論私たちと会うその目的は単なる雑談であるはずはなく、我々日本のデベロッパーにAppleの現状...新Mac OSの進捗状況を説明しよう...理解させようという意図でお膳立てされたものであった。
見晴らしの良いホテルの一室に設けられた会議室の窓側を背にしてテーブル中央に座ったエレン・ハンコックは技術者というよりアメリカのホームドラマに出てくる品の良い金持ちのオバチャンといった感じの人だった。
頭髪はほぼ銀髪であったがそのシックな服装にもかかわらず、彼女のトレードマークとされた肩に巻いたブルーとピンクが目立つかなり派手なデザインのショール(スカーフ)が印象的だった。

※向かってエレン・ハンコックの右が筆者。ハンコックの左が当時のアップル代表取締役 志賀社長
当日の話題は当然ながら「Appleの次世代OS戦略およびそのタイムスケジュール」に絞られた。我々デベロッパーはRhapsodyがCoplandのように大幅に遅れたり、最悪はまた出荷できないようなことになるのでは...と心配していた。
エレン・ハンコックはAppleのモダンOS実現のため、NeXT社を買収したことを説明し、それまで数社と交渉中であったこと、そしてなぜNEXTSTEPにターゲットを決めたかについて触れた。ただしいま思えばはったりであったが「多くの選択肢の中にはまだAppleの独自開発という選択肢も残っている」と明言することを忘れなかった。
「Appleを引き続き応援して欲しい」といった話に続いて会話の行きがかり上、エレン・ハンコックは私の方を向き「OSが変わるのはデベロッパーとして大きな負担ですか?」と質問された。
私はすかさず「確かに大変な負担ですが、私はこれまでOSが変わることより、多々Appleの担当者が変わる事で苦労をしてきました」とその場の雰囲気を和らげようとして答えた。彼女は両手をあげながら笑い「そうね...」と悪戯っぽい表情をして賛同を示した。
続けて私は「ところで、選択肢の中には本当にウィンドウズNTも入っていたのでしょうか」とこれまた努めて柔らかな口調で質問したが、それには苦笑しながらも「ノーコメント...ノーコメントです」と答えた姿が脳裏に焼き付いている。私はエレン・ハンコックのこの返事とその物言いから噂通り選択肢の中にウィンドウズNTも含まれていた...それだけAppleは逼迫していたのだということを確信した(^_^;)。
Appleはその後にRhapsodyを1997年10月、デベロッパー各社に対してPowerMacで動作する最初のバージョンを提供した。

ただしその後はまだ記憶に新しいがスティーブ・ジョブズが暫定CEOに復帰し、Mac OS Xを発表するに至ったことは皆さんよくご承知の通りである。そして1997年7月、エレン・ハンコックはCEOのギル・アメリオがAppleを辞任するのと同時にAppleを去った。
この一連の顛末はAppleの歴史にとって最大級のピンチであり、ある意味汚点でもあったが私はその歴史の単なる傍観者でなくその真っ只中にいたのである...。
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