スティーブ・ジョブズがNeXT社を創業するまでの経緯考察
スティーブ・ジョブズがAppleを辞めた後、高等教育での使用をターゲットにした高性能パソコンを作ろうとNeXT社を設立したことはすでによく知られている。しかし実際の所、このNeXT社の設立およびスタートもすんなりとは行かなかった。今回はそうした時期のジョブズの動きを追ってみたい。
スティーブ・ジョブズは1985年9月17日、マイク・マークラに宛てた辞表の中で「私はまだ30歳で、貢献もしたいし目的も果たしたい」と記している。無論Appleを辞めたとしても隠遁するはずもなく、人々の注目はジョブズが次にどのようなことを始めるかにあった。しかし当然のことではあったが、ジョブズにとっても新しい世界への旅立ちは容易なことではなかった…。
ジョブズが経営権を剥奪されたときも「僕の頭の中には少なくともあと一つはすごいコンピュータがあるんだ。それなのにAppleはそれを作るチャンスを与えてくれないんだ」とメディアのインタビューに答えている。その言葉はそのままNeXTコンピュータの具体的なアイデアを意味したはずもないし最初は特に具体的なアイディアがあったわけでもないと思われるが、彼の頭の中には常に教育市場への興味があったようだ。

※1985年10月14日付 FORTUNE誌には「ジョブズは新しいマシンの着想を得た」としながらも「Appleでの行為が新しい企業イメージに悪影響を与えかねない」と懸念を示している
本人も一時は政治の世界に入ろうか、あるいは宇宙飛行士に応募しようか…などなど頭をかすめたもののジョブズはやはりコンピュータが作りたかったに違いない。
そんなときスタンフォード大学の生化学者でありノーベル賞受賞者のポール・バーグ教授と知り合い、昼食を共にする機会を得る。そこで遺伝子組み替えなどのシミュレーションの話になったが、ポール・バーグ教授はそうした実験をやれるだけの強力なコンピュータを持っていないと愚痴をこぼす…。
このときジョブズはまだ漠然としてはいたものの大きな何かを掴んだようだ。
とはいえAppleの社員たちも経営権が剥奪されたとはいえジョブズを放っておいたわけではなかった。特に旧Macintosh事業部の連中、例えばアンディ・ハーツフェルドやバッド・トリブルらは新しい事業を始めてはどうかとジョブズを煽ったが、ジョブズはその気にはなれなかった。
さらにMacintosh事業部の会計監査役だったスーザン・バーンズ、Macintoshのアナログ関係技術者のジョージ・クロウなどがスティーブ・ジョブズのことを心配し、かつ自分たちがおかれた現状に対して愚痴を訴えるために電話をしてきた。
そんな時間を過ごしているとジョブズの中でポール・バーグ教授との会話が次第に膨らんできた。複雑で高度な生化学の実験をシミュレートできるほどに十分強力で、かつ大学や大学生が十分買えるほどの安い価格のコンピュータを作るのは自分の使命ではないかと考え始めていたからだ。
ふといま自分の周りにいる存在感ある人物を思い起こせば、その人たちだけで教育向け…大学向けの高性能マシンが作れるような気がしてきた。
アップル・フェローでLisaの主任設計者からMacintosh事業部技師のリッチ・ペイジがデジタル回路を担当し、アナログ技術者のジョージ・クロウがモニターおよび電源回路を設計。バッド・トリブルにソフトウェアを担当させ、スーザン・バーンズが経理を受け持つ…。とすればすでに新しい会社を興す中核の人材が揃っていることにジョブズは気がついた。無論まだまだ不足な点もある。マーケティングがそれだ…。それにはMacintosh事業部の教育マーケティング担当マネージャーであるダニエル・ルーインが適材だと思いついたジョブズはすぐ彼に電話をする...。
面白いといっては不謹慎だが、これらの人々は皆現行のApple体制に大きな不満を持っていた。そんな背景もあってか、彼らと何回かの話し合いでスティーブ・ジョブズの発案、すなわち高等教育向けの新しいコンピュータ開発を目的に新会社を設立するというそのことに皆興奮し賛同したのだった。
彼・彼女らは現状のAppleにあきあきしていたし、新たに起こす企業が例え大きなリスクがあってもジョブズと一緒に働けることに魅力を感じる人たちだった。それにここはシリコンバレーであり、新事業に加わることこそ喜びだと皆が考えた…。ちなみにすぐMacintoshの初期アイコンやフォントをデザインしたスーザン・ケアもクリエイティヴ・ディレクターとして参画することになる。

※1985年9月30日付 NEWSWEEK誌より。Appleを辞めたジョブズと5人のスタッフたち
ただし問題はスティーブ・ジョブズがまだAppleの会長職にあることだった…。後にジョブズはAppleの会長職にありながらも就業中新しい会社設立のために時間を費やし、職を全うしていないという批難の的にもなったが、そもそもジョブズはAppleにとって不用な人物として閑職に追いやられたわけでそれは実におかしな批難でもあった。
9月初旬の取締役会でジョブズが辞意の意向を示し、新しい会社を設立するにあたり数人の社員を連れていくと報告した際、ジョン・スカリーらAppleの取締役たちは新しい会社がAppleと競合することがないのであれば投資する用意もあると答えたという。
ジョブズにも決めかねていたことがあった。それはジョージ、リッチ、スーザン、バッドそしてダニエルの5人がどのタイミングでAppleを離職するかだった。Apple側にパニックを感じさせないよう数週間にわたり皆がバラバラに辞めるべきという提案もあったがそれには反対意見も強かった。
バラバラに辞めていく方が、それがどこまで広がるのかという恐怖感をApple経営陣に与えるから…という理屈で結局ジョブズがジョン・スカリーに一緒に連れて行く人物の名をきちんと知らせるのが得策だという結論に至る。
しかし1985年9月13日の金曜日の朝に招集された取締役会で問題は勃発する。
ジョブズはAppleと競合しない新会社を設立するためにAppleを退社すると正式に宣言。その後のミーティングでスカリーは事務的な感じで次の5人がスティーブ・ジョブズと共に会社を辞めると5人の名を読み上げた。と同時に会議は怒りの渦と化し大混乱となった。
何故ならその5人はAppleのこれからにとっても重要な人物たちであり、ジョブズはAppleを破壊しようとしているのか…という怒りが会議に参加していたデル・ヨーカム、ジェイ・エリオットそしてジャン=ルイ・ガッセーたちに起こった。何よりも彼らが怒り心頭だったのはジョン・スカリーが楽観的でありことの重大さに気づいていない様子だったからだ。
そもそもスティーブ・ジョブズはAppleの全てを知っておりその技術を持ち去ることもできるだろうし、この後もどれだけAppleの技術者たちを引き抜くことを画策しているかも分からなかった。もしジョブズが本気になればAppleの本社ビルはガラガラになる可能性もあるのだ…。とデル・ヨーカムら経営幹部たちが考えたとしても無理はない。その危機感がどうやらジョン・スカリーにはなかったようである。
こうしたApple社内の混乱ぶりは当然のことメディアに大きく取り上げられることになる。
ジャーナリストたちはことの真相を知ろうと退職者も含めて知りうる限り手当たり次第に電話をかけまくった。しかし多くの人たちは沈黙を守ったこともあり推測だけが大きく膨らんでいく…。
噂が噂を呼び、スティーブ・ジョブズたちは新会社を作り、Appleがこれまで培ってきたユニークで高度な技術を盗むだけでなく優秀な人材を根こそぎ引き抜くに違いない…という話が蔓延していく。
その種の噂は新しい会社のスタートに暗い影を投げかけることにもなるし、ジョブズは誤解を糺そうと何人かの知り合いの記者たちに電話をした。
それらはニューヨーク・タイムズ、ウォールストリート・ジャーナル、ビジネスウィーク、USAトゥディそしてサンフランシスコ・クロニクルなどだった…。そして記者会見をするから翌日時間をずらしてウッドサイドにあるジョブズの自宅まで来るようにと伝えた。
ここでもジョブズは気持ちが先行し、記者たちに電話をかけた際には大切な記者会見をどう行うべきかについては考えていなかったことに気がつき、PR会社の専門家に急遽来てもらう。
結局その手配に手間取り、時間が大幅に経過したこともあって締切に追われるジャーナリストたちは1度に話を聞きたいと申し出たため全員がジョブズの自宅のリビングルームに通されることになった。
余談ながら記者たちはソファと椅子、大きなステレオ装置の他にはなにもないだだっ広い簡素な部屋に驚き、これがAppleの取締役会会長の自宅かと言い合ったという。ただし彼らはこのウッドサイドにあるスペイン植民地風の邸宅はベットルームが14もあり、面積は約16,000平方メートルもある大邸宅ということを忘れていたようだ(笑)。
記者たちの前に現れたスティーブ・ジョブズは自分に対して報道されているいくつかの事柄は公正ではないといい「公然と泥棒と呼ばれたからにはそれに応えなければならない」と口火を切った。


※ジョブズの自宅で行われた記者会見の様子を報道する1985年9月25日付けのニューヨーク・タイムズ紙(上)とサンフランシスコ・クロニクル紙(下)
「エデンの西」の著者フランク・ローズによればこのときのジョブズは魅力的で寛大、そして愛想がよかったと書いている。しかし前記したメディアらとは少し遅れてジョブズ宅に到着したというサンノゼ・マーキュリー・ニュース紙(1985年9月25日発行) の記事によればジョブズは疲れた様子で、その話しっぷりは単調、無表情だったと報道している。
ともあれ後にAppleが訴訟を起こしたことを受け、スティーブ・ジョブズはニューズウィークの記者に20億ドルの売上げと4300人の社員を抱える大企業(Apple)が、ジーンズを穿いた6人組と張り合えないなんてバカげている」という有名な台詞を残している…。

※同じくジョブズ邸における記者会見の様子を報道するサンノゼ・マーキュリー・ニュース紙(1985年9月25日発行)
ところでジョブズはアップルコンピュータの株式売却で得たうちから700万ドルを出資し設立する会社の名前をNext (後にNeXT)社と決めた。そしてジョブズがApple社への辞表を出す際にスーザンの勧めもあってマイク・マークラに直接手渡すことに決め、最後の話し合いに臨むことになった。ジョブズとしても辞表を出す相手として自身がヘッドハンティングしたスカリーに渡すなどということはやりたくなかったに違いない。
スーザンとバッドはジョブズを車に乗せてマイクの自宅まで向かうが「話し合いはきっかり15分にすべき」とこれまたスーザンの意見だった。
話が長引けばジョブズはまた余計なことを話して事をより混乱させるかも知れないし、万一にでも策に長けたマイクに丸め込まれ、辞表を出すことができなかったら一大事だと考えたのだろう…。
マイク・マークラの話は予想できたもので「1年だけ目立たないように待つ気はないか?」というその場しのぎの提案だった。
あっという間に15分は経過していたしジョブズはマイクの物言いに怒っていた。これまでにも彼は隅っこに追いやられた経験があったし2度とそんなことを繰り返す気はなかった。
そのときスーザンはマイク邸のドアを叩き挨拶もほどほどに「失礼する時間です!」と言いながらジョブズの腕を掴みマイク・マークラ邸を後にする。
交渉決裂となったマイクは行き掛かり上とはいえその日の夕方、声明を発表しAppleの取締役会はAppleの技術と資産の保全を確保するためいかなる可能な行動をとるべきか、検討を継続すると表明。
結局論争は互いの弁護士同士が扱う問題となったが1986年1月、奇しくもサンフランシスコで開催されたMacworld Expo 最終日のその日、AppleとNeXTは和解に合意する。ジョブズが6ヶ月間はAppleの社員を雇わないなどいくつかの条件をのんだことでAppleは裁判になる前にひっそりと告訴を取り下げた。事実これら一連のトラブルで得をした者は誰もいなかった。
Appleが訴訟を取り下げた背景としてはAppleの業績が好転したことも大きい。これでジョブズがいなくてもやっていけると得心したのだろうが、業績向上の要点は1985年早々にリリースしたレーザーライターを中核にしたMacintosh Officeシステムがページメーカーというページレイアウトソフトと共にDTP、すなわちデスクトップ・パブリッシング市場を形成し始めたことによる。

※1985年発行 Macintosh Officeカタログより抜粋
勿論これらの種を蒔き育ててきたのはスティーブ・ジョブズの力でありジョン・スカリーの功績ではなかった。したがってジョブズがもしマイク・マークラの勧めに従い1年だけシベリアのビルで目立たないように待っていたとすればジョブズの運命はもとより後のAppleは大きく変わっていたと思われる。
ともかくスティーブ・ジョブズの新しい会社、NeXT社はスタートした。ジョブズはNeXTで再び世界を変えようと考えたし、全力を尽くして最高のものを作ろうとする連帯感が皆に満ちあふれていた。
その日、NeXTの2階にあるジョブズのオフィスではAppleとの和解を祝おうとスタッフらがジョブズの到着を待っていた。
ジョブズが現れたとき皆は一斉に拍手しシャンペンを飲み、ジョブズの好きな寿司を注文して飛び跳ねていた。和解…NeXT社からいえば「Apple社訴訟取り下げ」のお祝いをしたかったのだ。何しろ新しいスタートに不確定要素の大きな裁判沙汰は暗い影を落とすからである。
しかし訴訟は取り下げられたがスティーブ・ジョブズの心の傷まで治ったわけではなかった。そして怒りが納まったわけでもなかった。なぜなら彼の新しいオフィスに置かれたデスクの上にはMacintoshが鎮座していたもののそのマシンの正面左下に本来あるべき6色のアップルロゴはジョブズの絶望と怒りを象徴するかのように外されたままだった…。
【主な参考資料】
・「エデンの西(下巻)」フランク・ローズ著/渡辺敏訳 サイマル出版会刊
・「アップルコンフィデンシャル」アスキー出版局刊
スティーブ・ジョブズは1985年9月17日、マイク・マークラに宛てた辞表の中で「私はまだ30歳で、貢献もしたいし目的も果たしたい」と記している。無論Appleを辞めたとしても隠遁するはずもなく、人々の注目はジョブズが次にどのようなことを始めるかにあった。しかし当然のことではあったが、ジョブズにとっても新しい世界への旅立ちは容易なことではなかった…。
ジョブズが経営権を剥奪されたときも「僕の頭の中には少なくともあと一つはすごいコンピュータがあるんだ。それなのにAppleはそれを作るチャンスを与えてくれないんだ」とメディアのインタビューに答えている。その言葉はそのままNeXTコンピュータの具体的なアイデアを意味したはずもないし最初は特に具体的なアイディアがあったわけでもないと思われるが、彼の頭の中には常に教育市場への興味があったようだ。

※1985年10月14日付 FORTUNE誌には「ジョブズは新しいマシンの着想を得た」としながらも「Appleでの行為が新しい企業イメージに悪影響を与えかねない」と懸念を示している
本人も一時は政治の世界に入ろうか、あるいは宇宙飛行士に応募しようか…などなど頭をかすめたもののジョブズはやはりコンピュータが作りたかったに違いない。
そんなときスタンフォード大学の生化学者でありノーベル賞受賞者のポール・バーグ教授と知り合い、昼食を共にする機会を得る。そこで遺伝子組み替えなどのシミュレーションの話になったが、ポール・バーグ教授はそうした実験をやれるだけの強力なコンピュータを持っていないと愚痴をこぼす…。
このときジョブズはまだ漠然としてはいたものの大きな何かを掴んだようだ。
とはいえAppleの社員たちも経営権が剥奪されたとはいえジョブズを放っておいたわけではなかった。特に旧Macintosh事業部の連中、例えばアンディ・ハーツフェルドやバッド・トリブルらは新しい事業を始めてはどうかとジョブズを煽ったが、ジョブズはその気にはなれなかった。
さらにMacintosh事業部の会計監査役だったスーザン・バーンズ、Macintoshのアナログ関係技術者のジョージ・クロウなどがスティーブ・ジョブズのことを心配し、かつ自分たちがおかれた現状に対して愚痴を訴えるために電話をしてきた。
そんな時間を過ごしているとジョブズの中でポール・バーグ教授との会話が次第に膨らんできた。複雑で高度な生化学の実験をシミュレートできるほどに十分強力で、かつ大学や大学生が十分買えるほどの安い価格のコンピュータを作るのは自分の使命ではないかと考え始めていたからだ。
ふといま自分の周りにいる存在感ある人物を思い起こせば、その人たちだけで教育向け…大学向けの高性能マシンが作れるような気がしてきた。
アップル・フェローでLisaの主任設計者からMacintosh事業部技師のリッチ・ペイジがデジタル回路を担当し、アナログ技術者のジョージ・クロウがモニターおよび電源回路を設計。バッド・トリブルにソフトウェアを担当させ、スーザン・バーンズが経理を受け持つ…。とすればすでに新しい会社を興す中核の人材が揃っていることにジョブズは気がついた。無論まだまだ不足な点もある。マーケティングがそれだ…。それにはMacintosh事業部の教育マーケティング担当マネージャーであるダニエル・ルーインが適材だと思いついたジョブズはすぐ彼に電話をする...。
面白いといっては不謹慎だが、これらの人々は皆現行のApple体制に大きな不満を持っていた。そんな背景もあってか、彼らと何回かの話し合いでスティーブ・ジョブズの発案、すなわち高等教育向けの新しいコンピュータ開発を目的に新会社を設立するというそのことに皆興奮し賛同したのだった。
彼・彼女らは現状のAppleにあきあきしていたし、新たに起こす企業が例え大きなリスクがあってもジョブズと一緒に働けることに魅力を感じる人たちだった。それにここはシリコンバレーであり、新事業に加わることこそ喜びだと皆が考えた…。ちなみにすぐMacintoshの初期アイコンやフォントをデザインしたスーザン・ケアもクリエイティヴ・ディレクターとして参画することになる。

※1985年9月30日付 NEWSWEEK誌より。Appleを辞めたジョブズと5人のスタッフたち
ただし問題はスティーブ・ジョブズがまだAppleの会長職にあることだった…。後にジョブズはAppleの会長職にありながらも就業中新しい会社設立のために時間を費やし、職を全うしていないという批難の的にもなったが、そもそもジョブズはAppleにとって不用な人物として閑職に追いやられたわけでそれは実におかしな批難でもあった。
9月初旬の取締役会でジョブズが辞意の意向を示し、新しい会社を設立するにあたり数人の社員を連れていくと報告した際、ジョン・スカリーらAppleの取締役たちは新しい会社がAppleと競合することがないのであれば投資する用意もあると答えたという。
ジョブズにも決めかねていたことがあった。それはジョージ、リッチ、スーザン、バッドそしてダニエルの5人がどのタイミングでAppleを離職するかだった。Apple側にパニックを感じさせないよう数週間にわたり皆がバラバラに辞めるべきという提案もあったがそれには反対意見も強かった。
バラバラに辞めていく方が、それがどこまで広がるのかという恐怖感をApple経営陣に与えるから…という理屈で結局ジョブズがジョン・スカリーに一緒に連れて行く人物の名をきちんと知らせるのが得策だという結論に至る。
しかし1985年9月13日の金曜日の朝に招集された取締役会で問題は勃発する。
ジョブズはAppleと競合しない新会社を設立するためにAppleを退社すると正式に宣言。その後のミーティングでスカリーは事務的な感じで次の5人がスティーブ・ジョブズと共に会社を辞めると5人の名を読み上げた。と同時に会議は怒りの渦と化し大混乱となった。
何故ならその5人はAppleのこれからにとっても重要な人物たちであり、ジョブズはAppleを破壊しようとしているのか…という怒りが会議に参加していたデル・ヨーカム、ジェイ・エリオットそしてジャン=ルイ・ガッセーたちに起こった。何よりも彼らが怒り心頭だったのはジョン・スカリーが楽観的でありことの重大さに気づいていない様子だったからだ。
そもそもスティーブ・ジョブズはAppleの全てを知っておりその技術を持ち去ることもできるだろうし、この後もどれだけAppleの技術者たちを引き抜くことを画策しているかも分からなかった。もしジョブズが本気になればAppleの本社ビルはガラガラになる可能性もあるのだ…。とデル・ヨーカムら経営幹部たちが考えたとしても無理はない。その危機感がどうやらジョン・スカリーにはなかったようである。
こうしたApple社内の混乱ぶりは当然のことメディアに大きく取り上げられることになる。
ジャーナリストたちはことの真相を知ろうと退職者も含めて知りうる限り手当たり次第に電話をかけまくった。しかし多くの人たちは沈黙を守ったこともあり推測だけが大きく膨らんでいく…。
噂が噂を呼び、スティーブ・ジョブズたちは新会社を作り、Appleがこれまで培ってきたユニークで高度な技術を盗むだけでなく優秀な人材を根こそぎ引き抜くに違いない…という話が蔓延していく。
その種の噂は新しい会社のスタートに暗い影を投げかけることにもなるし、ジョブズは誤解を糺そうと何人かの知り合いの記者たちに電話をした。
それらはニューヨーク・タイムズ、ウォールストリート・ジャーナル、ビジネスウィーク、USAトゥディそしてサンフランシスコ・クロニクルなどだった…。そして記者会見をするから翌日時間をずらしてウッドサイドにあるジョブズの自宅まで来るようにと伝えた。
ここでもジョブズは気持ちが先行し、記者たちに電話をかけた際には大切な記者会見をどう行うべきかについては考えていなかったことに気がつき、PR会社の専門家に急遽来てもらう。
結局その手配に手間取り、時間が大幅に経過したこともあって締切に追われるジャーナリストたちは1度に話を聞きたいと申し出たため全員がジョブズの自宅のリビングルームに通されることになった。
余談ながら記者たちはソファと椅子、大きなステレオ装置の他にはなにもないだだっ広い簡素な部屋に驚き、これがAppleの取締役会会長の自宅かと言い合ったという。ただし彼らはこのウッドサイドにあるスペイン植民地風の邸宅はベットルームが14もあり、面積は約16,000平方メートルもある大邸宅ということを忘れていたようだ(笑)。
記者たちの前に現れたスティーブ・ジョブズは自分に対して報道されているいくつかの事柄は公正ではないといい「公然と泥棒と呼ばれたからにはそれに応えなければならない」と口火を切った。


※ジョブズの自宅で行われた記者会見の様子を報道する1985年9月25日付けのニューヨーク・タイムズ紙(上)とサンフランシスコ・クロニクル紙(下)
「エデンの西」の著者フランク・ローズによればこのときのジョブズは魅力的で寛大、そして愛想がよかったと書いている。しかし前記したメディアらとは少し遅れてジョブズ宅に到着したというサンノゼ・マーキュリー・ニュース紙(1985年9月25日発行) の記事によればジョブズは疲れた様子で、その話しっぷりは単調、無表情だったと報道している。
ともあれ後にAppleが訴訟を起こしたことを受け、スティーブ・ジョブズはニューズウィークの記者に20億ドルの売上げと4300人の社員を抱える大企業(Apple)が、ジーンズを穿いた6人組と張り合えないなんてバカげている」という有名な台詞を残している…。

※同じくジョブズ邸における記者会見の様子を報道するサンノゼ・マーキュリー・ニュース紙(1985年9月25日発行)
ところでジョブズはアップルコンピュータの株式売却で得たうちから700万ドルを出資し設立する会社の名前をNext (後にNeXT)社と決めた。そしてジョブズがApple社への辞表を出す際にスーザンの勧めもあってマイク・マークラに直接手渡すことに決め、最後の話し合いに臨むことになった。ジョブズとしても辞表を出す相手として自身がヘッドハンティングしたスカリーに渡すなどということはやりたくなかったに違いない。
スーザンとバッドはジョブズを車に乗せてマイクの自宅まで向かうが「話し合いはきっかり15分にすべき」とこれまたスーザンの意見だった。
話が長引けばジョブズはまた余計なことを話して事をより混乱させるかも知れないし、万一にでも策に長けたマイクに丸め込まれ、辞表を出すことができなかったら一大事だと考えたのだろう…。
マイク・マークラの話は予想できたもので「1年だけ目立たないように待つ気はないか?」というその場しのぎの提案だった。
あっという間に15分は経過していたしジョブズはマイクの物言いに怒っていた。これまでにも彼は隅っこに追いやられた経験があったし2度とそんなことを繰り返す気はなかった。
そのときスーザンはマイク邸のドアを叩き挨拶もほどほどに「失礼する時間です!」と言いながらジョブズの腕を掴みマイク・マークラ邸を後にする。
交渉決裂となったマイクは行き掛かり上とはいえその日の夕方、声明を発表しAppleの取締役会はAppleの技術と資産の保全を確保するためいかなる可能な行動をとるべきか、検討を継続すると表明。
結局論争は互いの弁護士同士が扱う問題となったが1986年1月、奇しくもサンフランシスコで開催されたMacworld Expo 最終日のその日、AppleとNeXTは和解に合意する。ジョブズが6ヶ月間はAppleの社員を雇わないなどいくつかの条件をのんだことでAppleは裁判になる前にひっそりと告訴を取り下げた。事実これら一連のトラブルで得をした者は誰もいなかった。
Appleが訴訟を取り下げた背景としてはAppleの業績が好転したことも大きい。これでジョブズがいなくてもやっていけると得心したのだろうが、業績向上の要点は1985年早々にリリースしたレーザーライターを中核にしたMacintosh Officeシステムがページメーカーというページレイアウトソフトと共にDTP、すなわちデスクトップ・パブリッシング市場を形成し始めたことによる。

※1985年発行 Macintosh Officeカタログより抜粋
勿論これらの種を蒔き育ててきたのはスティーブ・ジョブズの力でありジョン・スカリーの功績ではなかった。したがってジョブズがもしマイク・マークラの勧めに従い1年だけシベリアのビルで目立たないように待っていたとすればジョブズの運命はもとより後のAppleは大きく変わっていたと思われる。
ともかくスティーブ・ジョブズの新しい会社、NeXT社はスタートした。ジョブズはNeXTで再び世界を変えようと考えたし、全力を尽くして最高のものを作ろうとする連帯感が皆に満ちあふれていた。
その日、NeXTの2階にあるジョブズのオフィスではAppleとの和解を祝おうとスタッフらがジョブズの到着を待っていた。
ジョブズが現れたとき皆は一斉に拍手しシャンペンを飲み、ジョブズの好きな寿司を注文して飛び跳ねていた。和解…NeXT社からいえば「Apple社訴訟取り下げ」のお祝いをしたかったのだ。何しろ新しいスタートに不確定要素の大きな裁判沙汰は暗い影を落とすからである。
しかし訴訟は取り下げられたがスティーブ・ジョブズの心の傷まで治ったわけではなかった。そして怒りが納まったわけでもなかった。なぜなら彼の新しいオフィスに置かれたデスクの上にはMacintoshが鎮座していたもののそのマシンの正面左下に本来あるべき6色のアップルロゴはジョブズの絶望と怒りを象徴するかのように外されたままだった…。
【主な参考資料】
・「エデンの西(下巻)」フランク・ローズ著/渡辺敏訳 サイマル出版会刊
・「アップルコンフィデンシャル」アスキー出版局刊
- 関連記事
-
- 今更のApple II plus幻想 (2013/11/06)
- スティーブ・ジョブズのダークな性格を再考する (2013/08/19)
- コモドール PETとシステムズフォーミュレート(SFC)社の記憶 (2013/08/12)
- DynaMacに見るMacの日本語化奮戦記 (2013/08/05)
- Apple日本上陸におけるキヤノン販売の英断を考察する (2013/07/22)
- スティーブ・ジョブズがNeXT社を創業するまでの経緯考察 (2013/06/13)
- スティーブ・ジョブズがAppleを辞職するに至る状況再考 (2013/06/03)
- Apple IIc の魅力とそのセールス秘話 (2013/05/27)
- スティーブ・ジョブズとは何者だったのだろうか? (2013/05/20)
- 1985年 クリスマス商戦におけるAppleの動向 (2013/04/15)
- ボストンコンピュータクラブがまとめたPSD再考 (2013/03/19)