ラテ飼育格闘日記_834
今年三月六日は早くもラテの一周忌。約一年前の様子を振り返っているが…。さて、首の腺腫の破裂はラテにとってかなり辛かったに違いない。痛かったのか、痒かったのか、あるいはうっとうしかったのかはわからないが、命が尽きる寸前だったことでもあり余計なアクシデントを抱えてしまったことになった。

そういえば散歩は相変わらずカートに乗せて公園に連れて行っていた。この頃はなんとか立って歩けるまでになっていたのでオムツをして出かけ、公園に着きカートから降ろすとオムツを取る。すると待ってましたとばかり排泄してくれるので後始末の後、またオムツをはかせるといった具合だ。
ただ大好きな公園だったにせよ広く歩き回ることはすでにできなかった…。
室内にいるときはそのほとんどは寝ていたが、気分が良いときは自力でオトーサンたちのいる場所へ様子を見に来たかのような笑顔で現れることもあった。

オトーサンたちはこの状態がいつまでも続くことを願ったが現実を考えると厳しい状態だった。医者からも老衰なので回復は見込めないと言われていたし…。
しかし2月(2022年)に入っても食事は自力で立ち上がり差し出した量を完食していたから、すぐにまた寝たきりになるとは思わなかったし、是非一日でも多くこの状態が続いてくれればよしとオトーサンたちは考えていた。

無論現実はオトーサンたちにも大きな負担がかかっていたことも事実だ。
いわゆる医療費は当然まとまった額になるわけだし、散歩に連れて行くにもオトーサンの腕力を必要とする場面も多く、オトーサンの右肩はすでにパンパンだった。

例え立つことができてもそれは散歩にはならない。オトーサンがラテを吊り上げるようにしつつ、時には少し引きずるようにもしながら少しずつ移動し始めるとラテは四つ脚を動かし始め、10数メートル先から戻るときには行きよりは足が動く…といった感じだった。
またカートにしても我々の住むマンションはいわゆるバリアフリーではないため、カートを道路まで運ぶには数段だとしても階段を経なければならかったりとそれなりに大変だったのである。そして左右の腰には床擦れもあり、これまた自由に寝返りを打つこともできなかったから深夜でも声を上げることの頻度も多く、すでにオトーサンたちは睡眠不足だった。
そうそう、首の傷だが単に出血だけならともかく、膿や血の塊と言った物まで傷口が大きくなると飛び出してくることになる。一度などは包帯を取り替える時、ラテがブルブルと首を振ったがため周りに血が飛び散って悲惨な事故現場みたいになったりもした。
なんとか周りを掃除しきれいにしてから医者に連れて行った。そこでは破裂した腺腫からの出血を止めるのではなく、悪い血なので出るものは出してしまおうと医者が2人がかりで絞り出すようにしてくれたが、これで大分膨らみが小さくなりラテも多少は楽になったに違いない。
動物病院の医者といえばラテ末期は随分とお世話になった。幸い極近所でもあり症状を訴えてこれから伺うと言うとときわざわざ迎えに来てくれてラテを抱いたまま病院へ連れて行ってくれたりもした。最初の点滴の際にも往診していただいたし、症状が思わしくないときには病院が休みの日にも対応してくれた。
思えばラテのお陰で沢山の方々と交流する機会を得たし、その中でもKファミリーの方々には今でも家族ぐるみのお付き合いをさせていただいている。ラテの存在なくしてはあり得ないことだ…。
そういえば先日、とある小学校に出向き6年生98名を前にして講義というか授業をしてきた。そのことについての詳細は別途「小学校で講義してきました!」という記事を載せたので興味のある方は覗いてみていただきたいが、そうしたことが実現したのもラテあってこそのワンコの縁だったのである。

ラテが公園デビューした2007年初頭から、ビーグル犬のハリーちゃんという活発なワンコがいたが、好き嫌いの激しいラテもハリーちゃんには心を許したようで仲良く駆けずり回るだけでなくペットボトルの小さな飲み口から落ちる水を一緒に飲むなど仲良くしていた。
そして必然的にハリーちゃんの飼い主さんのオカーサンとは会話する機会が増えたし、その小学生男子のお子さんは常に沢山のワンコに囲まれていた。

その男子が実はいま、小学校の教師をされていることは知っていたが先日電話をいただき子供たちへの講義の依頼をいただいたのだ。いわば、ラテが取り持つ嬉しいご縁がオトーサンをその小学校へと導いたのである。その際オトーサンの胸にはラテの遺骨の小さな破片が入っているペンダントがあったが、きっと…可愛がっていただいたO先生との再会を喜んでくれたに違いない。

そういえば散歩は相変わらずカートに乗せて公園に連れて行っていた。この頃はなんとか立って歩けるまでになっていたのでオムツをして出かけ、公園に着きカートから降ろすとオムツを取る。すると待ってましたとばかり排泄してくれるので後始末の後、またオムツをはかせるといった具合だ。
ただ大好きな公園だったにせよ広く歩き回ることはすでにできなかった…。
室内にいるときはそのほとんどは寝ていたが、気分が良いときは自力でオトーサンたちのいる場所へ様子を見に来たかのような笑顔で現れることもあった。

オトーサンたちはこの状態がいつまでも続くことを願ったが現実を考えると厳しい状態だった。医者からも老衰なので回復は見込めないと言われていたし…。
しかし2月(2022年)に入っても食事は自力で立ち上がり差し出した量を完食していたから、すぐにまた寝たきりになるとは思わなかったし、是非一日でも多くこの状態が続いてくれればよしとオトーサンたちは考えていた。

無論現実はオトーサンたちにも大きな負担がかかっていたことも事実だ。
いわゆる医療費は当然まとまった額になるわけだし、散歩に連れて行くにもオトーサンの腕力を必要とする場面も多く、オトーサンの右肩はすでにパンパンだった。

例え立つことができてもそれは散歩にはならない。オトーサンがラテを吊り上げるようにしつつ、時には少し引きずるようにもしながら少しずつ移動し始めるとラテは四つ脚を動かし始め、10数メートル先から戻るときには行きよりは足が動く…といった感じだった。
またカートにしても我々の住むマンションはいわゆるバリアフリーではないため、カートを道路まで運ぶには数段だとしても階段を経なければならかったりとそれなりに大変だったのである。そして左右の腰には床擦れもあり、これまた自由に寝返りを打つこともできなかったから深夜でも声を上げることの頻度も多く、すでにオトーサンたちは睡眠不足だった。
そうそう、首の傷だが単に出血だけならともかく、膿や血の塊と言った物まで傷口が大きくなると飛び出してくることになる。一度などは包帯を取り替える時、ラテがブルブルと首を振ったがため周りに血が飛び散って悲惨な事故現場みたいになったりもした。
なんとか周りを掃除しきれいにしてから医者に連れて行った。そこでは破裂した腺腫からの出血を止めるのではなく、悪い血なので出るものは出してしまおうと医者が2人がかりで絞り出すようにしてくれたが、これで大分膨らみが小さくなりラテも多少は楽になったに違いない。
動物病院の医者といえばラテ末期は随分とお世話になった。幸い極近所でもあり症状を訴えてこれから伺うと言うとときわざわざ迎えに来てくれてラテを抱いたまま病院へ連れて行ってくれたりもした。最初の点滴の際にも往診していただいたし、症状が思わしくないときには病院が休みの日にも対応してくれた。
思えばラテのお陰で沢山の方々と交流する機会を得たし、その中でもKファミリーの方々には今でも家族ぐるみのお付き合いをさせていただいている。ラテの存在なくしてはあり得ないことだ…。
そういえば先日、とある小学校に出向き6年生98名を前にして講義というか授業をしてきた。そのことについての詳細は別途「小学校で講義してきました!」という記事を載せたので興味のある方は覗いてみていただきたいが、そうしたことが実現したのもラテあってこそのワンコの縁だったのである。

ラテが公園デビューした2007年初頭から、ビーグル犬のハリーちゃんという活発なワンコがいたが、好き嫌いの激しいラテもハリーちゃんには心を許したようで仲良く駆けずり回るだけでなくペットボトルの小さな飲み口から落ちる水を一緒に飲むなど仲良くしていた。
そして必然的にハリーちゃんの飼い主さんのオカーサンとは会話する機会が増えたし、その小学生男子のお子さんは常に沢山のワンコに囲まれていた。

その男子が実はいま、小学校の教師をされていることは知っていたが先日電話をいただき子供たちへの講義の依頼をいただいたのだ。いわば、ラテが取り持つ嬉しいご縁がオトーサンをその小学校へと導いたのである。その際オトーサンの胸にはラテの遺骨の小さな破片が入っているペンダントがあったが、きっと…可愛がっていただいたO先生との再会を喜んでくれたに違いない。