飯沢耕太郎著「Photographers」(1996年刊)によせて
あらためて自分で納得できる写真を撮りたいとデジタル一眼レフカメラを手にして毎日を過ごしているが、以前に読んだ一冊が気になり、読み返してみた。それが飯沢耕太郎著「Photographers」である。約450ページに40人の写真家の眼差しとその生きざまを紹介した本書は、写真が好きな一人として大変気になる存在なのだ。
本書には、例えばロバート・フランク、タルボット、マーガレット・キャメロン、ナダールなど、名だたる海外の有名なそして歴史的な写真家をはじめ、福原信三、土門拳、篠山紀信、などなどこれまた著名な40人の写真家が紹介されている。そうした中で筆者は「写真家の普遍性」や「写真とはなにか」といった大変抽象的でとらえどころのない対象について、作品と彼らの生きざまを通して読み取ろうとしているように思える。

※飯沢耕太郎著 Photographers
私は最近、写真でもソフトウェアでもそして哲学でもいいのだが、自身の考えること、抱いたイメージの言語化が大変重要だと思え、意識的にそうしたことを考えようとしている。
少し前には養老孟司の「バカ」シリーズがベストセラーになり、「話しても理解し得ない」というひとつのテーマが論議をよんだ。私も「話し合えばすべて理解し合える」と考えるほど若くはないが(笑)、そもそも人は自身の思考を正確に言語化することができないからこそ誤解も多いと思うのだ。
まあ、人生の小難しいことはともかく、せめて対象が絞られた趣味や自分の好きな部類の事柄だけでも突き詰めたくてこんな一文を書いたり、多くの本を読んだりしている。
さて、話を写真に戻そう...。
飯沢耕太郎の著作はかなりの量を読んだつもりだが、その文章はそれまで漠然と気になっていた事柄に対して明確な言語化というか、文章で説明してくれる部分が多いので好きなのである。
「荒木!」(白水社)、「写真美術館へようこそ」(講談社現代新書)および本書「フォトグラファーズ」(作品社)などを通して感じたことは、私は飯沢が紹介する例えばアラーキーや土門拳のことを知りたいがために、それらのページをめくっているのではないことに気がつき始めている。
私はどうやら飯沢耕太郎という人物が、それらの対象にどのような印象を受け、どのように考えるかが知りたいがために、彼の著書を購入するのだ(^_^)。
そして大概の場合に私の期待は大きく裏切られることはなく、前記したようにこれまで自分のなかでもやもやしていた部分に明快な光を当ててくれることすらある。
例えば、すでに伝説の写真家となっている土門拳の写真が、私にはどうしても好きになれないでいる。超有名な写真家であり巨匠だからして、世の批評の大半は彼の写真を否定することはなく、そのアングルや絶対的といわれるフォーカスを土門だからこその創造力として高く評価する場合がほとんどだ。
私も仏像を見るのが好きで、京都や奈良には馴染みの女性ならぬ仏像が多々いる(笑)。それらの多くは当然、土門拳の仏像シリーズにも含まれているが、それらの写真は私の眼で実際に逢ってきた仏像たちと印象が大きく違うのだ。しかし、なぜ違うと感じるのか...なぜそれら土門の写真が好きでないのかがこれまではっきりとわからなかった。
あらためて「フォトグラファーズ」の土門拳の項を読み、そこに飯沢は高村光太郎の評を例にして、土門の写真に「ぶきみ」「何だか異常なもの」といった印象を明示している。さらに飯沢が、これまでの土門論に決定的に脱け落ちていたものこそ「ぶきみ」さと「異常」さについての考察だと明言している点には、生意気ながら膝を打つ思いをした。
私は土門の仏像写真に何か「異常」というか「ぶきみ」さを感じたからこそ、好きになれなかったことを飯沢の本書で再認識したように思えた。しかし本書で飯沢は、土門の仏像写真は強引な擬人化があり、仏像はほとんど土門自身の自画像と化しているからこその「異常」さ「ぶきみ」さであると記しているが、実は私にはその正反対に思えてならない.....。
私が仏像と対峙するとき、それは"ホトケ"としてより、どこかで血の通った生身の対象として、すでに擬人化しているように思える。だからこその親しみと憧れを感じることができるのかも知れない。
それは例えば憤怒の形相をしている不動明王のような仏像でも同じである。しかし土門のトリミングされ、寸分の隙のないピントが合った仏像写真の多くからは、私が仏像から感じる...感じたいと思っている「生」が感じられない。反対にそれらは木材であり、あるいは鋳造でできたモノであることを強調してしまっているように思えるのだ。そのギャップが私に「好きになれない」と感じさせる大きな理由であることを本書は気付かせてくれた。
写真のことをもっと知りたい、多くの写真家のことを知りたいと思って本書「フォトグラファーズ」を手にしたと思っていたが、何のことはない。私は飯沢耕太郎の追っかけをやっているに過ぎなかったようだ(^_^)。そして写真は私にとって「言語をイメージ化するためのひとつのプロセス...アプローチ」であるように思えてくる。
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「Photographers 〜 フォトグラファーズ」 〜写真家40人の眼差しと生〜
1996年4月25日 初版第一刷発行
著者:飯沢 耕太郎
発行:株式会社作品社
書籍コード:ISBN4-87893-250-3 C0072
定価:3,500円
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本書には、例えばロバート・フランク、タルボット、マーガレット・キャメロン、ナダールなど、名だたる海外の有名なそして歴史的な写真家をはじめ、福原信三、土門拳、篠山紀信、などなどこれまた著名な40人の写真家が紹介されている。そうした中で筆者は「写真家の普遍性」や「写真とはなにか」といった大変抽象的でとらえどころのない対象について、作品と彼らの生きざまを通して読み取ろうとしているように思える。

※飯沢耕太郎著 Photographers
私は最近、写真でもソフトウェアでもそして哲学でもいいのだが、自身の考えること、抱いたイメージの言語化が大変重要だと思え、意識的にそうしたことを考えようとしている。
少し前には養老孟司の「バカ」シリーズがベストセラーになり、「話しても理解し得ない」というひとつのテーマが論議をよんだ。私も「話し合えばすべて理解し合える」と考えるほど若くはないが(笑)、そもそも人は自身の思考を正確に言語化することができないからこそ誤解も多いと思うのだ。
まあ、人生の小難しいことはともかく、せめて対象が絞られた趣味や自分の好きな部類の事柄だけでも突き詰めたくてこんな一文を書いたり、多くの本を読んだりしている。
さて、話を写真に戻そう...。
飯沢耕太郎の著作はかなりの量を読んだつもりだが、その文章はそれまで漠然と気になっていた事柄に対して明確な言語化というか、文章で説明してくれる部分が多いので好きなのである。
「荒木!」(白水社)、「写真美術館へようこそ」(講談社現代新書)および本書「フォトグラファーズ」(作品社)などを通して感じたことは、私は飯沢が紹介する例えばアラーキーや土門拳のことを知りたいがために、それらのページをめくっているのではないことに気がつき始めている。
私はどうやら飯沢耕太郎という人物が、それらの対象にどのような印象を受け、どのように考えるかが知りたいがために、彼の著書を購入するのだ(^_^)。
そして大概の場合に私の期待は大きく裏切られることはなく、前記したようにこれまで自分のなかでもやもやしていた部分に明快な光を当ててくれることすらある。
例えば、すでに伝説の写真家となっている土門拳の写真が、私にはどうしても好きになれないでいる。超有名な写真家であり巨匠だからして、世の批評の大半は彼の写真を否定することはなく、そのアングルや絶対的といわれるフォーカスを土門だからこその創造力として高く評価する場合がほとんどだ。
私も仏像を見るのが好きで、京都や奈良には馴染みの女性ならぬ仏像が多々いる(笑)。それらの多くは当然、土門拳の仏像シリーズにも含まれているが、それらの写真は私の眼で実際に逢ってきた仏像たちと印象が大きく違うのだ。しかし、なぜ違うと感じるのか...なぜそれら土門の写真が好きでないのかがこれまではっきりとわからなかった。
あらためて「フォトグラファーズ」の土門拳の項を読み、そこに飯沢は高村光太郎の評を例にして、土門の写真に「ぶきみ」「何だか異常なもの」といった印象を明示している。さらに飯沢が、これまでの土門論に決定的に脱け落ちていたものこそ「ぶきみ」さと「異常」さについての考察だと明言している点には、生意気ながら膝を打つ思いをした。
私は土門の仏像写真に何か「異常」というか「ぶきみ」さを感じたからこそ、好きになれなかったことを飯沢の本書で再認識したように思えた。しかし本書で飯沢は、土門の仏像写真は強引な擬人化があり、仏像はほとんど土門自身の自画像と化しているからこその「異常」さ「ぶきみ」さであると記しているが、実は私にはその正反対に思えてならない.....。
私が仏像と対峙するとき、それは"ホトケ"としてより、どこかで血の通った生身の対象として、すでに擬人化しているように思える。だからこその親しみと憧れを感じることができるのかも知れない。
それは例えば憤怒の形相をしている不動明王のような仏像でも同じである。しかし土門のトリミングされ、寸分の隙のないピントが合った仏像写真の多くからは、私が仏像から感じる...感じたいと思っている「生」が感じられない。反対にそれらは木材であり、あるいは鋳造でできたモノであることを強調してしまっているように思えるのだ。そのギャップが私に「好きになれない」と感じさせる大きな理由であることを本書は気付かせてくれた。
写真のことをもっと知りたい、多くの写真家のことを知りたいと思って本書「フォトグラファーズ」を手にしたと思っていたが、何のことはない。私は飯沢耕太郎の追っかけをやっているに過ぎなかったようだ(^_^)。そして写真は私にとって「言語をイメージ化するためのひとつのプロセス...アプローチ」であるように思えてくる。
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「Photographers 〜 フォトグラファーズ」 〜写真家40人の眼差しと生〜
1996年4月25日 初版第一刷発行
著者:飯沢 耕太郎
発行:株式会社作品社
書籍コード:ISBN4-87893-250-3 C0072
定価:3,500円
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