文庫本「アンナ・マグダレーナ・バッハ〜バッハの思い出」読了
本書は音楽の父とよばれ、その後多くの音楽家に多大な影響を与えただけでなく現代においてもその芸術性の評価は揺るぎないものとなっているヨハン・セバスティアン・バッハ、その波乱に満ちた65年の生涯を2度目の妻であるアンナ・マグダレーナの筆という形で紹介された一冊である。しかし一番の疑問は果たして本書はアンナ・マグダレーナ自身が本当に書いたものか…という点だ。
日本では最近までアンナ・マグダレーナの真筆だと信じて読まれてきた傾向があるものの、残念ながら本書は20世紀にイギリスの女流作家エスター・メイネルが書いたものであり、フィクション…小説なのだ。とはいえ「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」の著者である国立音楽大学教授:礒山雅氏は映画「アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記」のDVDリーフレットで本書を “偽書” と切り捨てている。
ただし、そもそも1925年に出版された原著「The Little Chronicle of Magdalena Bach」では偽書を意図したわけではなく同年米ガーデンシティーで出版された版には著者名が明記されていたそうだ。しかしドイツ語に翻訳した出版社が販売戦略として故意に筆者名を明らかにしなかったのが事の始まりのようだが、ドイツの読者にとって本書がフィクション…小説であることは自明の理だったらしい。しかしドイツ語版から日本語に翻訳したとき日本の出版関係者がそうした背景に疎く、明確にできなかったのが混乱の原因のようだ。

※講談社学術文庫刊「アンナ・マグダレーナ・バッハ〜バッハの思い出」(山下肇訳)表紙
私が今般手にした文庫本(講談社学術文庫刊)は2010年12月に第13刷として発行されたものだが、1997年7月付けの訳者後書きではいまだに「本書がマグダレーナの真筆ではないという見解が有力視されるようになっているが、だからといって、本書の声価は少しも失われていない」と書かれており後味が悪い(笑)。すでに「真筆ではないという見解が有力視」ではなく「真筆ではない」と結論が出ている訳だし、訳者があれこれと言い張る意味はない。そうした態度こそ一般読者にいらぬ誤解を招くことになる…。
本書自体も読者が後書きを読まなければアンナ・マグダレーナの真筆として記憶に留めてしまう危険性は大きいではないか。
1人のバッハ好きとしては確かにアンナ・マグダレーナの真筆であるかどうかは本書の評価に著しく影響すると思うが、それはあくまで読者に委ねるべき問題であり、失礼ながら翻訳者および出版社側としてはできる限り正確な情報を読者に伝える義務があろうと思う。
同じく後書きで、訳者は「しかし、音楽に関しては一介のアマチュアにすぎぬ私としては、この疑念の追求詮索は専門研究者の手に委ねるとして…」としながらも「バッハの人間像の忠実な再現、資料としての正確さなど、その価値をいささかも減じているとは思われない」と言い切っている。
だとすれば… 謙遜であっても(訳者はドイツ文学者であり東京大学教養学部名誉教授)…“一介のアマチュアの立場” で「人間像の忠実な再現」とか「資料としての正確さ」と言い切るのは矛盾であろう(笑)。ただし訳者山下肇氏は2008年10月に鬼籍に入ってしまった…。
確かにバッハ研究が進んだ現在の視点から本書の内容を詮索すれば事実と違う点が多々出でくるに違いないものの、名曲の背後に隠された人間バッハの苦悩と喜び…それも最愛の妻だったというアンナ・マグダレーナの視点から語られるその生涯に大きな違和感は感じない。
反対に家庭を愛し、妻と子供たちを愛した1人の音楽家の日常が例えフィクションだとしても垣間見られて楽しい…。
アンナ・マグダレーナとの結婚の経緯、子供たちや職務への接し方、そしてなによりも大切だと考えたバッハの音楽への姿勢が分かりやすく語られており、本書は確かにバッハという些か取っつきにくい天才音楽家に触れる良いきっかけになるのではないか。
私が特に印象深いと感じたのはバッハがアンナ・マグダレーナのため...後に「アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集」として知られることになる楽譜帳を渡すシーンだ。ちなみにこの楽譜帳は2巻あり、1巻は1722年の日付、2巻は1725年と記されていたというが一巻のほとんどは四散してしまったという。
内容はほとんどがバッハの子供たちの教育用に書かれた曲だが、1巻にはフランス組曲などが、2巻にはパルティータの第3番、第6番のほかクープラン等の曲がバッハによって編集されている。またアンナ・マグダレーナ自身が折にふれ書き込んだ譜も多いという。
特に1725年版の楽譜帳の表紙は黄緑色に金の縁取りがなされたサイズが縦 19.5cm 横 25.0cmほどのハードカバーだが、金文字で"AMB"と"1725" が型押しされ、さらに緑の手書き文字が息子のカール・フィリップ・エマニュエルにより加えられているという(西ベルリン国立図書館所蔵)。
この楽譜帳の存在だけでもバッハの、妻アンナへの愛情が伺えて微笑ましい。事実バッハの死後、貧民として生涯を送ったアンナ・マグダレーナ・バッハだったがこの楽譜帳だけは手放さなかったと言われている。
それにアンナ・マグダレーナはバッハの筆写譜の作成に多々協力したと伝えられ、そのためアンナ・マグダレーナの筆跡は、時を経るにつれて、夫のバッハの筆と間違えられるまでになった。
さて本書は私などが読んでも首を傾げる点もある。例えば本書の中でバッハの遺品として、いろいろな楽器が記されているが、中に1台のギターがあったとアンナ・マグダレーナは書いている。しかし現在知られている情報ではおそらくリュートのことを言っているのかと思うが、声楽家でもあったアンナ・マグダレーナだからして当時良く知られていたリュートをギターと間違えるのも可笑しいのだが…(笑)。こうした疑問点は機会を得て原書を確認したいと思っている。
ともあれ本書は人間バッハに触れるには良い読み物に違いないと思うし個人的には大変面白かった。
ただし現実はなんと悲しくも厳しいものなのか…。当のアンナ・マグダレーナ・バッハは夫バッハの死後10年間生き、バッハの供養を続けたもののどうしたことか子供たちからの経済的な助けもないままライプツィヒ市当局等からの支援、寄付等により慎ましく余生を送りその生涯を閉じたという。
なおアンナ・マグダレーナ・バッハという仮名表記だが、先にご紹介した映画「アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記」では “マクダレーナ” となっていたが、本編は書籍の表記に従い “マグダレーナ” で統一したので念のため。
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「アンナ・マグダレーナ・バッハ バッハの思い出
」
1997年9月10日 第1刷発行
2010年12月20日 第13刷発行
著者:アンナ・マグダレーナ・バッハ (Anna Magdalena Bach) ※奥付に記してある
訳者:山下 肇
発行所:株式会社講談社
コード:ISBN4-06-159297-1 C0173
価 格:1,000円(税別)
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日本では最近までアンナ・マグダレーナの真筆だと信じて読まれてきた傾向があるものの、残念ながら本書は20世紀にイギリスの女流作家エスター・メイネルが書いたものであり、フィクション…小説なのだ。とはいえ「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」の著者である国立音楽大学教授:礒山雅氏は映画「アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記」のDVDリーフレットで本書を “偽書” と切り捨てている。
ただし、そもそも1925年に出版された原著「The Little Chronicle of Magdalena Bach」では偽書を意図したわけではなく同年米ガーデンシティーで出版された版には著者名が明記されていたそうだ。しかしドイツ語に翻訳した出版社が販売戦略として故意に筆者名を明らかにしなかったのが事の始まりのようだが、ドイツの読者にとって本書がフィクション…小説であることは自明の理だったらしい。しかしドイツ語版から日本語に翻訳したとき日本の出版関係者がそうした背景に疎く、明確にできなかったのが混乱の原因のようだ。

※講談社学術文庫刊「アンナ・マグダレーナ・バッハ〜バッハの思い出」(山下肇訳)表紙
私が今般手にした文庫本(講談社学術文庫刊)は2010年12月に第13刷として発行されたものだが、1997年7月付けの訳者後書きではいまだに「本書がマグダレーナの真筆ではないという見解が有力視されるようになっているが、だからといって、本書の声価は少しも失われていない」と書かれており後味が悪い(笑)。すでに「真筆ではないという見解が有力視」ではなく「真筆ではない」と結論が出ている訳だし、訳者があれこれと言い張る意味はない。そうした態度こそ一般読者にいらぬ誤解を招くことになる…。
本書自体も読者が後書きを読まなければアンナ・マグダレーナの真筆として記憶に留めてしまう危険性は大きいではないか。
1人のバッハ好きとしては確かにアンナ・マグダレーナの真筆であるかどうかは本書の評価に著しく影響すると思うが、それはあくまで読者に委ねるべき問題であり、失礼ながら翻訳者および出版社側としてはできる限り正確な情報を読者に伝える義務があろうと思う。
同じく後書きで、訳者は「しかし、音楽に関しては一介のアマチュアにすぎぬ私としては、この疑念の追求詮索は専門研究者の手に委ねるとして…」としながらも「バッハの人間像の忠実な再現、資料としての正確さなど、その価値をいささかも減じているとは思われない」と言い切っている。
だとすれば… 謙遜であっても(訳者はドイツ文学者であり東京大学教養学部名誉教授)…“一介のアマチュアの立場” で「人間像の忠実な再現」とか「資料としての正確さ」と言い切るのは矛盾であろう(笑)。ただし訳者山下肇氏は2008年10月に鬼籍に入ってしまった…。
確かにバッハ研究が進んだ現在の視点から本書の内容を詮索すれば事実と違う点が多々出でくるに違いないものの、名曲の背後に隠された人間バッハの苦悩と喜び…それも最愛の妻だったというアンナ・マグダレーナの視点から語られるその生涯に大きな違和感は感じない。
反対に家庭を愛し、妻と子供たちを愛した1人の音楽家の日常が例えフィクションだとしても垣間見られて楽しい…。
アンナ・マグダレーナとの結婚の経緯、子供たちや職務への接し方、そしてなによりも大切だと考えたバッハの音楽への姿勢が分かりやすく語られており、本書は確かにバッハという些か取っつきにくい天才音楽家に触れる良いきっかけになるのではないか。
私が特に印象深いと感じたのはバッハがアンナ・マグダレーナのため...後に「アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集」として知られることになる楽譜帳を渡すシーンだ。ちなみにこの楽譜帳は2巻あり、1巻は1722年の日付、2巻は1725年と記されていたというが一巻のほとんどは四散してしまったという。
内容はほとんどがバッハの子供たちの教育用に書かれた曲だが、1巻にはフランス組曲などが、2巻にはパルティータの第3番、第6番のほかクープラン等の曲がバッハによって編集されている。またアンナ・マグダレーナ自身が折にふれ書き込んだ譜も多いという。
特に1725年版の楽譜帳の表紙は黄緑色に金の縁取りがなされたサイズが縦 19.5cm 横 25.0cmほどのハードカバーだが、金文字で"AMB"と"1725" が型押しされ、さらに緑の手書き文字が息子のカール・フィリップ・エマニュエルにより加えられているという(西ベルリン国立図書館所蔵)。
この楽譜帳の存在だけでもバッハの、妻アンナへの愛情が伺えて微笑ましい。事実バッハの死後、貧民として生涯を送ったアンナ・マグダレーナ・バッハだったがこの楽譜帳だけは手放さなかったと言われている。
それにアンナ・マグダレーナはバッハの筆写譜の作成に多々協力したと伝えられ、そのためアンナ・マグダレーナの筆跡は、時を経るにつれて、夫のバッハの筆と間違えられるまでになった。
さて本書は私などが読んでも首を傾げる点もある。例えば本書の中でバッハの遺品として、いろいろな楽器が記されているが、中に1台のギターがあったとアンナ・マグダレーナは書いている。しかし現在知られている情報ではおそらくリュートのことを言っているのかと思うが、声楽家でもあったアンナ・マグダレーナだからして当時良く知られていたリュートをギターと間違えるのも可笑しいのだが…(笑)。こうした疑問点は機会を得て原書を確認したいと思っている。
ともあれ本書は人間バッハに触れるには良い読み物に違いないと思うし個人的には大変面白かった。
ただし現実はなんと悲しくも厳しいものなのか…。当のアンナ・マグダレーナ・バッハは夫バッハの死後10年間生き、バッハの供養を続けたもののどうしたことか子供たちからの経済的な助けもないままライプツィヒ市当局等からの支援、寄付等により慎ましく余生を送りその生涯を閉じたという。
なおアンナ・マグダレーナ・バッハという仮名表記だが、先にご紹介した映画「アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記」では “マクダレーナ” となっていたが、本編は書籍の表記に従い “マグダレーナ” で統一したので念のため。
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「アンナ・マグダレーナ・バッハ バッハの思い出
1997年9月10日 第1刷発行
2010年12月20日 第13刷発行
著者:アンナ・マグダレーナ・バッハ (Anna Magdalena Bach) ※奥付に記してある
訳者:山下 肇
発行所:株式会社講談社
コード:ISBN4-06-159297-1 C0173
価 格:1,000円(税別)
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