「良い上司に恵まれなかった...」衝撃の物語~その2
知人たちと雑談の中で話題となった理想の上司像だが、私には「上司コンプレックス」みたいなものがある。何故ならサラリーマン時代に出会った2人の上司が2人ともクセモノだったからだ。物語は前回の続きである。
さて、実は貿易商社に入社したこの1977年に私は結婚する約束をしていたが、前編で記したように元上司と決別したため、数ヶ月プータローに甘んじていた。したがって彼女(現女房)の両親にはひどく心配をかけたらしい。
女房は彼女の父(すでに亡くなったが)と結婚式の前日まで...明日バージンロードを腕を組んで歩く...歩かないと口げんかをしていたという...。
ともかく社長ひとりしかいない超マイクロ企業とはいえ就職できた私は最大限努力するしかなかった。したがって大の苦手だったはずの英文による貿易実務と英文タイプライターの習得に血眼になった...。
しかしそのおかげで後に巡り会ったパソコンキーボードの入力もいまだにそのスピードは速い。
幸いなことに約束通り1977年11月20日には社長に仲人をお願いし、青学会館にてささやかな結婚式を挙げることができた。
社長と私だけという会社は数年後には5人ほどになっていたが、私は日々の貿易業務の傍ら輸出許可申請のための役所や商工会議所通いはもとより、運輸会社や乙仲(通関ならびに通関手続きを代行する業者)、銀行の外為係、倉庫会社などとの折衝をも任された。
それだけでなく日常の金の出し入れから決算業務に至るまでをも任され、会社はおろか社長個人の実印までをも託されるというプレッシャーの大きい立場となった。
さらに新しい人材の募集から面接、そして採用にいたるまでをも私がやった。小さな会社だったから他に人はいなかったわけだが、それにしてもこの会社にいた約12年間は私にとってこれまた多くのことを学ぶことができた密度の濃い時代となった。
その後おかしな事に当時の事務所が少々広かったこともあって社長の先輩格という人物が半分のスペースを使うことになった。そして何と...その会社の経理をも任される身とになり、私は公に2つの会社から給料と賞与をいただける立場になった。
懐は確かに暖かくなったものの、私は両社長との板挟みで気苦労が多い毎日が続いたが、まあ...それも両社長が喧嘩別れするまでの短い間だったのだが...(笑)。
したがって2つ目の会社からの報酬は自身あぶく銭だと認識していたから、そのほとんどをApple IIやMacintoshならびにその周辺機器やソフトウェア購入に当て、きれい事を申し上げるなら未来の自分に投資することにした。だから、後年雑誌に書かれたように日本一かはともかく、小さなマンションを買える額ほど多額の投資をしたのは事実である。
そうそう、その投資が成功したのか失敗したのかについてはまだ結論が出ていないのだが(笑)。

※貿易会社勤務時代(1985年)の数少ない写真。筆者の脇には自身で持ち込んだNEC PC-100とプリンタがある
ところが1986年から1988年頃になると為替差損も大きく、貿易会社の業績が思わしくなくなった反面、私がまったくの個人的な趣味からはじめたパーソナルコンピュータに関わる仕事が徐々に多くなってきた。
いま思えば幼稚なものだが、プレゼン用のアニメーション制作依頼や書籍の執筆依頼が多々舞い込んできたのである。
それらの中で特筆すべきはジャストシステム社の「花子」がリリースされるのに合わせて技術評論社から出版した単行本が3ヶ月間ベストセラーを続け、会社に一千万円を超える印税をもたらしたことだろう。
ともかく停滞気味の貿易会社勤務は冷静に考えるまでもなく後が見えていたので仕事を変えようという思いが強くなってきた。
折しもコンピュータ雑誌の編集長から紹介を受けた大手広告代理店より一年間はそれに没頭できる規模のソフトウェア開発ならびにコンサルティングの依頼をいただいた。
結局起業を決意し1988年秋には貿易会社を退職し翌年1989年3月に(株)コーシングラフィックシステムズは船出をしたのであった。そして新宿の曙橋に小さなマンションを借り仕事を始めたわけだが、1989年の秋口だっただろうか、これまた驚愕の事件に巻き込まれ直接間接的にも大きな影響を受けることになる。

※貿易会社の応接室に導入したMacintosh SEと最初のApple LaserWriter(1988年撮影)
それは以前勤務していた貿易商社の社長が事務所をロックアウトの上で失踪したというのだ!
その朝普段どおりに出勤した社員らは会社に入れず会社はそのまま事実上なくなった...。しかし問題はそのことではない。
いわゆる債権者らの情報を総合してみると社長は考えうる取引関係者すべてから多額の借金をし、それらを踏み倒したまま行方をくらましたのだ。そして奥さんとはすでに離婚までしていたという。
中にはゴルフ会員権を売却して貸した者や有名な乳業メーカーを退職したその退職金をそのまま貸したままになった人もいた。そして保証人になったばかりに苦慮することになった同業の社長もいた...。
後で分かったことだが社長は出入の会計事務所の先生にまで借金をしたままだったし、他人事ではなく私自身も成り行きで仕方なく在職中に社長個人に貸した額もそのままとなった。
いまでも手元に社長直筆の借用書があるが、残念ながらすでに時効が成立している。そしていまだに彼の所在は明らかになっていない...。
なぜ信頼して多額の資金援助をしてくれた人たちをまるまる裏切るようなそんな悪に徹することができる人間になってしまったのか...。
いわゆる取り立てが厳しい街金への返済を優先させるために、それまでの支援者たちを利用し裏切るはめになったらしい。そしてどうやらもともとの原因は女とギャンブルだったというが...。ともかく金が人を変えるという恐ろしい現実をこの眼で見た。
その後たまたま彼の生まれ故郷へ仕事に行った際もどこかで顔を合わせるのではないかと思わず周りを見回してしまうこともあったが、これまで手紙や電話はおろか一度も会うこともできていない。生きているのか死んでいるのかさえも分からない...。
こうして私が出会った2人の上司は人として絶対にやってはいけないことをやり、自身の人生をめちゃめちゃにしたばかりか家族や関係者の多くにも多大な迷惑をかけ、彼らの人生をも狂わせてしまった憎むべき輩である。
しかしそこに至るまでの彼らは決して悪人であったわけではないように思う...。
別にかばうつもりはないが、ひとりの男として父親として、そして社会人として生活する中で最初から悪事の限りを画策し、人を欺こうとして生きてきたわけではないと思う。
それがいつの日か、自分の弱さに負けてしまいついには確信犯として大切な人たちを裏切ったり悲しませる行動をとった...。
私自身もこの歳になるまで苦労もなく生きてきたわけではないし、泥水も飲まされたし裏切りや失望といった憂き目も体験する中で絶望感にとらわれたこともあった。そして例えば金銭が人生を変えていくだけでなく人間そのものを変えてしまう怖さも幾度となく目にしてきた。
だから...きれい事になるが、私が起業した際にはその小さな会社の経営に際して、こうした上司らを反面教師として努力をしたつもりだった。
例えば代表取締役だとしても会社の金は社長個人の金ではないという意識で徹底した経営をした。そうした潔白感が度を超したのか、会計事務所の先生から「そこまでしなくても...」と言われるほどだった。そして税金は節税すべきだとしても脱税は絶対にしない...などなどに注意を向けた。
したがって会計事務所の先生からは「珍しくクリーンな企業だ」と言われていたものである。
というわけで、私はいまだにこの歳になっても理想の「上司像」に飢えているのである。
理想の上司の指揮の下で十分に力を出し切って働きたいと考えてきたが、その後自身が代表取締役という立場になってしまった。
社員たちから後ろ指を指されないようにとの気持ちで毎日を過ごしたつもりだが、果たして彼ら彼女から見た私はどんな上司だったのだろうか(笑)。
無論自身にとっての上司は年齢とは関係ないし、今後...もしかしたら...その理想の上司に巡り会えるかも知れない(笑)。
しかし不思議なことにこのどうしようもない2人の上司がいなければ、自身が起業することもなかったかも知れないし、第一女房と巡り会ってはいないはずだ...。
ともあれ「人間万事塞翁が馬」とはよくいったものだが、この歳になって初めてその真意を体験できたような気がする。
くどいようだが...理想の上司募集中である(爆)。
さて、実は貿易商社に入社したこの1977年に私は結婚する約束をしていたが、前編で記したように元上司と決別したため、数ヶ月プータローに甘んじていた。したがって彼女(現女房)の両親にはひどく心配をかけたらしい。
女房は彼女の父(すでに亡くなったが)と結婚式の前日まで...明日バージンロードを腕を組んで歩く...歩かないと口げんかをしていたという...。
ともかく社長ひとりしかいない超マイクロ企業とはいえ就職できた私は最大限努力するしかなかった。したがって大の苦手だったはずの英文による貿易実務と英文タイプライターの習得に血眼になった...。
しかしそのおかげで後に巡り会ったパソコンキーボードの入力もいまだにそのスピードは速い。
幸いなことに約束通り1977年11月20日には社長に仲人をお願いし、青学会館にてささやかな結婚式を挙げることができた。
社長と私だけという会社は数年後には5人ほどになっていたが、私は日々の貿易業務の傍ら輸出許可申請のための役所や商工会議所通いはもとより、運輸会社や乙仲(通関ならびに通関手続きを代行する業者)、銀行の外為係、倉庫会社などとの折衝をも任された。
それだけでなく日常の金の出し入れから決算業務に至るまでをも任され、会社はおろか社長個人の実印までをも託されるというプレッシャーの大きい立場となった。
さらに新しい人材の募集から面接、そして採用にいたるまでをも私がやった。小さな会社だったから他に人はいなかったわけだが、それにしてもこの会社にいた約12年間は私にとってこれまた多くのことを学ぶことができた密度の濃い時代となった。
その後おかしな事に当時の事務所が少々広かったこともあって社長の先輩格という人物が半分のスペースを使うことになった。そして何と...その会社の経理をも任される身とになり、私は公に2つの会社から給料と賞与をいただける立場になった。
懐は確かに暖かくなったものの、私は両社長との板挟みで気苦労が多い毎日が続いたが、まあ...それも両社長が喧嘩別れするまでの短い間だったのだが...(笑)。
したがって2つ目の会社からの報酬は自身あぶく銭だと認識していたから、そのほとんどをApple IIやMacintoshならびにその周辺機器やソフトウェア購入に当て、きれい事を申し上げるなら未来の自分に投資することにした。だから、後年雑誌に書かれたように日本一かはともかく、小さなマンションを買える額ほど多額の投資をしたのは事実である。
そうそう、その投資が成功したのか失敗したのかについてはまだ結論が出ていないのだが(笑)。

※貿易会社勤務時代(1985年)の数少ない写真。筆者の脇には自身で持ち込んだNEC PC-100とプリンタがある
ところが1986年から1988年頃になると為替差損も大きく、貿易会社の業績が思わしくなくなった反面、私がまったくの個人的な趣味からはじめたパーソナルコンピュータに関わる仕事が徐々に多くなってきた。
いま思えば幼稚なものだが、プレゼン用のアニメーション制作依頼や書籍の執筆依頼が多々舞い込んできたのである。
それらの中で特筆すべきはジャストシステム社の「花子」がリリースされるのに合わせて技術評論社から出版した単行本が3ヶ月間ベストセラーを続け、会社に一千万円を超える印税をもたらしたことだろう。
ともかく停滞気味の貿易会社勤務は冷静に考えるまでもなく後が見えていたので仕事を変えようという思いが強くなってきた。
折しもコンピュータ雑誌の編集長から紹介を受けた大手広告代理店より一年間はそれに没頭できる規模のソフトウェア開発ならびにコンサルティングの依頼をいただいた。
結局起業を決意し1988年秋には貿易会社を退職し翌年1989年3月に(株)コーシングラフィックシステムズは船出をしたのであった。そして新宿の曙橋に小さなマンションを借り仕事を始めたわけだが、1989年の秋口だっただろうか、これまた驚愕の事件に巻き込まれ直接間接的にも大きな影響を受けることになる。

※貿易会社の応接室に導入したMacintosh SEと最初のApple LaserWriter(1988年撮影)
それは以前勤務していた貿易商社の社長が事務所をロックアウトの上で失踪したというのだ!
その朝普段どおりに出勤した社員らは会社に入れず会社はそのまま事実上なくなった...。しかし問題はそのことではない。
いわゆる債権者らの情報を総合してみると社長は考えうる取引関係者すべてから多額の借金をし、それらを踏み倒したまま行方をくらましたのだ。そして奥さんとはすでに離婚までしていたという。
中にはゴルフ会員権を売却して貸した者や有名な乳業メーカーを退職したその退職金をそのまま貸したままになった人もいた。そして保証人になったばかりに苦慮することになった同業の社長もいた...。
後で分かったことだが社長は出入の会計事務所の先生にまで借金をしたままだったし、他人事ではなく私自身も成り行きで仕方なく在職中に社長個人に貸した額もそのままとなった。
いまでも手元に社長直筆の借用書があるが、残念ながらすでに時効が成立している。そしていまだに彼の所在は明らかになっていない...。
なぜ信頼して多額の資金援助をしてくれた人たちをまるまる裏切るようなそんな悪に徹することができる人間になってしまったのか...。
いわゆる取り立てが厳しい街金への返済を優先させるために、それまでの支援者たちを利用し裏切るはめになったらしい。そしてどうやらもともとの原因は女とギャンブルだったというが...。ともかく金が人を変えるという恐ろしい現実をこの眼で見た。
その後たまたま彼の生まれ故郷へ仕事に行った際もどこかで顔を合わせるのではないかと思わず周りを見回してしまうこともあったが、これまで手紙や電話はおろか一度も会うこともできていない。生きているのか死んでいるのかさえも分からない...。
こうして私が出会った2人の上司は人として絶対にやってはいけないことをやり、自身の人生をめちゃめちゃにしたばかりか家族や関係者の多くにも多大な迷惑をかけ、彼らの人生をも狂わせてしまった憎むべき輩である。
しかしそこに至るまでの彼らは決して悪人であったわけではないように思う...。
別にかばうつもりはないが、ひとりの男として父親として、そして社会人として生活する中で最初から悪事の限りを画策し、人を欺こうとして生きてきたわけではないと思う。
それがいつの日か、自分の弱さに負けてしまいついには確信犯として大切な人たちを裏切ったり悲しませる行動をとった...。
私自身もこの歳になるまで苦労もなく生きてきたわけではないし、泥水も飲まされたし裏切りや失望といった憂き目も体験する中で絶望感にとらわれたこともあった。そして例えば金銭が人生を変えていくだけでなく人間そのものを変えてしまう怖さも幾度となく目にしてきた。
だから...きれい事になるが、私が起業した際にはその小さな会社の経営に際して、こうした上司らを反面教師として努力をしたつもりだった。
例えば代表取締役だとしても会社の金は社長個人の金ではないという意識で徹底した経営をした。そうした潔白感が度を超したのか、会計事務所の先生から「そこまでしなくても...」と言われるほどだった。そして税金は節税すべきだとしても脱税は絶対にしない...などなどに注意を向けた。
したがって会計事務所の先生からは「珍しくクリーンな企業だ」と言われていたものである。
というわけで、私はいまだにこの歳になっても理想の「上司像」に飢えているのである。
理想の上司の指揮の下で十分に力を出し切って働きたいと考えてきたが、その後自身が代表取締役という立場になってしまった。
社員たちから後ろ指を指されないようにとの気持ちで毎日を過ごしたつもりだが、果たして彼ら彼女から見た私はどんな上司だったのだろうか(笑)。
無論自身にとっての上司は年齢とは関係ないし、今後...もしかしたら...その理想の上司に巡り会えるかも知れない(笑)。
しかし不思議なことにこのどうしようもない2人の上司がいなければ、自身が起業することもなかったかも知れないし、第一女房と巡り会ってはいないはずだ...。
ともあれ「人間万事塞翁が馬」とはよくいったものだが、この歳になって初めてその真意を体験できたような気がする。
くどいようだが...理想の上司募集中である(爆)。
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