田口ランディ著「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」を読了
私にとっては少々気が重い一冊、田口ランディ著「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」を読んだ。日々あの東日本大震災からこのかた、東電原子力発電所の事故とその影響のニュースで満ちあふれているが正直今もってなにが本当でなにが嘘なのかがなかなか分からないのが現状である。しかし今後の日本にとって大きな後遺症となるであろう今回の事故とは一体何だったのか、私たちは知らねばならない。
私は戦後の混乱期に生まれた。両親などから戦争の悲惨さは耳たこになるほど聞かされたし成人になってから長崎の原爆記念館にも立ち寄ったしそれなりに歴史的な事実と思われることを知り、つきなみだが二度とこのようなことを繰り返してはならないと考えてきた一人である。
反面高度成長期のまっただ中に放り出された年代として原子力の平和利用と謳われた原子力発電に関してほとんど無関心だったことも事実であった。私は保守でも反保守でもないつもりだが、どこかでお偉い政治家と頭が良くその道の専門家が検証し進めていくことに間違いはないだろうという無批判の年代だったといえる。
それがどうだろうか。自身の認識の甘さを棚に上げて言うが、今回の東電事故に関して専門家という輩がいかに役に立たない机上の空論で人心を掌握していただけの人たちだったことに驚く。そして非常時にこそ国民の安全と平和を自身の命をはって守ってくれるはずの政治家たちの無策無能ぶりにあらためて怒りがわいてきた。
さらに驚くことは我々国民に隠されていた情報がいかに多かったかにも呆然とする。これで国民に責任をなすりつけるのはまさしく本末転倒であり良くも悪くも我々には正確な判断ができないような情報操作がなされていたということになる。
繰り返すが個人的にこれまで原子力発電の有無や賛否に関してほとんど無関心だった。別に自分の生活さえよければそれで良いと考えていたわけではなく前記したように国策として必要であり、それにより我々の日常生活が安全かつ豊かになるなら良いではないか…。たとえ万一トラブルが生じたとしても専門家と称する人たちが技術的にもなんとかしてくれる…と考えていたフシがある。だってそのための専門家でしょう!
例えば航空機の開発製造の専門家チームはその構造から飛行にいたるまでの術を熟知し、万全の技術で航空機を設計し運航する。だからこそ我々はただただ安心して旅客機に乗ることができる。我々一般人は飛行機の構造やその操縦の仕方を知る必要はないし、知らなければならない義務もないはずだ。すべては専門家…プロフェッショナルたちのお膳立てどおりにすれば楽しく安全な旅ができると思っている。原子力だって同じ感覚だった…。
しかし原子力の専門家、特に発言権の強い専門家と称する人たちほど使用済み核燃料の処理といった重大なことに関しても技術的に未知数のままで原子力の利用を推進してきたというのだから呆れるしその事実は万死に値するものだと思う。
事故後、テレビの解説に登場し「ただちに生命にかかわる問題は無い」を繰り返した専門家の語り口を耳にしても彼らの説明する話しは要点がボケて内容のないコメントばかりだったことは記憶に新しい。
とはいえいまでも報道される情報が真実で正しいのか、なにが間違っており嘘なのかさえはっきりわからないのが現状だ。それに一般人が原子力発電…特にトラブルの現実とその対処に関して正確な情報を集めるというそのこと自体簡単ではないが、まずは何が起こり、何故起こったのか、原因は何なのか、責任はどこにあるのか、そして今後どのようなリスクと対処方法の有る無し...といった至極当然なことを精査してみようと思った。
とはいえ自己矛盾ではあるが、世の中に出ている原子力関係の情報や書籍はすべて何らかのバイアスがかかっていると考えて間違いない。そう考えてしまうように仕向けたのは政治家たちであり専門家たちである。

※田口ランディ著「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」筑摩書房刊表紙
そうした難しい選択の入り口として私が選んだ一冊がこの田口ランディ著「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」という新書であった。
無論私は田口ランディという作家について「アルカナシカ」「マアジナル」といった著作を読んだだけの一読者であり、正直その人となりを十分に知ったわけではないが、他の情報と合わせて田口ランディとはどこかで同じ波長を感じる…と思ったからだ。
田口ランディは私より一回りも若い世代だが「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」を読むと核というものに関しどこかその思いや考え方といったものが私自身の考え方を代弁しているように思え、得心が重なっていく。
本書「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」は著者が「12年間考えた経験から、あなたに伝えたいこと」とあるようにそもそも核とはなんなのか、核兵器の歴史とヒロシマおよびナガサキに使われた経緯といった歴史、原子力平和利用の安全神話、そしてフクシマ第一原発事故後をどう生きるか?といった大変重大な問題について田口ランディ流の語り口で解説し自身の思いを記し、読者に問いかけている一冊である。
また本書は私がこれまで考えもしなかったことに意識を向けさせた…。たとえば「ナガサキになぜ原爆ドームがないのか?」と…。
結局終章に筆者が書いているように我々は原子力に関してずっと隠蔽され続けた歴史の中で生きてきたといえる。
我々世代の日本人が明るい未来と平和の象徴のように憧れてきたあの「鉄腕アトム」のパワーが原子力だったことを知りつつ、現実のそのパワーとリスクに対しては直視せずどこか目を背けてきた感があるのかもしれない。
「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」はイデオロギーを超えてフクシマの事故後の我々がどのように核と向き合っていくべきかを問いかけている。
一読をお勧めしたい。
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「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ: 原子力を受け入れた日本 (ちくまプリマー新書)
」
2011年9月10日 初版第1刷発行
著 者:田口ランディ
発行所:株式会社筑摩書房
コード:ISBN978-309-20573-1 価格:1,800円(税別)
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私は戦後の混乱期に生まれた。両親などから戦争の悲惨さは耳たこになるほど聞かされたし成人になってから長崎の原爆記念館にも立ち寄ったしそれなりに歴史的な事実と思われることを知り、つきなみだが二度とこのようなことを繰り返してはならないと考えてきた一人である。
反面高度成長期のまっただ中に放り出された年代として原子力の平和利用と謳われた原子力発電に関してほとんど無関心だったことも事実であった。私は保守でも反保守でもないつもりだが、どこかでお偉い政治家と頭が良くその道の専門家が検証し進めていくことに間違いはないだろうという無批判の年代だったといえる。
それがどうだろうか。自身の認識の甘さを棚に上げて言うが、今回の東電事故に関して専門家という輩がいかに役に立たない机上の空論で人心を掌握していただけの人たちだったことに驚く。そして非常時にこそ国民の安全と平和を自身の命をはって守ってくれるはずの政治家たちの無策無能ぶりにあらためて怒りがわいてきた。
さらに驚くことは我々国民に隠されていた情報がいかに多かったかにも呆然とする。これで国民に責任をなすりつけるのはまさしく本末転倒であり良くも悪くも我々には正確な判断ができないような情報操作がなされていたということになる。
繰り返すが個人的にこれまで原子力発電の有無や賛否に関してほとんど無関心だった。別に自分の生活さえよければそれで良いと考えていたわけではなく前記したように国策として必要であり、それにより我々の日常生活が安全かつ豊かになるなら良いではないか…。たとえ万一トラブルが生じたとしても専門家と称する人たちが技術的にもなんとかしてくれる…と考えていたフシがある。だってそのための専門家でしょう!
例えば航空機の開発製造の専門家チームはその構造から飛行にいたるまでの術を熟知し、万全の技術で航空機を設計し運航する。だからこそ我々はただただ安心して旅客機に乗ることができる。我々一般人は飛行機の構造やその操縦の仕方を知る必要はないし、知らなければならない義務もないはずだ。すべては専門家…プロフェッショナルたちのお膳立てどおりにすれば楽しく安全な旅ができると思っている。原子力だって同じ感覚だった…。
しかし原子力の専門家、特に発言権の強い専門家と称する人たちほど使用済み核燃料の処理といった重大なことに関しても技術的に未知数のままで原子力の利用を推進してきたというのだから呆れるしその事実は万死に値するものだと思う。
事故後、テレビの解説に登場し「ただちに生命にかかわる問題は無い」を繰り返した専門家の語り口を耳にしても彼らの説明する話しは要点がボケて内容のないコメントばかりだったことは記憶に新しい。
とはいえいまでも報道される情報が真実で正しいのか、なにが間違っており嘘なのかさえはっきりわからないのが現状だ。それに一般人が原子力発電…特にトラブルの現実とその対処に関して正確な情報を集めるというそのこと自体簡単ではないが、まずは何が起こり、何故起こったのか、原因は何なのか、責任はどこにあるのか、そして今後どのようなリスクと対処方法の有る無し...といった至極当然なことを精査してみようと思った。
とはいえ自己矛盾ではあるが、世の中に出ている原子力関係の情報や書籍はすべて何らかのバイアスがかかっていると考えて間違いない。そう考えてしまうように仕向けたのは政治家たちであり専門家たちである。

※田口ランディ著「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」筑摩書房刊表紙
そうした難しい選択の入り口として私が選んだ一冊がこの田口ランディ著「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」という新書であった。
無論私は田口ランディという作家について「アルカナシカ」「マアジナル」といった著作を読んだだけの一読者であり、正直その人となりを十分に知ったわけではないが、他の情報と合わせて田口ランディとはどこかで同じ波長を感じる…と思ったからだ。
田口ランディは私より一回りも若い世代だが「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」を読むと核というものに関しどこかその思いや考え方といったものが私自身の考え方を代弁しているように思え、得心が重なっていく。
本書「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」は著者が「12年間考えた経験から、あなたに伝えたいこと」とあるようにそもそも核とはなんなのか、核兵器の歴史とヒロシマおよびナガサキに使われた経緯といった歴史、原子力平和利用の安全神話、そしてフクシマ第一原発事故後をどう生きるか?といった大変重大な問題について田口ランディ流の語り口で解説し自身の思いを記し、読者に問いかけている一冊である。
また本書は私がこれまで考えもしなかったことに意識を向けさせた…。たとえば「ナガサキになぜ原爆ドームがないのか?」と…。
結局終章に筆者が書いているように我々は原子力に関してずっと隠蔽され続けた歴史の中で生きてきたといえる。
我々世代の日本人が明るい未来と平和の象徴のように憧れてきたあの「鉄腕アトム」のパワーが原子力だったことを知りつつ、現実のそのパワーとリスクに対しては直視せずどこか目を背けてきた感があるのかもしれない。
「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」はイデオロギーを超えてフクシマの事故後の我々がどのように核と向き合っていくべきかを問いかけている。
一読をお勧めしたい。
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「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ: 原子力を受け入れた日本 (ちくまプリマー新書)
2011年9月10日 初版第1刷発行
著 者:田口ランディ
発行所:株式会社筑摩書房
コード:ISBN978-309-20573-1 価格:1,800円(税別)
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