スティーブ・ジョブズはAppleを首になったのか?
対人関係のトラブルの真意を掴むのは非常に難しい。こちらの言い分もあればあちらの言い分もある。但し多くのマスコミはセンセーショナルな方を好むし我々も1度すり込まれるとそれが本当のように思い込んでしまう。スティーブ・ジョブズが1985年9月にAppleを辞職した際「Appleから首になった」といった説がまかり通っているのもその一例だ。
ここでいう "首" とは一般的には申し上げるまでもなく企業側の一方的な意思表示であり、雇用契約の解約に当たり労働者の合意がないものをいう。しかしスティーブ・ジョブズがAppleを去った経緯は単純なものではなく事は複雑だった…。そして結論を先に言えばジョブズは首になったのではなく役職を剥奪され、居場所がなくなったと感じ自分の意志でAppleを辞めたのだ。
ジョブズがAppleを去らねばならなかった直接の理由はジョン・スカリーとの確執だった。もともとスカリーはスティーブ・ジョブズに口説かれてAppleのCEOの職についた。スカリーはペプシ・コーラUSAの有能な社長として知られていただけでなくジョブズにしてみればコンピュータやテクノロジーに詳しくないという意味で自身の思うがままに操れると考えたらしい。
ともかくスカリー入社時期といえばAppleはちょうどMacintosh発売の時期でもあり、2人は目的を共有することが可能だった。スカリーは「アップルのリーダーはただ一人、スティーブ・ジョブズと私です」と関係が良好であることをアピールし、世間も二人をダイナミック・デュオと呼び賞賛した。
しかしそれは長く続かなかった。
大きな問題はMacintoshが売れず、在庫の山が膨大になりAppleは創立以来初めての深刻な危機に遭遇していたからだ。そしてAppleの取締役会や幹部達の中にはその原因がジョブズの言動にあると考えた者が多かった。
ジョブズはMacintoshの開発は勿論、販売にいたる細部にまで口を出し、経営に疎いにもかかわらずビジネス面にも干渉していた。それに人のやることにも首を突っ込んでかき回すことも多く、スティーブ・ジョブズを重荷と考え始めていたのである。
1985年4月10日から始まった取締役会でスカリーは苦慮した上の結論としてジョブズを上級副社長兼マッキントッシュ部門のジェネラルマネージャーの座から外すことを重役達に告げる。ただスカリーはこの時点でジョブズをAppleから追放することなど考えもしなかった…。あくまで経営には口出しをさせず新製品開発に集中してもらいたいという考えだった。
結局取締役会はスカリーの考え通りジョブズを会社の経営権がない会長職に置くことに同意したがジョブズは黙ってそれに従う男ではなかった。

※スティーブ・ジョブズは後年Appleをクビになったことは人生最良の出来事だったと振り返った...
ジョブズはスカリーが中国に出張する時期を捉え、立場を挽回する策に出ようとしていた。ジョブズが間違ったのはその作戦をジャン・ルイ・ガッセーに話したことだった。ガッセーは当時製品開発部門の副社長だったがジョブズがスカリー不在中にスカリーを追い出す秘策を練っていることを本人に密告したのである。
無論ガッセーにも言い分はあった。彼は後に「事が起きれば会社(Apple)は滅びてしまう。この会社は我々の誰かよりもずっと大事なものなのだ」と発言している。
スカリーは急遽出張を取りやめてジョブズに事の真相を糺すが、ジョブズは「あなたはアップルにとって有害だ。この会社を運営すべき人間ではない」とかつて熱烈なラブコールを送った相手に対し悪意に満ちた反撃をする。
スカリーとしてはそうまで言われれば後には引けない。スカリーはすべての重役達に自分とジョブズのどちらかを選ぶように宣告するが重役達は一人、また一人とスカリー側についた。ジョブズの思うように事は運ばなかったのである。
この日から2日後にジョブズはスカリーが会長になり自分がCEOになるという子供だましのような提案をするが無論スカリーはそれを拒絶し5月31日にジョブズからすべての経営権を剥奪するという書類に署名する。
ジョブズは名目だけの会長職となり、離れにあるオフィスでグローバル・シンキングの任が与えられた。しかしジョブズにしてみればそれは死を意味するに等しい仕打ちだった。
彼には普通の経営報告書すら見ることを許されていなかったからだ。
ジョブズは泣きながらビル・キャンベルとマイク・マレーに電話をかける。マレーが電話口に出るとジョブズは「僕はもう終わりだ。ジョンと取締役会にAppleから追い出されたんだ」と言ったきり電話を切る。
マレーが電話をかけ直してもジョブズは出ない。時刻は22時を回っていたが自殺でもするんではないかと心配したマレーはジョブズの自宅に出向きジョブズと抱き合って泣いたという。
ジョブズは気晴らしになるかと考え以前から予定されていたバカンス兼ビジネスの旅に出る。
ヨーロッパを回り、ロシアでApple IIのプロモーションを行い、フランスやイタリアなどを回って戻ってきた。その間ジョブズは自分なりにいろいろと考えたに違いないが自身の言動を反省した形跡はない…。

※スティーブ・ジョブズはよく言い訳をしない男と評価されるが、反省のないところには言い訳もない(笑)
またAppleに戻り何とかスカリーとの関係を修復できると考えていたようだ。しかしクパチーノに戻ってみると自分の居場所はすでになかった。
オフィスは自身がシベリアと呼んだ別のビルに移されたがジョブズはともかく出社はした。電話をかけたり郵便物を確認したりするが数時間いると気が滅入ってくる。
これを数日繰り返したようだが精神衛生上もよくなく出社を止める…。
ただしジョブズはまだAppleの会長職であった。この間、仕事はやめて自宅の改修をやったりスペースシャトルの搭乗員に応募したりもする。
しかしその後、ジョン・スカリーが証券アナリスト達に対して発したコメントに愕然とする。それは「当社の経営にスティーブ・ジョブズが関与することは現在も今後もありません」というものだった。
スカリーにしてみればAppleの株価が下落を続け6月末終了の四半期決算で1720万ドルの赤字を計上した直接の責任はスティーブ・ジョブズにあると考えていたからこそ、その災いの元を封印することで市場の同意を得ようとしたのだろう。
しかし何とかスカリーとの確執を修復したいと考えていたジョブズは愕然とする。そして自身の望む形の復職は望みがないことを知る。
その数日後、彼は決心し所有するApple株を売り始める。一株だけ残してすべて売り払いたかったが発起人株の売却にはルールがあり分割して売るしかなかった。ともかくこの株売却でスティーブ・ジョブズは何か新しいことを企んでいるのではないかという憶測が市場やマスコミに飛び交った。
結局ジョブズは1985年9月17日付けで辞表を提出するが、その中で自分はまだ30歳という若さだし会社に貢献したいし目的も果たしたいと書いている。
ジョブズは同じ辞表の文章をマスコミにも流す。そして最後の砦、会長職もAppleは剥奪しようとしていると多分に同情票を獲得しようとしたのだろうが、残念ながら当時の市場はジョブズがAppleを去ることを歓迎し、ためにAppleの株価も上昇した。
事実後述するスタッフの引き抜きに激怒したAppleの重役達はジョブズの会長職をも剥奪することを考えたが、ジョブズは首になる前に先制攻撃をかけ会長職と共にAppleから完全離脱すると辞表を提出する。
この辞表を出すまでの間、ジョブズとAppleは喧喧諤諤の争いを続けていた。それはジョブズがAppleを辞め新しい会社を興すという計画についてだった。Apple社内は騒然としていた。
中でもかつてジョブズの強力なイニシアティブの元でひとつになりMacintoshを開発したチームの人たちはどうやらジョブズの新しい旅立ちに自分たちは選ばれないことを知り失望し大半はほどなくAppleを去って行く。
ちなみにMacintoshが誕生して早々、その開発関係者の多くがAppleを辞めていく直接の理由が分からなかった。燃え尽きたのだろうかと漠然と考えていたが、この時のジョブズの言動が彼らを失望させたのが直接の原因だったようだ。
例えばアンディ・ハーツフェルドは「どんなに意志が固くても、スティーブ・ジョブズに残って欲しいと言われたら、Appleを辞めることは難しかった」と自著「レボリューション・イン・ザ・バレー」で語っている反面、1984年2月にLisaチームと統合された以降、「それまで自分たちが物笑いの種にしていたような、官僚的な弊害やくだらない縄張り争いがはびこる大きな組織に組み入れられてしまったようだった」と当時を振り返っている。そしてジョブズに今後のことを相談するが彼は何かに気を取られていたようだという。それは無論ジョブズ自身の今後とスカリーとのトラブルに関することで頭が一杯だったに違いない…。
ジョブズはハーツフェルドに「俺はお前に戻ってきて欲しいと思っているが…」と切り出したものの次の言葉にハーツフェルドはAppleに対する気持ちが離れていくのを感じたという。それはジョブズが「…どっちにしろ、おまえは、おまえ自身が考えているほど重要じゃないってことだ」と言ったからだ。
スティーブ・ジョブズはこの時期、自分のことで精一杯だったのかも知れないがMacintosh開発チームの中でビル・アトキンソンと共にソフトウェアの魔術師ともいわれ貢献したハーツフェルドに対してのこの仕打ちは…やはり当時のジョブズは人の上に立つだけの器量がなかったのだろう。
さて、当初Appleは場合によってはその会社に投資をしてもよいと柔軟策も見せたが、ジョブズが引き抜くスタッフのリストを確認してスカリーらは激怒する。マイク・マークラでさえ取締役会後の声明で「取締役会はスティーブ・ジョブズの行為を前日の取締役会における説明と矛盾するものと判断し、現在対策を検討しています」と発表する。
それはジョブズが当初引き抜いてもAppleには影響のないスタッフたちだと明言した事実とは違い、彼らはAppleが計画していた次世代製品開発プロジェクトの機密情報を握っている重要なスタッフたちだったからだ。
ジョブズ辞職後Appleは受託義務違反でスティーブ・ジョブズを訴えることにした。ジョブズはAppleに対して一定の受託義務を負っていたにもかかわらず、Appleの取締役会会長として、また役員としてその職務を行いながら、またAppleの利益に対して忠実であるかのように振る舞いながらもAppleと競合する企業(NeXT社)の設立を秘密裏に計画したこと。さらにジョブズが新設する競合企業が、次世代製品の計画・開発・販売に関するAppleの計画を不当に利用することを秘密裏に画策したから…という理由で…。
まあ、Appleの言いたいこともわかるが、これは些かおかしな訴えでもあった。なぜならスティーブ・ジョブズは当時のAppleにおいて不要な人物と評されたからこそ閑職に追いやられた。いわば役立たずのトラブルメーカーだと考えられたわけだ。その人間がAppleを辞めた途端にAppleにとって脅威な存在になったと捉えるのは無理があるように思える。
ジョブズ自身も「4300人あまりを擁する20億ドル企業(Apple)が、ジーパン姿の6人(NeXT)とまともに競えないなんて、考えられないね」と反論し、スタッフたちと共にNeXTの仕様を決めるため全米の大学に散った。しかしAppleというブランド抜きにジョブズが成功できるかは本人も含めて誰も分からなかった。
「ジョブズ・ウェイ」の著者で身近でジョブズのサポートをしていたジェイ・エリオットは当時スティーブ・ジョブズから「死ぬほど怖かった」と打ち明けられたという。

※スティーブ・ジョブズ(1955ー2011) R.I.P.
スティーブ・ジョブズはスタンフォード大学における有名なスピーチの中でも「30歳の時、アップルを首になった( I got fired )」という物言いをしているが、それはかなり屈折した心理からきた発言に違いない。実際は会長職へ追いやられ現実的な仕事はすべて剥奪されたものの首にはなっていないし自ら辞表を出しているのだ。そしてもし前記のように「上級副社長兼マッキントッシュ部門のジェネラルマネージャーの座」を首になったというならニュアンス的にはアリだろうが...繰り返すがジョブズはAppleそのものを首になってはいないのだ。
いずれにしろジョブズにとってAppleの仕打ちは首を宣告されたに相当する過酷で納得のいかないものだったのだろうが...。
また「追放された」という表現も多々使われるが「首」よりは実情に合った表現のような気がする。しかし少なくともジョブズ本人が言うように「首になった」事実はないし形として辞表を出して受理され辞職したことになっている。
いかにも「首」というと突然問答無用で放り出されたといったイメージがあるが、それは事実とはほど遠かったのだ。
「アップルを創った怪物」の中でジョブズの盟友だったスティーブ・ウォズニアックははっきり述べている。「スティーブは取締役会との権力争いに敗れ、辞任した。権限の大半を取り上げられたので、辞めたんだ。スティーブがクビになったって思っている人が多いけど、それは間違い」と...。
とはいえスティーブ・ジョブズはジョン・スカリーを生涯許さず決して仲直りしようとしなかった。10年も経ったときテレビ・ドキュメンタリー「Triumph of the Nerds」 でのインタビューでジョブズはスカリーについて「間違った人間を雇った」と答えている。
ともあれ例えばスティーブ・ジョブズがAppleの提案を受け入れてAppleの閑職に数年我慢していればスカリーの綻びからまたまた脚光を浴びたに違いない。しかしジョブズにはそれが出来なかっただけでなく運命はAppleとジョブズにより過酷な試練を与えた。その間Appleは経営難に苦しみ、ジョブズも多くの失敗を重ねた末に両者の運命は11年後再び相まみえることになる。
【主な参考資料】
・アスキー出版局刊「アップルコンフィデンシャル」
・東洋経済新報社刊「スティーブ・ジョブズ-偶像復活」
・オイラリー・ジャパン刊「レボリューション・イン・ザ・バレー」
・三五館刊「ジョブズ伝説」
・講談社刊「スティーブ・ジョブズ I 」
・早川書房刊「アップル(上)」
・ソフトバンク・クリエイティブ刊「ジョブズ・ウェイ」
・ダイヤモンド社刊「アップルを創った怪物」
ここでいう "首" とは一般的には申し上げるまでもなく企業側の一方的な意思表示であり、雇用契約の解約に当たり労働者の合意がないものをいう。しかしスティーブ・ジョブズがAppleを去った経緯は単純なものではなく事は複雑だった…。そして結論を先に言えばジョブズは首になったのではなく役職を剥奪され、居場所がなくなったと感じ自分の意志でAppleを辞めたのだ。
ジョブズがAppleを去らねばならなかった直接の理由はジョン・スカリーとの確執だった。もともとスカリーはスティーブ・ジョブズに口説かれてAppleのCEOの職についた。スカリーはペプシ・コーラUSAの有能な社長として知られていただけでなくジョブズにしてみればコンピュータやテクノロジーに詳しくないという意味で自身の思うがままに操れると考えたらしい。
ともかくスカリー入社時期といえばAppleはちょうどMacintosh発売の時期でもあり、2人は目的を共有することが可能だった。スカリーは「アップルのリーダーはただ一人、スティーブ・ジョブズと私です」と関係が良好であることをアピールし、世間も二人をダイナミック・デュオと呼び賞賛した。
しかしそれは長く続かなかった。
大きな問題はMacintoshが売れず、在庫の山が膨大になりAppleは創立以来初めての深刻な危機に遭遇していたからだ。そしてAppleの取締役会や幹部達の中にはその原因がジョブズの言動にあると考えた者が多かった。
ジョブズはMacintoshの開発は勿論、販売にいたる細部にまで口を出し、経営に疎いにもかかわらずビジネス面にも干渉していた。それに人のやることにも首を突っ込んでかき回すことも多く、スティーブ・ジョブズを重荷と考え始めていたのである。
1985年4月10日から始まった取締役会でスカリーは苦慮した上の結論としてジョブズを上級副社長兼マッキントッシュ部門のジェネラルマネージャーの座から外すことを重役達に告げる。ただスカリーはこの時点でジョブズをAppleから追放することなど考えもしなかった…。あくまで経営には口出しをさせず新製品開発に集中してもらいたいという考えだった。
結局取締役会はスカリーの考え通りジョブズを会社の経営権がない会長職に置くことに同意したがジョブズは黙ってそれに従う男ではなかった。

※スティーブ・ジョブズは後年Appleをクビになったことは人生最良の出来事だったと振り返った...
ジョブズはスカリーが中国に出張する時期を捉え、立場を挽回する策に出ようとしていた。ジョブズが間違ったのはその作戦をジャン・ルイ・ガッセーに話したことだった。ガッセーは当時製品開発部門の副社長だったがジョブズがスカリー不在中にスカリーを追い出す秘策を練っていることを本人に密告したのである。
無論ガッセーにも言い分はあった。彼は後に「事が起きれば会社(Apple)は滅びてしまう。この会社は我々の誰かよりもずっと大事なものなのだ」と発言している。
スカリーは急遽出張を取りやめてジョブズに事の真相を糺すが、ジョブズは「あなたはアップルにとって有害だ。この会社を運営すべき人間ではない」とかつて熱烈なラブコールを送った相手に対し悪意に満ちた反撃をする。
スカリーとしてはそうまで言われれば後には引けない。スカリーはすべての重役達に自分とジョブズのどちらかを選ぶように宣告するが重役達は一人、また一人とスカリー側についた。ジョブズの思うように事は運ばなかったのである。
この日から2日後にジョブズはスカリーが会長になり自分がCEOになるという子供だましのような提案をするが無論スカリーはそれを拒絶し5月31日にジョブズからすべての経営権を剥奪するという書類に署名する。
ジョブズは名目だけの会長職となり、離れにあるオフィスでグローバル・シンキングの任が与えられた。しかしジョブズにしてみればそれは死を意味するに等しい仕打ちだった。
彼には普通の経営報告書すら見ることを許されていなかったからだ。
ジョブズは泣きながらビル・キャンベルとマイク・マレーに電話をかける。マレーが電話口に出るとジョブズは「僕はもう終わりだ。ジョンと取締役会にAppleから追い出されたんだ」と言ったきり電話を切る。
マレーが電話をかけ直してもジョブズは出ない。時刻は22時を回っていたが自殺でもするんではないかと心配したマレーはジョブズの自宅に出向きジョブズと抱き合って泣いたという。
ジョブズは気晴らしになるかと考え以前から予定されていたバカンス兼ビジネスの旅に出る。
ヨーロッパを回り、ロシアでApple IIのプロモーションを行い、フランスやイタリアなどを回って戻ってきた。その間ジョブズは自分なりにいろいろと考えたに違いないが自身の言動を反省した形跡はない…。

※スティーブ・ジョブズはよく言い訳をしない男と評価されるが、反省のないところには言い訳もない(笑)
またAppleに戻り何とかスカリーとの関係を修復できると考えていたようだ。しかしクパチーノに戻ってみると自分の居場所はすでになかった。
オフィスは自身がシベリアと呼んだ別のビルに移されたがジョブズはともかく出社はした。電話をかけたり郵便物を確認したりするが数時間いると気が滅入ってくる。
これを数日繰り返したようだが精神衛生上もよくなく出社を止める…。
ただしジョブズはまだAppleの会長職であった。この間、仕事はやめて自宅の改修をやったりスペースシャトルの搭乗員に応募したりもする。
しかしその後、ジョン・スカリーが証券アナリスト達に対して発したコメントに愕然とする。それは「当社の経営にスティーブ・ジョブズが関与することは現在も今後もありません」というものだった。
スカリーにしてみればAppleの株価が下落を続け6月末終了の四半期決算で1720万ドルの赤字を計上した直接の責任はスティーブ・ジョブズにあると考えていたからこそ、その災いの元を封印することで市場の同意を得ようとしたのだろう。
しかし何とかスカリーとの確執を修復したいと考えていたジョブズは愕然とする。そして自身の望む形の復職は望みがないことを知る。
その数日後、彼は決心し所有するApple株を売り始める。一株だけ残してすべて売り払いたかったが発起人株の売却にはルールがあり分割して売るしかなかった。ともかくこの株売却でスティーブ・ジョブズは何か新しいことを企んでいるのではないかという憶測が市場やマスコミに飛び交った。
結局ジョブズは1985年9月17日付けで辞表を提出するが、その中で自分はまだ30歳という若さだし会社に貢献したいし目的も果たしたいと書いている。
ジョブズは同じ辞表の文章をマスコミにも流す。そして最後の砦、会長職もAppleは剥奪しようとしていると多分に同情票を獲得しようとしたのだろうが、残念ながら当時の市場はジョブズがAppleを去ることを歓迎し、ためにAppleの株価も上昇した。
事実後述するスタッフの引き抜きに激怒したAppleの重役達はジョブズの会長職をも剥奪することを考えたが、ジョブズは首になる前に先制攻撃をかけ会長職と共にAppleから完全離脱すると辞表を提出する。
この辞表を出すまでの間、ジョブズとAppleは喧喧諤諤の争いを続けていた。それはジョブズがAppleを辞め新しい会社を興すという計画についてだった。Apple社内は騒然としていた。
中でもかつてジョブズの強力なイニシアティブの元でひとつになりMacintoshを開発したチームの人たちはどうやらジョブズの新しい旅立ちに自分たちは選ばれないことを知り失望し大半はほどなくAppleを去って行く。
ちなみにMacintoshが誕生して早々、その開発関係者の多くがAppleを辞めていく直接の理由が分からなかった。燃え尽きたのだろうかと漠然と考えていたが、この時のジョブズの言動が彼らを失望させたのが直接の原因だったようだ。
例えばアンディ・ハーツフェルドは「どんなに意志が固くても、スティーブ・ジョブズに残って欲しいと言われたら、Appleを辞めることは難しかった」と自著「レボリューション・イン・ザ・バレー」で語っている反面、1984年2月にLisaチームと統合された以降、「それまで自分たちが物笑いの種にしていたような、官僚的な弊害やくだらない縄張り争いがはびこる大きな組織に組み入れられてしまったようだった」と当時を振り返っている。そしてジョブズに今後のことを相談するが彼は何かに気を取られていたようだという。それは無論ジョブズ自身の今後とスカリーとのトラブルに関することで頭が一杯だったに違いない…。
ジョブズはハーツフェルドに「俺はお前に戻ってきて欲しいと思っているが…」と切り出したものの次の言葉にハーツフェルドはAppleに対する気持ちが離れていくのを感じたという。それはジョブズが「…どっちにしろ、おまえは、おまえ自身が考えているほど重要じゃないってことだ」と言ったからだ。
スティーブ・ジョブズはこの時期、自分のことで精一杯だったのかも知れないがMacintosh開発チームの中でビル・アトキンソンと共にソフトウェアの魔術師ともいわれ貢献したハーツフェルドに対してのこの仕打ちは…やはり当時のジョブズは人の上に立つだけの器量がなかったのだろう。
さて、当初Appleは場合によってはその会社に投資をしてもよいと柔軟策も見せたが、ジョブズが引き抜くスタッフのリストを確認してスカリーらは激怒する。マイク・マークラでさえ取締役会後の声明で「取締役会はスティーブ・ジョブズの行為を前日の取締役会における説明と矛盾するものと判断し、現在対策を検討しています」と発表する。
それはジョブズが当初引き抜いてもAppleには影響のないスタッフたちだと明言した事実とは違い、彼らはAppleが計画していた次世代製品開発プロジェクトの機密情報を握っている重要なスタッフたちだったからだ。
ジョブズ辞職後Appleは受託義務違反でスティーブ・ジョブズを訴えることにした。ジョブズはAppleに対して一定の受託義務を負っていたにもかかわらず、Appleの取締役会会長として、また役員としてその職務を行いながら、またAppleの利益に対して忠実であるかのように振る舞いながらもAppleと競合する企業(NeXT社)の設立を秘密裏に計画したこと。さらにジョブズが新設する競合企業が、次世代製品の計画・開発・販売に関するAppleの計画を不当に利用することを秘密裏に画策したから…という理由で…。
まあ、Appleの言いたいこともわかるが、これは些かおかしな訴えでもあった。なぜならスティーブ・ジョブズは当時のAppleにおいて不要な人物と評されたからこそ閑職に追いやられた。いわば役立たずのトラブルメーカーだと考えられたわけだ。その人間がAppleを辞めた途端にAppleにとって脅威な存在になったと捉えるのは無理があるように思える。
ジョブズ自身も「4300人あまりを擁する20億ドル企業(Apple)が、ジーパン姿の6人(NeXT)とまともに競えないなんて、考えられないね」と反論し、スタッフたちと共にNeXTの仕様を決めるため全米の大学に散った。しかしAppleというブランド抜きにジョブズが成功できるかは本人も含めて誰も分からなかった。
「ジョブズ・ウェイ」の著者で身近でジョブズのサポートをしていたジェイ・エリオットは当時スティーブ・ジョブズから「死ぬほど怖かった」と打ち明けられたという。

※スティーブ・ジョブズ(1955ー2011) R.I.P.
スティーブ・ジョブズはスタンフォード大学における有名なスピーチの中でも「30歳の時、アップルを首になった( I got fired )」という物言いをしているが、それはかなり屈折した心理からきた発言に違いない。実際は会長職へ追いやられ現実的な仕事はすべて剥奪されたものの首にはなっていないし自ら辞表を出しているのだ。そしてもし前記のように「上級副社長兼マッキントッシュ部門のジェネラルマネージャーの座」を首になったというならニュアンス的にはアリだろうが...繰り返すがジョブズはAppleそのものを首になってはいないのだ。
いずれにしろジョブズにとってAppleの仕打ちは首を宣告されたに相当する過酷で納得のいかないものだったのだろうが...。
また「追放された」という表現も多々使われるが「首」よりは実情に合った表現のような気がする。しかし少なくともジョブズ本人が言うように「首になった」事実はないし形として辞表を出して受理され辞職したことになっている。
いかにも「首」というと突然問答無用で放り出されたといったイメージがあるが、それは事実とはほど遠かったのだ。
「アップルを創った怪物」の中でジョブズの盟友だったスティーブ・ウォズニアックははっきり述べている。「スティーブは取締役会との権力争いに敗れ、辞任した。権限の大半を取り上げられたので、辞めたんだ。スティーブがクビになったって思っている人が多いけど、それは間違い」と...。
とはいえスティーブ・ジョブズはジョン・スカリーを生涯許さず決して仲直りしようとしなかった。10年も経ったときテレビ・ドキュメンタリー「Triumph of the Nerds」 でのインタビューでジョブズはスカリーについて「間違った人間を雇った」と答えている。
ともあれ例えばスティーブ・ジョブズがAppleの提案を受け入れてAppleの閑職に数年我慢していればスカリーの綻びからまたまた脚光を浴びたに違いない。しかしジョブズにはそれが出来なかっただけでなく運命はAppleとジョブズにより過酷な試練を与えた。その間Appleは経営難に苦しみ、ジョブズも多くの失敗を重ねた末に両者の運命は11年後再び相まみえることになる。
【主な参考資料】
・アスキー出版局刊「アップルコンフィデンシャル」
・東洋経済新報社刊「スティーブ・ジョブズ-偶像復活」
・オイラリー・ジャパン刊「レボリューション・イン・ザ・バレー」
・三五館刊「ジョブズ伝説」
・講談社刊「スティーブ・ジョブズ I 」
・早川書房刊「アップル(上)」
・ソフトバンク・クリエイティブ刊「ジョブズ・ウェイ」
・ダイヤモンド社刊「アップルを創った怪物」
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