ラテ飼育格闘日記(196)
最近オトーサンの周りを見ているとワンコを飼い始める人たちが増えているように思える。無論オトーサン自身もラテを飼うためにこの地に引っ越ししてきたくらいに環境がよい場所だからワンコの飼い主が多くても当然だ。しかし多くの人たちはなぜ...どうしてワンコを飼うのだろうか?
一昔前、ワンコを飼う人たちはいわゆるお金持ちというイメージがあった。なぜってオトーサンの子供時代は我々人間、家族が食べるだけで大変な時代だったから、例えその残り物だとしても食い扶持が増えるわけだし現在のように室内で飼うのではなくほとんどが外飼いだったから犬小屋を置くスペースも必要だった。したがってアパートや長屋の住人がワンコを飼うというケースはほとんど見かけなかった。
だから必然的に飼い犬の役割も決まっていたというべきか...。お屋敷のセキュリティのため、いわゆる番犬として飼われているワンコがほとんどだったといえる。

※ラテもなかなか良い面構え(ベッピン)になってきた(笑)
子供心にワンコが鎖に繋がれている家は立派なお屋敷だったイメージがあるし、そうしたワンコは近づくだけで吠えかかるのでワンコ好きのオトーサンもそうしたワンコと友達になるケースは少なかった。ワンコの友達といえばもっぱら野良犬たちでしかなかった...。
ともかくソリを引くとか猟犬といった特別な使命を持ったワンコたちを別にすればオトーサンたちの周りで飼われていたワンコたちのほとんどは番犬として期待されていたわけだ。
しかし現在の我々が飼い犬に期待することは何なのだろうか?
一言で言えば「愛玩動物、ペット」ということになるのかも知れないが、そもそもオトーサンはラテをペットとして飼いたいと思ったわけではないのである。最近の新しい言い方をするなら「コンパニオンアニマル」ということになるのかも...。
これまでペットは飼い主の所有物であり、ただただ飼い主の癒しのため。楽しみのために飼われていたわけだが「コンパニオンアニマル」はそのニュアンスが大きく違う。
今回はそんなお話をしてみたいと思う。


※夕暮れの一時をご機嫌なラテと一緒にコーヒーショップで過ごす。オトーサンが望んでいたシーンだ
ペットの第一目的はといえば「癒し」ということだろうか...。可愛い小動物が側にいることで日々の生活に潤いを与えてくれるに違いない。しかしそれなら何故ワンコを選んだのか...。ペットとしてならハムスターでもいいし無論猫や小鳥でも良いかもしれない。
これまでにもご紹介した通り、オトーサンは子供の頃からワンコと暮らす生活を夢見ていた。子供の頃から...である。
理屈ぽい話になるがそれは決してペットとして可愛がるのが目的といった気持ちからではなかったし、そもそも子供にはそんな気持ちの余裕というか有り様はなかったといってよい。
オトーサンにとってワンコとは人の次に意志が通い合える身近な動物として認知していた感がある。それらは前記したように近所の子供たちと遊ぶとき、必ずといってよいほどそこには野良犬もいたからだ。
まさしく大昔のモノクロテレビ番組「ちびっこギャング」に登場する目の周りに輪が描かれたようなビートという名のワンコに相当する好奇心旺盛で何をされても怒らないワンコが身近にいたのである。

※帰り道、これまたご機嫌でフレンドリーなニャンコに出会う(笑)
子供時代のワンコとの付き合いを薄らいでいる記憶をたどってみると決して愛玩動物という対象ではなかった。いわば種は違えども野良ワンコは子分であり、あるときは仲間、友人であり、時には兄弟だったという気がする。
なにしろもし本気で喧嘩したところで例えばブラッキーと名付けた大型犬の野良に敵うはずもないから子供たちはワンコを虐めることはなかったし実に自然で対等な付き合い方をしていたように思う。
したがってオトーサンにとってワンコはペットといった可愛い相手だけでなく日々の生活を一緒に過ごす仲間であり友人として意識していたといえる。とはいえオトーサンの年齢になれば仲間や友人といった対象だけでなく自分の子供とか孫といったスタンスもあり得る...。
確かにオトーサン自身の意識を振り返ればラテを擬人化し、子供扱いして目を細めてしまうこともあるが、そもそも独立心旺盛な...コンラート・ローレンツ博士の物言いを借りれば...ジャッカル系というよりオオカミ系のワンコが好みだったから偶然とはいえラテとの巡り合わせは結果的にオトーサンの好みにドンピャだった。
そして人間社会で安全に暮らすため最低限のトレーニングは必要だとしても、競技会などに出すつもりもないからと人間側が押しつけるだけの訓練は極力やらないようにしてきた。だから「お手!」などは出来なくてもよいと考えていたしコマンドも「来い」「待て」「お座り」「伏せ」そして「ダメ」が分かれば上等だと考えてきた。
極端をいえば、オトーサンと女房に対して順応であることが第一条件だが、後は少しぐらい我が儘でも、吠えてもそれがワンコなんだと思っているし可能な限り一緒にいてラテが一匹のワンコとして我が家に来て良かったと思ってくれる人生(犬生)を過ごしてくれるようにと考えているわけだ...。だから最初からトレーナーに預けて型どおりのトレーニングをお願いするつもりはなく、すべてオトーサン自身で日々ラテと渡り合うことで足かけ4年を過ごしてきた。それはまさしく比喩ではなくこの項のタイトル通り「格闘」だった...。
そんなオトーサンはすべて自己流のワンコ教育を試行錯誤で実践してきたわけだが、先日久しぶりに我が意を得たりと膝を叩きたくたるような本に出会った。それが「哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン
」という一冊である。

※気鋭の哲学者、マーク・ローランズ著「哲学者とオオカミ」表紙
本書はワンコの飼育書ではなく、気鋭の哲学者が仔オオカミと出会い、共に生活しその死を看取るまでの驚異の報告であり、野生に触発されて著者が思考を深め、人間についての見方を一変させる思想を結実させるといった内容である。
本書はワンコの飼育書ではないが、ブレニンと名付けられたこのオオカミの訓練法は我々ワンコの飼い主にとっても多いに参考になるに違いないし、オオカミに対しては勿論、ワンコへの認識を新たにするであろう感動の一冊である。
次の機会にはこの「哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン」をネタにオトーサンのワンコ論を書いてみようと思う。
一昔前、ワンコを飼う人たちはいわゆるお金持ちというイメージがあった。なぜってオトーサンの子供時代は我々人間、家族が食べるだけで大変な時代だったから、例えその残り物だとしても食い扶持が増えるわけだし現在のように室内で飼うのではなくほとんどが外飼いだったから犬小屋を置くスペースも必要だった。したがってアパートや長屋の住人がワンコを飼うというケースはほとんど見かけなかった。
だから必然的に飼い犬の役割も決まっていたというべきか...。お屋敷のセキュリティのため、いわゆる番犬として飼われているワンコがほとんどだったといえる。

※ラテもなかなか良い面構え(ベッピン)になってきた(笑)
子供心にワンコが鎖に繋がれている家は立派なお屋敷だったイメージがあるし、そうしたワンコは近づくだけで吠えかかるのでワンコ好きのオトーサンもそうしたワンコと友達になるケースは少なかった。ワンコの友達といえばもっぱら野良犬たちでしかなかった...。
ともかくソリを引くとか猟犬といった特別な使命を持ったワンコたちを別にすればオトーサンたちの周りで飼われていたワンコたちのほとんどは番犬として期待されていたわけだ。
しかし現在の我々が飼い犬に期待することは何なのだろうか?
一言で言えば「愛玩動物、ペット」ということになるのかも知れないが、そもそもオトーサンはラテをペットとして飼いたいと思ったわけではないのである。最近の新しい言い方をするなら「コンパニオンアニマル」ということになるのかも...。
これまでペットは飼い主の所有物であり、ただただ飼い主の癒しのため。楽しみのために飼われていたわけだが「コンパニオンアニマル」はそのニュアンスが大きく違う。
今回はそんなお話をしてみたいと思う。


※夕暮れの一時をご機嫌なラテと一緒にコーヒーショップで過ごす。オトーサンが望んでいたシーンだ
ペットの第一目的はといえば「癒し」ということだろうか...。可愛い小動物が側にいることで日々の生活に潤いを与えてくれるに違いない。しかしそれなら何故ワンコを選んだのか...。ペットとしてならハムスターでもいいし無論猫や小鳥でも良いかもしれない。
これまでにもご紹介した通り、オトーサンは子供の頃からワンコと暮らす生活を夢見ていた。子供の頃から...である。
理屈ぽい話になるがそれは決してペットとして可愛がるのが目的といった気持ちからではなかったし、そもそも子供にはそんな気持ちの余裕というか有り様はなかったといってよい。
オトーサンにとってワンコとは人の次に意志が通い合える身近な動物として認知していた感がある。それらは前記したように近所の子供たちと遊ぶとき、必ずといってよいほどそこには野良犬もいたからだ。
まさしく大昔のモノクロテレビ番組「ちびっこギャング」に登場する目の周りに輪が描かれたようなビートという名のワンコに相当する好奇心旺盛で何をされても怒らないワンコが身近にいたのである。

※帰り道、これまたご機嫌でフレンドリーなニャンコに出会う(笑)
子供時代のワンコとの付き合いを薄らいでいる記憶をたどってみると決して愛玩動物という対象ではなかった。いわば種は違えども野良ワンコは子分であり、あるときは仲間、友人であり、時には兄弟だったという気がする。
なにしろもし本気で喧嘩したところで例えばブラッキーと名付けた大型犬の野良に敵うはずもないから子供たちはワンコを虐めることはなかったし実に自然で対等な付き合い方をしていたように思う。
したがってオトーサンにとってワンコはペットといった可愛い相手だけでなく日々の生活を一緒に過ごす仲間であり友人として意識していたといえる。とはいえオトーサンの年齢になれば仲間や友人といった対象だけでなく自分の子供とか孫といったスタンスもあり得る...。
確かにオトーサン自身の意識を振り返ればラテを擬人化し、子供扱いして目を細めてしまうこともあるが、そもそも独立心旺盛な...コンラート・ローレンツ博士の物言いを借りれば...ジャッカル系というよりオオカミ系のワンコが好みだったから偶然とはいえラテとの巡り合わせは結果的にオトーサンの好みにドンピャだった。
そして人間社会で安全に暮らすため最低限のトレーニングは必要だとしても、競技会などに出すつもりもないからと人間側が押しつけるだけの訓練は極力やらないようにしてきた。だから「お手!」などは出来なくてもよいと考えていたしコマンドも「来い」「待て」「お座り」「伏せ」そして「ダメ」が分かれば上等だと考えてきた。
極端をいえば、オトーサンと女房に対して順応であることが第一条件だが、後は少しぐらい我が儘でも、吠えてもそれがワンコなんだと思っているし可能な限り一緒にいてラテが一匹のワンコとして我が家に来て良かったと思ってくれる人生(犬生)を過ごしてくれるようにと考えているわけだ...。だから最初からトレーナーに預けて型どおりのトレーニングをお願いするつもりはなく、すべてオトーサン自身で日々ラテと渡り合うことで足かけ4年を過ごしてきた。それはまさしく比喩ではなくこの項のタイトル通り「格闘」だった...。
そんなオトーサンはすべて自己流のワンコ教育を試行錯誤で実践してきたわけだが、先日久しぶりに我が意を得たりと膝を叩きたくたるような本に出会った。それが「哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン

※気鋭の哲学者、マーク・ローランズ著「哲学者とオオカミ」表紙
本書はワンコの飼育書ではなく、気鋭の哲学者が仔オオカミと出会い、共に生活しその死を看取るまでの驚異の報告であり、野生に触発されて著者が思考を深め、人間についての見方を一変させる思想を結実させるといった内容である。
本書はワンコの飼育書ではないが、ブレニンと名付けられたこのオオカミの訓練法は我々ワンコの飼い主にとっても多いに参考になるに違いないし、オオカミに対しては勿論、ワンコへの認識を新たにするであろう感動の一冊である。
次の機会にはこの「哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン」をネタにオトーサンのワンコ論を書いてみようと思う。
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