Lisa 誕生の光と影の物語
世の中になかった新しい製品を作り出そうとするとき、我々はどのように考え判断し、どのように動くのだろうか。数ヶ月前から理由があって少しずつLisaのことを調べているが、思えばMacintoshの生みの親ともいえるこのマシンは何とも不運な製品であった。しかしこのLisaが生み出されなければ現在のMacintoshもあり得なかっただろう...。Lisa誕生の経緯とその失敗の物語は私にとってまとめてみたいテーマの1つなのだ。
一般的にLisaというプロダクトはスティーブ・ジョブズらがゼロックス社のパロアルト研究所(PARC)を訪れ、そこで見た暫定ダイナブック...すなわちAlto上で走るSmalltalkのデモを見て触発されたという話しが知られているが、これは文字通りには正しくない。
そもそもLisaという開発コード名でプロジェクトがスタートしたのは1979年のことらしい。ただしその際には時代背景として標準的なインターフェースを持った...GUIもなければマウスもない伝統的なコンピュータとして考えられていたようだ。
ジョブズらがPARCを訪れる経緯については別途「スティーブ・ジョブズとパロアルト研究所物語」をご覧いただきたいが、1979年も押し迫った頃に初めてジョブズはPARCを訪ね、そのグラフィカル・ユーザーインタフェースに度肝を抜かれた。
彼は「人生で最良の物を見た気がする」「理性のある人なら、すべてのコンピュータがやがてこうなることがわかるはずだ」と言い放った。
こうしてジョブズの意思が結果として我々が知ることになるLisaを生み出すことになったことは間違いないが、ことは簡単ではなかった。当時ジョブズはApple IIIの失敗の要因となっていたこともあり、新しい事に首を突っ込みたくてうずうずしていたのである。
そしてLisaの開発はジョブズの思い描くようなコンセプトを持つようになっていったし、PARCからはタイミングはともかくラリー・テスラーをはじめ、アラン・ケイやスティーブ・キャプスら15名ほどの人員がAppleに移ることになり、企画自体は徐々に注目を浴びるようになっていった。
しかし当時Appleの社長であったマイク・スコットはApple IIIの失敗はジョブズが主張した設計要求のためと考えていた。したがって同じ失敗を繰り返さないようにと人員を含めて組織の変更を考え、ジョブズをLisaプロジェクトチームのリーダーから外すことを決断する。
話が先走るが、行き場を失ったジョブズが結果として次に首を突っ込んだのがジェフ・ラスキンらが少人数で開発を進めていたMacintoshプロジェクトだったのである。したがって、もしジョブズがLisaの開発リーダーとして最後まで君臨していたとするなら、Lisaの仕様に彼の影響がより色濃くなったであろうし、そもそも1984年に登場したMacintoshはまったく違った様相となったかも知れない...。
結局Lisaはヒューレットパッカード社にいたジョン・カウチがプロジェクトリーダーとなり、200人/年の人員と5000万ドルもの開発費をつぎ込み1983年1月19日に正式発表された。

※1983年1月19日に正式発表されたLisa (1983年10月号APPLEマガジン表紙より借用)
Lisaがこれまでにない優れた仕様を有していたことは確かだが、その開発には大きい問題が生じたことは想像できる。そのひとつがApple独自のフロッピーディスク・ドライブ(5.25インチTwiggy Drive)をゼロから作り出そうとしたことだ。この開発は困難を極めたようで、事実出荷後もトラブル続きだった。

※Apple独自のフロッピーディスク(5.25インチTwiggy Drive)のディスケット「Fileware」
当時Appleは...というよりジョブズはサードパーティー製の製品を使うことを嫌い純血さに拘りすぎた。
こうしたトラブル以上に大きな問題もあったがそれは技術的なことではない。
前記したようにLisa開発を推進するためにAppleは時代を代表する超一流の頭脳を集結させたが、天才たちを一同に集めたからと言って物事が最良にそして理想的に運ぶものではないことを私たちは十分想像できる。
新たに加わった開発者たちはロボットではなかった。Appleの思惑は理解したとしてもそれぞれが個性と意思を持った経験豊かな人たちであり、ましてや彼らはひとり1人自負するモノを持っていた。
もし、ジョブズが100% Lisaプロジェクト進行の権限を持ったところで学位を持ったこれら才能ある技術者たちはジョブズを企業家として尊敬するとしても技術的な問題に...それも細かな点まで口を挟まれるのは嫌だったに違いないしジョブズの意見に懐疑的であったろう。早く言えば本当の意味でビジョンを共有できなかったのだ。
ましてやジョン・カウチの元で天才たちがそれらの能力を十分発揮し協力体制が確立できたかどうかは疑問であり、その開発の進め方はすでにAppleらしさが欠如していたと思われる。当然のことながら2人しかいなかったApple IIの開発当時と状況はまったく違うのである...。
結局Lisaは知られているように、モトローラのCPU 68000 / 5MHz、1MBのメモリ、容量860KBの5.25インチフロッピーディスクドライブ2台、12インチ/720×364ピクセル・モノクロビットマップディスプレイ、ワンボタンマウスとキーボードを備え、Apple III用の外付け5MBハードディスクといった仕様となり、他のマシンとの互換性がないこともあってか専用7種類のアプリケーションを同梱の上で出荷された。
ただし歴史は止まっていない。動き続ける...。
ジョブズがLisaプロジェクトから離れざるを得なくなった1980年以降Appleは大きく変化していった。
翌年1981年にはマイク・スコットの代わりにマイク・マークラが社長に就任し、ジョブズは会長職に就く。そして1983年にはジョブズの説得でペプシコーラのジョン・スカリーをCEO兼社長としてヘッドハンティングすることに成功した。
結局これまでの経緯を知る由もないスカリーはジョブズの求めに応じてMacintosh開発の権限をジョブズに認めただけでなく、後にはLisaとMacintoshをひとつの部門に統合しジョブズ自身が指揮をとることにゴーサインを出した。
ともかくLisaは出荷されたもののその販売に躓いた。AppleはLisaの問題点を検証し、ソフトウェアを付属させずに価格を下げ、故障が多い5.25インチフロッピードライブ(Twiggy Drive)からMacintoshと同じソニー製の3.5インチに変え、ハードディスク内蔵タイプの仕様に変更し、Lisa2とする。


※Lisa2のオーナーズガイド(当研究所所有)
1985年には10MBの内蔵ハードディスクタイプであるLisa2/10をMacintosh XLと改名しMacintoshのラインナップに組み入れ延命を図る...。しかしこれらは表向きの発表であり、この時期もともとLisaチームとMacintoshチームの開発者たちは兼務していたビル・アトキンソンなど一部の人材を除けば両者の間に軋轢があったことは間違いないようだ。

※1984年発行AppleのMacintoshカタログより。当時の関連製品ラインナップはMacintosh 128K, 512KそしてLisa 2/10だった
なにしろジョブズは両部門の統合の後、Lisa部門の人たちに「君たちはもう終わりだ。多くをレイオフしなければならない」と言い放ったという。
ましてや両チームが統合されたことで悪い面が目立ち、Macintosh部門の中にはLisaの部品調達を優先とは考えず、意図的にMacintosh XLの製造を遅らせるように画策したという噂もあったくらいなのだ。
Lisaがビジネスとして失敗したことは事実だし、その最大の原因は10,000ドル弱というその価格だったという話が定説となっている。勿論価格の問題は失敗した要因の1つなのだろうが事はそんなに単純なものではないと思う。
セールスというものは製品に対するコンセプトの与え方とそのターゲットとなる市場ならびにその売り方を間違えなければ高価だからといった理由だけで売れないといった単純なものではない。逆に安くてもやり方を間違えば売れないわけだ...。
Lisaの失敗はAppleがこの高価なパーソナルコンピュータを売った経験がなかったという理由を挙げる人もいるし、Lisaのスピードが大変遅かったのが原因だという人もいる。しかしLisaが成功しなかった最も大きな要因はMacintoshそのものにあったという話しには説得力がある...。
何故なら1983年にリリースされたLisaだが、その販売の初期から「近々ベビー・リサ(Macintoshのこと)というLisaの能力を超え、低価格なマシンが登場する」と言うことをジョブス自身やAppleの広報がリークしていたという話しもある。これではLisaが売れるはずもないではないか。
確かに先進的な仕様のLisaだったが、ジョブズは自分をLisaチームから外したマイク・スコットを許してはおらず、結果として自分の目の届かなかったLisaに報復を図ったと考えるのはうがった見方だろうか。
だとすればジョブズは未婚の恋人が生んだ娘の名を自らLisaの開発コードネームとしながら、Macintoshに肩入れをするためもあってここでもLisaの存在を拒絶したことになる。
さて、Lisaに限らずこの世の中に完全無比の製品など存在しない。Lisaにも欠点が多々あったがパーソナルコンピューとして初めてGUIを採用しマルチタスクを実現した間違いなく時代の最先端をいったマシンだった。
商業的に失敗したことでLisaは忘れ去れた感があるが、Lisaはパーソナルコンピュータの歴史にあってもっと評価されるべき製品であろう。そしてその失敗はこれまで見てきたようにLisaそのものにあるというより当然のことながら当時のAppleの考え方や企業方針に翻弄された結果と見るべきかも知れない。
さらにMacintosh XL (旧Lisa2/10)の販売中止を発表した1985年4月29日の翌月5月にはAppleの取締役会たちとジョブズの関係が悪化したことを理由にスカリーはジョブズをAppleのすべての責務から外すことになり同年9月17日、ジョブズは辞表を提出してAppleを去った...。
無論ジョブズ不在のAppleにとってMacintoshはもとよりだが、ビジョンを失ったLisaの運命は知れていたというべきか。
アップルの在庫を引取りアップグレードを図ったサン・リマーケティング社の努力にもかかわらず1989年9月、Appleは税務対策の意図もあってLisaを完全に葬ることを決断し、ユタ州ローガンの埋立地に埋められることになった。ここにLisaの命運は尽きた。
結局スティーブ・ジョブズにより発案され大きな影響を受けて開発推進されたLisaはスティーブ・ジョブズの失意と共に葬られてしまったという気がしてならないのである。
Lisa の失敗は往時のAppleの人間模様を見るよすがにもなっているのかも知れないし、その後Appleの失墜を予言したものであったのかも知れない。
【主な参考資料】
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」アスペクト刊
・「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊
・「アップルデザイン」アクシスパブリッシング刊
一般的にLisaというプロダクトはスティーブ・ジョブズらがゼロックス社のパロアルト研究所(PARC)を訪れ、そこで見た暫定ダイナブック...すなわちAlto上で走るSmalltalkのデモを見て触発されたという話しが知られているが、これは文字通りには正しくない。
そもそもLisaという開発コード名でプロジェクトがスタートしたのは1979年のことらしい。ただしその際には時代背景として標準的なインターフェースを持った...GUIもなければマウスもない伝統的なコンピュータとして考えられていたようだ。
ジョブズらがPARCを訪れる経緯については別途「スティーブ・ジョブズとパロアルト研究所物語」をご覧いただきたいが、1979年も押し迫った頃に初めてジョブズはPARCを訪ね、そのグラフィカル・ユーザーインタフェースに度肝を抜かれた。
彼は「人生で最良の物を見た気がする」「理性のある人なら、すべてのコンピュータがやがてこうなることがわかるはずだ」と言い放った。
こうしてジョブズの意思が結果として我々が知ることになるLisaを生み出すことになったことは間違いないが、ことは簡単ではなかった。当時ジョブズはApple IIIの失敗の要因となっていたこともあり、新しい事に首を突っ込みたくてうずうずしていたのである。
そしてLisaの開発はジョブズの思い描くようなコンセプトを持つようになっていったし、PARCからはタイミングはともかくラリー・テスラーをはじめ、アラン・ケイやスティーブ・キャプスら15名ほどの人員がAppleに移ることになり、企画自体は徐々に注目を浴びるようになっていった。
しかし当時Appleの社長であったマイク・スコットはApple IIIの失敗はジョブズが主張した設計要求のためと考えていた。したがって同じ失敗を繰り返さないようにと人員を含めて組織の変更を考え、ジョブズをLisaプロジェクトチームのリーダーから外すことを決断する。
話が先走るが、行き場を失ったジョブズが結果として次に首を突っ込んだのがジェフ・ラスキンらが少人数で開発を進めていたMacintoshプロジェクトだったのである。したがって、もしジョブズがLisaの開発リーダーとして最後まで君臨していたとするなら、Lisaの仕様に彼の影響がより色濃くなったであろうし、そもそも1984年に登場したMacintoshはまったく違った様相となったかも知れない...。
結局Lisaはヒューレットパッカード社にいたジョン・カウチがプロジェクトリーダーとなり、200人/年の人員と5000万ドルもの開発費をつぎ込み1983年1月19日に正式発表された。

※1983年1月19日に正式発表されたLisa (1983年10月号APPLEマガジン表紙より借用)
Lisaがこれまでにない優れた仕様を有していたことは確かだが、その開発には大きい問題が生じたことは想像できる。そのひとつがApple独自のフロッピーディスク・ドライブ(5.25インチTwiggy Drive)をゼロから作り出そうとしたことだ。この開発は困難を極めたようで、事実出荷後もトラブル続きだった。

※Apple独自のフロッピーディスク(5.25インチTwiggy Drive)のディスケット「Fileware」
当時Appleは...というよりジョブズはサードパーティー製の製品を使うことを嫌い純血さに拘りすぎた。
こうしたトラブル以上に大きな問題もあったがそれは技術的なことではない。
前記したようにLisa開発を推進するためにAppleは時代を代表する超一流の頭脳を集結させたが、天才たちを一同に集めたからと言って物事が最良にそして理想的に運ぶものではないことを私たちは十分想像できる。
新たに加わった開発者たちはロボットではなかった。Appleの思惑は理解したとしてもそれぞれが個性と意思を持った経験豊かな人たちであり、ましてや彼らはひとり1人自負するモノを持っていた。
もし、ジョブズが100% Lisaプロジェクト進行の権限を持ったところで学位を持ったこれら才能ある技術者たちはジョブズを企業家として尊敬するとしても技術的な問題に...それも細かな点まで口を挟まれるのは嫌だったに違いないしジョブズの意見に懐疑的であったろう。早く言えば本当の意味でビジョンを共有できなかったのだ。
ましてやジョン・カウチの元で天才たちがそれらの能力を十分発揮し協力体制が確立できたかどうかは疑問であり、その開発の進め方はすでにAppleらしさが欠如していたと思われる。当然のことながら2人しかいなかったApple IIの開発当時と状況はまったく違うのである...。
結局Lisaは知られているように、モトローラのCPU 68000 / 5MHz、1MBのメモリ、容量860KBの5.25インチフロッピーディスクドライブ2台、12インチ/720×364ピクセル・モノクロビットマップディスプレイ、ワンボタンマウスとキーボードを備え、Apple III用の外付け5MBハードディスクといった仕様となり、他のマシンとの互換性がないこともあってか専用7種類のアプリケーションを同梱の上で出荷された。
ただし歴史は止まっていない。動き続ける...。
ジョブズがLisaプロジェクトから離れざるを得なくなった1980年以降Appleは大きく変化していった。
翌年1981年にはマイク・スコットの代わりにマイク・マークラが社長に就任し、ジョブズは会長職に就く。そして1983年にはジョブズの説得でペプシコーラのジョン・スカリーをCEO兼社長としてヘッドハンティングすることに成功した。
結局これまでの経緯を知る由もないスカリーはジョブズの求めに応じてMacintosh開発の権限をジョブズに認めただけでなく、後にはLisaとMacintoshをひとつの部門に統合しジョブズ自身が指揮をとることにゴーサインを出した。
ともかくLisaは出荷されたもののその販売に躓いた。AppleはLisaの問題点を検証し、ソフトウェアを付属させずに価格を下げ、故障が多い5.25インチフロッピードライブ(Twiggy Drive)からMacintoshと同じソニー製の3.5インチに変え、ハードディスク内蔵タイプの仕様に変更し、Lisa2とする。


※Lisa2のオーナーズガイド(当研究所所有)
1985年には10MBの内蔵ハードディスクタイプであるLisa2/10をMacintosh XLと改名しMacintoshのラインナップに組み入れ延命を図る...。しかしこれらは表向きの発表であり、この時期もともとLisaチームとMacintoshチームの開発者たちは兼務していたビル・アトキンソンなど一部の人材を除けば両者の間に軋轢があったことは間違いないようだ。

※1984年発行AppleのMacintoshカタログより。当時の関連製品ラインナップはMacintosh 128K, 512KそしてLisa 2/10だった
なにしろジョブズは両部門の統合の後、Lisa部門の人たちに「君たちはもう終わりだ。多くをレイオフしなければならない」と言い放ったという。
ましてや両チームが統合されたことで悪い面が目立ち、Macintosh部門の中にはLisaの部品調達を優先とは考えず、意図的にMacintosh XLの製造を遅らせるように画策したという噂もあったくらいなのだ。
Lisaがビジネスとして失敗したことは事実だし、その最大の原因は10,000ドル弱というその価格だったという話が定説となっている。勿論価格の問題は失敗した要因の1つなのだろうが事はそんなに単純なものではないと思う。
セールスというものは製品に対するコンセプトの与え方とそのターゲットとなる市場ならびにその売り方を間違えなければ高価だからといった理由だけで売れないといった単純なものではない。逆に安くてもやり方を間違えば売れないわけだ...。
Lisaの失敗はAppleがこの高価なパーソナルコンピュータを売った経験がなかったという理由を挙げる人もいるし、Lisaのスピードが大変遅かったのが原因だという人もいる。しかしLisaが成功しなかった最も大きな要因はMacintoshそのものにあったという話しには説得力がある...。
何故なら1983年にリリースされたLisaだが、その販売の初期から「近々ベビー・リサ(Macintoshのこと)というLisaの能力を超え、低価格なマシンが登場する」と言うことをジョブス自身やAppleの広報がリークしていたという話しもある。これではLisaが売れるはずもないではないか。
確かに先進的な仕様のLisaだったが、ジョブズは自分をLisaチームから外したマイク・スコットを許してはおらず、結果として自分の目の届かなかったLisaに報復を図ったと考えるのはうがった見方だろうか。
だとすればジョブズは未婚の恋人が生んだ娘の名を自らLisaの開発コードネームとしながら、Macintoshに肩入れをするためもあってここでもLisaの存在を拒絶したことになる。
さて、Lisaに限らずこの世の中に完全無比の製品など存在しない。Lisaにも欠点が多々あったがパーソナルコンピューとして初めてGUIを採用しマルチタスクを実現した間違いなく時代の最先端をいったマシンだった。
商業的に失敗したことでLisaは忘れ去れた感があるが、Lisaはパーソナルコンピュータの歴史にあってもっと評価されるべき製品であろう。そしてその失敗はこれまで見てきたようにLisaそのものにあるというより当然のことながら当時のAppleの考え方や企業方針に翻弄された結果と見るべきかも知れない。
さらにMacintosh XL (旧Lisa2/10)の販売中止を発表した1985年4月29日の翌月5月にはAppleの取締役会たちとジョブズの関係が悪化したことを理由にスカリーはジョブズをAppleのすべての責務から外すことになり同年9月17日、ジョブズは辞表を提出してAppleを去った...。
無論ジョブズ不在のAppleにとってMacintoshはもとよりだが、ビジョンを失ったLisaの運命は知れていたというべきか。
アップルの在庫を引取りアップグレードを図ったサン・リマーケティング社の努力にもかかわらず1989年9月、Appleは税務対策の意図もあってLisaを完全に葬ることを決断し、ユタ州ローガンの埋立地に埋められることになった。ここにLisaの命運は尽きた。
結局スティーブ・ジョブズにより発案され大きな影響を受けて開発推進されたLisaはスティーブ・ジョブズの失意と共に葬られてしまったという気がしてならないのである。
Lisa の失敗は往時のAppleの人間模様を見るよすがにもなっているのかも知れないし、その後Appleの失墜を予言したものであったのかも知れない。
【主な参考資料】
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」アスペクト刊
・「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊
・「アップルデザイン」アクシスパブリッシング刊
- 関連記事
-
- 当研究所に待望の Lisa2 が入所!そのファーストインプレッション (2009/05/08)
- Lisaとは一体どのようなパーソナルコンピュータだったのか? (2009/05/07)
- Apple製作のビデオ "The Lisa ー It Works the Way You Work" 紹介 (2009/04/30)
- マニュアル考〜Lisa とLisa 2の “Owner’s Guide” を比較してみた (2009/04/14)
- アップル最初の純正ハードディスク「ProFile」考 (2009/04/07)
- Lisa 誕生の光と影の物語 (2009/04/02)
- 20年ぶりに再会〜Mac Japan誌の想い出 (2009/03/19)
- 「Vanlandingham」プログラムの思い出再考 (2009/03/04)
- 1983年 Apple Macintoshプロモーションビデオの再考 (2009/02/06)
- MACWORLD誌 1984年創刊号はビッグバン!? (2009/02/03)
- Macintosh 128K マニュアルの秘密!? (2008/12/31)