ラテ飼育格闘日記(129)
ラテが自分専用の場所だと言わんばかりに出窓の狭いたたきの上で居眠りをしている姿を見ているとオトーサンはつい愛しくなりその眠りを妨げてしまう。ラテは日中のほとんどをこうして外を眺めながら過ごしているが、一体何を考えているのだろうか...幸せなんだろうか。
オトーサンはラテがこの世界をどのように眺め、どのように感じているのかを知りたいと思い続け、ラテの毎日を観察し多くのワンコ関係の書籍を読んでいる。
そのまことに穏やかな寝顔を眺めながらオトーサンは考えてしまうのだ。
彼女にはこの世界が...いや我が家とオトーサンたちがどのように見えているのだろうか。彼女にとってオトーサンたちはどのような存在なのだろうか。そもそも彼女は本当に幸せなのだろうか...。
そのウトウトした目で見上げる視線を暖かく感じながら考えてしまうのである。
私たちが70年、80年生きるであろう世界をワンコたちは10数年そこそこで駆け抜けていく。その短い生涯をどのように思い、感じ、眺めているか、ワンコの飼い主ならきっと不思議に...疑問に思うことがあるのではないか。
先日書棚にあったエリザベス・M・トーマス著「犬たちの隠された生活
」(草思社刊)をあらためて読んでみてオトーサンは感動に打ち震えると共にワンコの本当の意味における幸せとは一体何だろうかと考え込んでしまった...。

※エリザベス・M・トーマス著「犬たちの隠された生活」(草思社刊) 表紙
ラテを含むいわゆる家犬はその飼い主なくしては生きていけない。これは特に現代の都会では事実である。そしてその多くはワンコ一匹が人間の家族たちの中で暮らしているケースだと思う。まるで一人っ子そのものである(笑)。
いや...なにを言いたいのかといえば、「ワンコは人間たちと一緒に生活することが幸せなのだろうか」と思ったまでだ。
ワンコの祖先がオオカミであろうとディンゴあるいはコヨーテであってもよいが、本来彼らの祖先が人間に近づいてきた一番の理由は食べ物だったに違いない。いわば食べ物欲しさに人間に接近し一緒に生活することを選んだわけだ。
ただしオトーサンはワンコたちは人間から食べ物を貰うだけのために人間にすり寄り、生きているというつもりはない。他のワンコはともかくラテを見ているとオトーサンたちを信頼しつつ大変豊かな感情をぶつけてくれる。満面の笑顔を見れば彼女が本当に喜んでいることはわかるものの肝心の部分については一定の距離を置いているように思えるのだ...。それがラテの知能の高さを際立てるようにも感じるし反対にいささか寂しくも感じる点なのだが...。

※最近では珍しいラテとオトーサンのブランコシーン。しかし...でかくなった(笑)
これまでの定説だと我々人間もワンコにとっては群れの一員であり、ワンコはその中で序列を作り規律のある生活をするとされてきた。しかしオトーサンが見るところ、何度も自説を展開してきたとおり、ラテはどう見てもワンコと人間とを同列には見ていないと考えざるを得ないのだ。
一見ワンコたちより人間の方が好きだと思わせる行動もするし、事実そのように思える。しかしそれだからこそラテは人間とワンコは別の種だと理解している証拠ではないかと思うのだ。
きれい事をいえば、ラテはオトーサンたちから見てまさしく種を超えた大切な家族であるが、ラテから見てもオトーサンやオカーサンは犬ではないからやはり同じく種が違う家族だということになるのだろう...。
そうだとすれば、当然のことだろうが同じ種であるワンコ同士とのやり取りとはまた違った気の使い方をラテはオトーサンたちにしているように思えるのである。

※オトーサンと歩きながらコミュニケーションするラテ
もしも...である。人間が滅び、犬の種族が生き残ったとする。そして彼らの生命を維持していくだけの食料や水が確保できたとするなら、犬にとって犬同士で生活することが何よりも自然であるべき姿なのではないかと想像してしまうオトーサンなのだ。
犬同士だからしてさまざまな意味でそこには序列があり、彼らが生きていく上に守らなければならない掟もあるだろう。しかし別の種である我々人間たちとの生活より、犬同士でコミュニティを構成できるなら彼ら彼女らにとって一番の幸せではないのか...と少々感傷的になってしまうオトーサンなのだ。
それは前記した「犬たちの隠された生活」を読んでいてある種の確信みたいなものを感じたのである。
著者のエリザベス・M・トーマスはいう...。
「犬はなにを望んでいるか。彼らはほかの犬といっしょにいることを望んでいる。人間などは彼らにとって、所詮“擬犬化”された代替物にすぎない」と...。
「友達同士いっしょに生きる犬は、穏やかで、プラグマティックであり、ほかの、人間という友達しか知らない犬たちが、ときとしてヒステリックにそうしたがるように、自分の要求や感情を知らしめようと躍起になったり、自分の観察したことを伝えようとむきになったりはけっしてしない。」
そしてトーマスの愛犬がアルツハイマー病に冒された晩年、「人間なるものが存在していることさえ、あらかた忘れはてていたが、森にはコヨーテが、草原にはハタネズミがいることは知っていたし、他の妹たちのことは覚えていた。ただし人間たちのことは、ときおりとまどったような目で、あたかもわたしたちがだれであるかだけでなく、どんなものであるかも忘れてしまったように、ぼんやりと見つめていた...」とある。
ワンコたちにとって当然といえば当然なのだが、犬同士の絆の方が例え餌をくれ、安全な寝場所を提供してくれる人間たちより自然なのだ。
だがラテだけではないがほとんどの飼い犬は一匹だけで人間の家族の中で暮らしているケースが多い。その中でたまたま犬としての自尊心を出すとすればそれは人間社会にとって問題行動といわれてしまうこともあり得る。彼ら彼女らも生きていくのはなかなかに大変な世の中なのだろう...。さらに「うちのワンコは人間の方が好きなのよ...」とばかり、ワンコと遊んだり喧嘩したりする機会を奪ってしまう飼い主もいる。これらはワンコにとって決して生きやすい世の中ではないのかも知れない...。
しかし確実にいえること...それは冷静に考えれば考えるほど、オトーサンたちがラテに与えているものよりもラテから受けている恩恵の方がはるかに大きいと思う昨今である。

※この穏やかな表情を眺めているとオトーサンも幸せな気分になってくる
ともかくオトーサンが、辛い足関節に湿布を貼り、栄養ドリンクを飲んで毎日散歩に出かけるのも少しでもラテに仲間のワンコとの触れ合いをさせたいと思う一心からなのである。確かに好き嫌いの激しいラテは苦手のワンコや嫌いなワンコも多い。しかし真に気を許せる、そして大好きなワンコたちに会ったときのその姿や喜び様は我々人間たちに見せるものとは違うように思われてならないのである。しかし最近はいつもの公園に集うワンコたちの姿が少なくなったようで、ラテも些か寂しいようなのだ...。
「さあ、ラテ...そろそろ散歩にでかけようか!」とオトーサンはリードをラテに見せる。
ラテは耳を倒し、口を大きく開けて尻尾を振りながらオトーサンに駈け寄り早くリードを付けてくれといわんばかりに頭を差し出す。
その顔を見るとツイ無理をしてしまうオトーサンなのだ。
オトーサンはラテがこの世界をどのように眺め、どのように感じているのかを知りたいと思い続け、ラテの毎日を観察し多くのワンコ関係の書籍を読んでいる。
そのまことに穏やかな寝顔を眺めながらオトーサンは考えてしまうのだ。
彼女にはこの世界が...いや我が家とオトーサンたちがどのように見えているのだろうか。彼女にとってオトーサンたちはどのような存在なのだろうか。そもそも彼女は本当に幸せなのだろうか...。
そのウトウトした目で見上げる視線を暖かく感じながら考えてしまうのである。
私たちが70年、80年生きるであろう世界をワンコたちは10数年そこそこで駆け抜けていく。その短い生涯をどのように思い、感じ、眺めているか、ワンコの飼い主ならきっと不思議に...疑問に思うことがあるのではないか。
先日書棚にあったエリザベス・M・トーマス著「犬たちの隠された生活

※エリザベス・M・トーマス著「犬たちの隠された生活」(草思社刊) 表紙
ラテを含むいわゆる家犬はその飼い主なくしては生きていけない。これは特に現代の都会では事実である。そしてその多くはワンコ一匹が人間の家族たちの中で暮らしているケースだと思う。まるで一人っ子そのものである(笑)。
いや...なにを言いたいのかといえば、「ワンコは人間たちと一緒に生活することが幸せなのだろうか」と思ったまでだ。
ワンコの祖先がオオカミであろうとディンゴあるいはコヨーテであってもよいが、本来彼らの祖先が人間に近づいてきた一番の理由は食べ物だったに違いない。いわば食べ物欲しさに人間に接近し一緒に生活することを選んだわけだ。
ただしオトーサンはワンコたちは人間から食べ物を貰うだけのために人間にすり寄り、生きているというつもりはない。他のワンコはともかくラテを見ているとオトーサンたちを信頼しつつ大変豊かな感情をぶつけてくれる。満面の笑顔を見れば彼女が本当に喜んでいることはわかるものの肝心の部分については一定の距離を置いているように思えるのだ...。それがラテの知能の高さを際立てるようにも感じるし反対にいささか寂しくも感じる点なのだが...。

※最近では珍しいラテとオトーサンのブランコシーン。しかし...でかくなった(笑)
これまでの定説だと我々人間もワンコにとっては群れの一員であり、ワンコはその中で序列を作り規律のある生活をするとされてきた。しかしオトーサンが見るところ、何度も自説を展開してきたとおり、ラテはどう見てもワンコと人間とを同列には見ていないと考えざるを得ないのだ。
一見ワンコたちより人間の方が好きだと思わせる行動もするし、事実そのように思える。しかしそれだからこそラテは人間とワンコは別の種だと理解している証拠ではないかと思うのだ。
きれい事をいえば、ラテはオトーサンたちから見てまさしく種を超えた大切な家族であるが、ラテから見てもオトーサンやオカーサンは犬ではないからやはり同じく種が違う家族だということになるのだろう...。
そうだとすれば、当然のことだろうが同じ種であるワンコ同士とのやり取りとはまた違った気の使い方をラテはオトーサンたちにしているように思えるのである。

※オトーサンと歩きながらコミュニケーションするラテ
もしも...である。人間が滅び、犬の種族が生き残ったとする。そして彼らの生命を維持していくだけの食料や水が確保できたとするなら、犬にとって犬同士で生活することが何よりも自然であるべき姿なのではないかと想像してしまうオトーサンなのだ。
犬同士だからしてさまざまな意味でそこには序列があり、彼らが生きていく上に守らなければならない掟もあるだろう。しかし別の種である我々人間たちとの生活より、犬同士でコミュニティを構成できるなら彼ら彼女らにとって一番の幸せではないのか...と少々感傷的になってしまうオトーサンなのだ。
それは前記した「犬たちの隠された生活」を読んでいてある種の確信みたいなものを感じたのである。
著者のエリザベス・M・トーマスはいう...。
「犬はなにを望んでいるか。彼らはほかの犬といっしょにいることを望んでいる。人間などは彼らにとって、所詮“擬犬化”された代替物にすぎない」と...。
「友達同士いっしょに生きる犬は、穏やかで、プラグマティックであり、ほかの、人間という友達しか知らない犬たちが、ときとしてヒステリックにそうしたがるように、自分の要求や感情を知らしめようと躍起になったり、自分の観察したことを伝えようとむきになったりはけっしてしない。」
そしてトーマスの愛犬がアルツハイマー病に冒された晩年、「人間なるものが存在していることさえ、あらかた忘れはてていたが、森にはコヨーテが、草原にはハタネズミがいることは知っていたし、他の妹たちのことは覚えていた。ただし人間たちのことは、ときおりとまどったような目で、あたかもわたしたちがだれであるかだけでなく、どんなものであるかも忘れてしまったように、ぼんやりと見つめていた...」とある。
ワンコたちにとって当然といえば当然なのだが、犬同士の絆の方が例え餌をくれ、安全な寝場所を提供してくれる人間たちより自然なのだ。
だがラテだけではないがほとんどの飼い犬は一匹だけで人間の家族の中で暮らしているケースが多い。その中でたまたま犬としての自尊心を出すとすればそれは人間社会にとって問題行動といわれてしまうこともあり得る。彼ら彼女らも生きていくのはなかなかに大変な世の中なのだろう...。さらに「うちのワンコは人間の方が好きなのよ...」とばかり、ワンコと遊んだり喧嘩したりする機会を奪ってしまう飼い主もいる。これらはワンコにとって決して生きやすい世の中ではないのかも知れない...。
しかし確実にいえること...それは冷静に考えれば考えるほど、オトーサンたちがラテに与えているものよりもラテから受けている恩恵の方がはるかに大きいと思う昨今である。

※この穏やかな表情を眺めているとオトーサンも幸せな気分になってくる
ともかくオトーサンが、辛い足関節に湿布を貼り、栄養ドリンクを飲んで毎日散歩に出かけるのも少しでもラテに仲間のワンコとの触れ合いをさせたいと思う一心からなのである。確かに好き嫌いの激しいラテは苦手のワンコや嫌いなワンコも多い。しかし真に気を許せる、そして大好きなワンコたちに会ったときのその姿や喜び様は我々人間たちに見せるものとは違うように思われてならないのである。しかし最近はいつもの公園に集うワンコたちの姿が少なくなったようで、ラテも些か寂しいようなのだ...。
「さあ、ラテ...そろそろ散歩にでかけようか!」とオトーサンはリードをラテに見せる。
ラテは耳を倒し、口を大きく開けて尻尾を振りながらオトーサンに駈け寄り早くリードを付けてくれといわんばかりに頭を差し出す。
その顔を見るとツイ無理をしてしまうオトーサンなのだ。
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