ラテ飼育格闘日記(106)
12月10日はラテが我が家に来た記念日であり今年で丸2年が過ぎた。自分で望んだ結果が期待どおり...期待以上になることなど人生そうそうあるものでもないが、ラテと一緒に生活することがこんなにも楽しいものであることは想像できなかったほどだ。
ワンコを飼うと言うことは一般的にいうなら確かに簡単なことではない。吠える、噛みつくなどトラブルの原因となる場合も多々あり得るはずだ。
病気にかかれば医療費も高いし無論毎日の食費もばかにならない。そしてきちんと散歩を続けるとすればそれなりに時間は取られるし私のような年齢になると体力的にもきついことは確かである。
ではなぜ人はワンコを好んで飼うのだろうか...。
まあ他人はともかくオトーサン自身はこれまでにも記したように50年来の夢であったし名犬ラッシーやらの影響もあって後半の人生をより豊かにしたいという気持ちによるものである。
なぜオトーサンのようなオヤジがワンコを飼うことで人生を豊かにすることができるのだろうか...。
それはこれまで過ごしてきた人生の情熱を絶やさないため...だとは言えないだろうか。
人生は誰にでも1度しかない。やり直しも利かないしリセットもできない。だからこそ体力も知力も残っているうちに自分の生き方を別の形で表現し直してみたいと考えても不思議ではないだろう。
オトーサンの場合はそうした結果が50年来の念願だったワンコに向いたのだと自分で分析はしているものの、自分の心の奥底は自分でも分からない...。
とにかく自分の人生の後半をおだやかでかつ輝かしいものにするためオトーサンはワンコとの生活を選択したわけである。
ではなぜワンコなのだろうか...。猫でもなく金魚でもなく小鳥でもなく何故犬なのだろう。
それはまさしくワンコが飼い主から見て擬人化するに値する相手であり、感情や表現あるいは思考の仕方が我々人間と似ており、意思疎通が可能だと思うからではないだろうか。
高度な頭脳を持ち、人に従順なパートナー(ワンコ)と歩き回り、時には愛犬とコーヒーショップに行くことをオトーサンは長い間夢見ていた。そしていつも膝元に愛犬のいる情景を想像してきたのである。
なんと言ったらよいか...オトーサンを必要とし信頼を寄せてくれる相手と共に過ごす毎日ほど生き甲斐のあることはないのではあるまいか...。

※駅前のコーヒーショップへラテと行くのがオトーサンの楽しみのひとつだ
オトーサンだけではないだろうがワンコと散歩をしているとワンコに呼びかけることが多い。
「ほら、ばっちいぞ」「ダメダメ」「いい臭いがするねぇ」「ラテ、水飲むか?」などなど考えてみるまでもなく日常随分と話しかけている。
無論オトーサンとてこちらの言葉を100%ラテが認識して理解しているなどと考えているわけではないが、反面意外と通じているようにも思えるのはワンコの飼い主ならある程度同意していただけるのではないか。
またラテの行動や態度も我々人間の理解を超えている場合があるものの、歩きながらオトーサンの足を突いたり、抱っこをせがんだり、アイコンタクトして吠えたりするその意味や意図も大方は理解できると考えている。そして悲しい、嬉しい、不安、怖いといった表情も慣れればストレートに分かるし、オトーサンの顔色をうかがいながら上目遣いで悪戯をするなど、ラテとの日々はまさしく個性的な感情・意識・意志を持った頭脳と対峙している喜びがある。

※肌を刺すような寒い早朝からラテとの散歩は始まる
前回にもワンコと我々人間は程度はともかく同じように意識を持っていると書いたが、愛犬家はともかく一般的にはまだまだワンコの頭脳は100%動物のそれであり人間とは比べるべきものではないという認識が強いようだ。
事実オトーサンもラテと生活するまではワンコがこれほど高度な知恵を働かせる動物であることは信じられなかったし、名犬ラッシーはあくまでフィクションの世界の出来事だと思っていた。
確かに映画やテレビドラマのそれと同じとはいわないが、ワンコの頭脳は人間の2歳児から3歳児ほどだということが理窟でなく肌で理解できるようになった。無論人間とまったく同じというのではなく認識や表現手段が違うわけだが...。
記憶力ひとつをとってもラテの能力はばかにならない。
例えば数日前にある道を通り、その角に大好きな猫がいたとする。ラテはもう夢中で追いかけようとするが無論猫は遊んでくれるどころか即逃げていく...。ラテは「クウ~ン」と泣くしかない(笑)。
問題はその2,3日後に同じ道を通るとき、ラテは以前どのあたりで猫にあったかを正確に覚えていて今日も猫に会えるのではないかとその茂みに頭を突っ込もうとする。
また真夏の暑い夕方、散歩の帰りに自動販売機で良く冷えたペットボトルの水を買い、オトーサンの飲み残しをラテに飲ませた。
多分に咽が渇いていたのだろう、残りの水をほとんど飲み干したラテだが、その翌日その道を帰るとき何ということか、ラテは自動販売機の方にリードを引っ張るのである(笑)。
凄いのはそれまで自動販売機にボトルが落ちてくる音にビックリして近づかなかったラテが、その自動販売機以外の機械にも怖がらずに近づくようになったことだ。
こうした事実はラテに心理学でいうところの「エピソード記憶」があると考えてよいのではないだろうか...。
心理学では記憶を「顕在記憶」と「潜在記憶」に大きくわけて考えるという。その「顕在記憶」とは私たちが言葉で語ることが出来、自分の意志で思い出すことが出来る記憶である。
また「潜在記憶」は反射的で意識の及ばない記憶だという。例えば自転車の乗り方とかピアノの演奏などがそれだ。自転車に乗れば理窟抜きで走ることが出来るし、ピアノの前に座れば覚えた曲を弾くことが出来る。しかしその行動を意識にのぼらせて他人に伝えることはほとんどできない。
そして前記した「顕在記憶」には「エピソード記憶」と「意味記憶」の2種類があり、「エピソード記憶」は個人的に体験したことの記憶だ。
前記したようにラテが猫に出会った場所とかその状況の記憶などがこれにあたる。
一方「意味記憶」は事実の記憶である。これは「平安京は794年に建設された」という類の記憶だ。無論私たちは平安京に行ったことはないのだから個人的な体験ではない(笑)。
問題はこの「意味記憶」の多くが繰り返しの学習で記憶として定着するのに対して「エピソード記憶」は練習や反復を必要とせず1度の体験で記憶として定着し、思い出すことで以前の体験を意識の中で再度体現できることを意味する。

※真面目な表情もなかなか可愛いではないか...(笑)
ラテが室内でボール遊びしている様を観察すればそれだけでも彼女に「エビソード記憶」能力が備わっていることは明白だ。
散々ボールで遊んだ後に例えばオヤツの時間になったとする。ラテはオトーサンの手でちぎったササミの燻製を時間をかけて食べた後でオトーサンが「ラテ、ボールは?」といえば彼女はさきほど最後にボールを椅子の向こう側に入れ込んだままなのを思い出して取り出しに向かう。
ここで注目すべきはボールの有り場所を嗅覚などで探すのではなく、ボール遊びの中断直前にボールのあった場所を覚えているからこそその場所に即行できるわけで、それは明らかに「エピソード記憶」が働いていると考えられる。
こうした行動は程度はともかく我々と同様ワンコに高度な意識というものがあるということではないだろうか。
感情が豊かで知能も高い相手と毎日対峙することほど楽しくエキサイティングなことはない。
オトーサンの足にはいつも2,3枚ほど湿布が貼られているが、そんなことは些末なことに違いない(笑)。
【参考文献】
スタンレー・コレン著「犬も平気でうそをつく?」文春文庫刊
ワンコを飼うと言うことは一般的にいうなら確かに簡単なことではない。吠える、噛みつくなどトラブルの原因となる場合も多々あり得るはずだ。
病気にかかれば医療費も高いし無論毎日の食費もばかにならない。そしてきちんと散歩を続けるとすればそれなりに時間は取られるし私のような年齢になると体力的にもきついことは確かである。
ではなぜ人はワンコを好んで飼うのだろうか...。
まあ他人はともかくオトーサン自身はこれまでにも記したように50年来の夢であったし名犬ラッシーやらの影響もあって後半の人生をより豊かにしたいという気持ちによるものである。
なぜオトーサンのようなオヤジがワンコを飼うことで人生を豊かにすることができるのだろうか...。
それはこれまで過ごしてきた人生の情熱を絶やさないため...だとは言えないだろうか。
人生は誰にでも1度しかない。やり直しも利かないしリセットもできない。だからこそ体力も知力も残っているうちに自分の生き方を別の形で表現し直してみたいと考えても不思議ではないだろう。
オトーサンの場合はそうした結果が50年来の念願だったワンコに向いたのだと自分で分析はしているものの、自分の心の奥底は自分でも分からない...。
とにかく自分の人生の後半をおだやかでかつ輝かしいものにするためオトーサンはワンコとの生活を選択したわけである。
ではなぜワンコなのだろうか...。猫でもなく金魚でもなく小鳥でもなく何故犬なのだろう。
それはまさしくワンコが飼い主から見て擬人化するに値する相手であり、感情や表現あるいは思考の仕方が我々人間と似ており、意思疎通が可能だと思うからではないだろうか。
高度な頭脳を持ち、人に従順なパートナー(ワンコ)と歩き回り、時には愛犬とコーヒーショップに行くことをオトーサンは長い間夢見ていた。そしていつも膝元に愛犬のいる情景を想像してきたのである。
なんと言ったらよいか...オトーサンを必要とし信頼を寄せてくれる相手と共に過ごす毎日ほど生き甲斐のあることはないのではあるまいか...。

※駅前のコーヒーショップへラテと行くのがオトーサンの楽しみのひとつだ
オトーサンだけではないだろうがワンコと散歩をしているとワンコに呼びかけることが多い。
「ほら、ばっちいぞ」「ダメダメ」「いい臭いがするねぇ」「ラテ、水飲むか?」などなど考えてみるまでもなく日常随分と話しかけている。
無論オトーサンとてこちらの言葉を100%ラテが認識して理解しているなどと考えているわけではないが、反面意外と通じているようにも思えるのはワンコの飼い主ならある程度同意していただけるのではないか。
またラテの行動や態度も我々人間の理解を超えている場合があるものの、歩きながらオトーサンの足を突いたり、抱っこをせがんだり、アイコンタクトして吠えたりするその意味や意図も大方は理解できると考えている。そして悲しい、嬉しい、不安、怖いといった表情も慣れればストレートに分かるし、オトーサンの顔色をうかがいながら上目遣いで悪戯をするなど、ラテとの日々はまさしく個性的な感情・意識・意志を持った頭脳と対峙している喜びがある。

※肌を刺すような寒い早朝からラテとの散歩は始まる
前回にもワンコと我々人間は程度はともかく同じように意識を持っていると書いたが、愛犬家はともかく一般的にはまだまだワンコの頭脳は100%動物のそれであり人間とは比べるべきものではないという認識が強いようだ。
事実オトーサンもラテと生活するまではワンコがこれほど高度な知恵を働かせる動物であることは信じられなかったし、名犬ラッシーはあくまでフィクションの世界の出来事だと思っていた。
確かに映画やテレビドラマのそれと同じとはいわないが、ワンコの頭脳は人間の2歳児から3歳児ほどだということが理窟でなく肌で理解できるようになった。無論人間とまったく同じというのではなく認識や表現手段が違うわけだが...。
記憶力ひとつをとってもラテの能力はばかにならない。
例えば数日前にある道を通り、その角に大好きな猫がいたとする。ラテはもう夢中で追いかけようとするが無論猫は遊んでくれるどころか即逃げていく...。ラテは「クウ~ン」と泣くしかない(笑)。
問題はその2,3日後に同じ道を通るとき、ラテは以前どのあたりで猫にあったかを正確に覚えていて今日も猫に会えるのではないかとその茂みに頭を突っ込もうとする。
また真夏の暑い夕方、散歩の帰りに自動販売機で良く冷えたペットボトルの水を買い、オトーサンの飲み残しをラテに飲ませた。
多分に咽が渇いていたのだろう、残りの水をほとんど飲み干したラテだが、その翌日その道を帰るとき何ということか、ラテは自動販売機の方にリードを引っ張るのである(笑)。
凄いのはそれまで自動販売機にボトルが落ちてくる音にビックリして近づかなかったラテが、その自動販売機以外の機械にも怖がらずに近づくようになったことだ。
こうした事実はラテに心理学でいうところの「エピソード記憶」があると考えてよいのではないだろうか...。
心理学では記憶を「顕在記憶」と「潜在記憶」に大きくわけて考えるという。その「顕在記憶」とは私たちが言葉で語ることが出来、自分の意志で思い出すことが出来る記憶である。
また「潜在記憶」は反射的で意識の及ばない記憶だという。例えば自転車の乗り方とかピアノの演奏などがそれだ。自転車に乗れば理窟抜きで走ることが出来るし、ピアノの前に座れば覚えた曲を弾くことが出来る。しかしその行動を意識にのぼらせて他人に伝えることはほとんどできない。
そして前記した「顕在記憶」には「エピソード記憶」と「意味記憶」の2種類があり、「エピソード記憶」は個人的に体験したことの記憶だ。
前記したようにラテが猫に出会った場所とかその状況の記憶などがこれにあたる。
一方「意味記憶」は事実の記憶である。これは「平安京は794年に建設された」という類の記憶だ。無論私たちは平安京に行ったことはないのだから個人的な体験ではない(笑)。
問題はこの「意味記憶」の多くが繰り返しの学習で記憶として定着するのに対して「エピソード記憶」は練習や反復を必要とせず1度の体験で記憶として定着し、思い出すことで以前の体験を意識の中で再度体現できることを意味する。

※真面目な表情もなかなか可愛いではないか...(笑)
ラテが室内でボール遊びしている様を観察すればそれだけでも彼女に「エビソード記憶」能力が備わっていることは明白だ。
散々ボールで遊んだ後に例えばオヤツの時間になったとする。ラテはオトーサンの手でちぎったササミの燻製を時間をかけて食べた後でオトーサンが「ラテ、ボールは?」といえば彼女はさきほど最後にボールを椅子の向こう側に入れ込んだままなのを思い出して取り出しに向かう。
ここで注目すべきはボールの有り場所を嗅覚などで探すのではなく、ボール遊びの中断直前にボールのあった場所を覚えているからこそその場所に即行できるわけで、それは明らかに「エピソード記憶」が働いていると考えられる。
こうした行動は程度はともかく我々と同様ワンコに高度な意識というものがあるということではないだろうか。
感情が豊かで知能も高い相手と毎日対峙することほど楽しくエキサイティングなことはない。
オトーサンの足にはいつも2,3枚ほど湿布が貼られているが、そんなことは些末なことに違いない(笑)。
【参考文献】
スタンレー・コレン著「犬も平気でうそをつく?」文春文庫刊
- 関連記事