ラテ飼育格闘日記(77)
なぜ私たちは犬を飼うのだろうか、そしてなぜワンコはこんなにも可愛いのだろうか。ペットの類もいまでは随分種類が多いが、その代表格は間違いなくワンコであろう。なぜならワンコは最も人間に近い生き物だからかも知れない。
勿論、人間に近いといっても人とワンコが同類だということではない。しかしある種の社会性を持ったワンコの祖先が人間の生活圏の中に入り込んだという歴史は一説によればクロマニョン人の時代からだともいう...。
アメリカのプレーンズ・インディアンに伝わる話としてスタンレー・コレン氏はその著書「哲学者になった犬」の中で人間と犬との深い絆に関する逸話を紹介している。それによればその昔、神は世界を作り終えた後、人間界と動物界を分けるときがきたと考え、一同が集まったところで地面に一本線を描いたという。その線のこちら側には人間が、むこう側にはその他の動物たちが置かれ、線を境にして地面が大きく深く割れていった...。
その割れ目が橋もかけられないほど広がる寸前になんと犬だけがその溝を跳び越えて人間のいる側へ渡ったという...。だから...ワンコは多くの動物の中で人間側に立った生き物なのである。

※スタンレー・コレン著「哲学者になった犬」文藝春秋刊表紙
まあ、伝説はともかくラテを前にすると苛立つ心が収まってくるのはなぜなのだろう。
ワンコと対峙していて一番の慰めは彼女・彼たちが最高の聴き手であるからだと思われる。オトーサンもラテといる時には意識的に話しかけるようにしているし、散歩のときなどは機会のあるごとに声をかけている。ワンコが人の言葉を理解できるかはともかく、自分のワンコだけは飼い主の言葉が分かっていると思う人たちは多いのではないか。そして行き交う人たちもワンコに連れの飼い主が話しかけているのを横目で見ながら、その行動を不審に思う人もいない。
そういえば、映画「オズの魔法使い」ではドロシー役のジュディ・ガーランドの台詞の半分ほどはトト役のケアーン・テリア、テリーに向けられているという。やはり私たちはワンコを最高の聞き上手と知っているのだ。
事実自分のことを考えても、もしラテがいなかったら日常は極端に喋る機会が少ない。日中に仕事関連の外出予定がなかったり、あるいは来客がない時にはそれこそ女房が帰宅するまでの間、喋る機会はほとんどないかも知れない...。情報そのものはラジオやテレビで受けることはできるが、会話をする機会は大変少ないことを思い知るに違いない。
会社を経営していたときにはある意味四六時中喋りっぱなしであった。クライアントとの長時間の打ち合わせから戻ったら声帯を傷つけたらしく突然声が出なくなったこともあったし、舌を傷つけてしまって滑舌が上手くできなくなったことも多々あった。
出張先での講演やプレゼンテーションはもとよりだが電話口でのサポート、訪問されたクライアントとの折衝、札幌支店スタッフとの電話での打ち合わせ、そして勿論本社での取り決めや雑多な打ち合わせ、会計事務所や顧問弁護士あるいは社会保険労務士の先生方との打ち合わせ、デザイナーとの打ち合わせ等々、喋っていないときは一人で外出する際の移動時でしかないほどだった。
そうした時代と比べるのも極端だが、一人で仕事をしている現在は本当に喋る機会が少ない。いや、何でもいたずらに喋れば良いというものではないことは承知だが、会話の機会が極端に少ないというのはやはり頭脳の回転に支障がでるように思えるし、精神的にもよろしくない。少なくともオトーサン自身はそう思うのである。
ラテがいるからこそ、ラテ自身に話しかけることもできるし散歩に出ればお馴染みの飼い主さんたちに会える。その会話が例え天気やワンコの餌などに関わることでも良い刺激になっていることは確かである。


※最近公園に二羽の鴨が遊びに来る(上)。ラテは姿勢を低くして忍び寄るものの(下)怖がる気配はなく悠々としている
ともかくこちらを向いてラテはオトーサンの愚痴や話を静かに聞いてくれる。話の腰を折ることもないし「オトーサンは間違っている」と反論することもない。何かすべてを包み込むような笑顔で、「うるさい」とも言わずに聞いてくれる。とはいってもその話というのは決して壁に向かって一人ブツブツ言うのとは絶対に違うのだ。
時にアイコンタクトしながら意識をこちらに向けてくれるし、手を伸ばせばぬくもりを持った顔や身体に触れることができる。そして彼女はオトーサンにべったりではないものの、オトーサンを信頼していつも一緒にいることを望んでいることは間違いないのである。
いまどき、このような理想の話し相手は人間ではなかなか見つからないと思う(笑)。
事実あのジークムント・フロイトは犬には人間の心理を読み取る鋭い感覚を持っていると考え、たくさんの犬を飼っていたという。そしてフロイトは愛犬ジョフィを患者との面接にも付き合わせていた。患者の精神状態を査定するとき、ジョフィの判断に頼ることも多かったという。
なぜならフロイトは、愛犬ジョフィが診療の間に部屋のどこに寝そべるかで患者のストレスや緊張の度合いを推し量った。そして患者の心理状態が穏やかだと、ジョフィはかなりその側まで近寄ったが、患者が緊張していると部屋の隅に行ってしまうのだった。
彼はまた、犬がいると患者...特に子供の精神状態が安定することにも気づいていた。
最近の研究では、このフロイトの指摘が正しいことが証明されている。心理測定によれば、穏やかで人なつっこい犬と一緒にいると、患者のストレスが減少し呼吸も心拍数も正常になる。さらにワンコを飼っている人の方がそうでない人より長生きし、医者にかかる頻度も少ないというデータもあるらしい。

※ラテは大きくなっても抱っこが好きだ(笑)
なかにはワンコは人の言葉を理解するのではなく、人の声の調子やボディランゲージに反応するだけだという説もある。しかしワンコを飼っている方ならお分かりだろうが、時にワンコは確実にこちらの言葉を理解した行動を示す。
先と同じく「哲学者になった犬」によれば、ある日曜日に司祭が教会で礼拝を行っていたときのエピソードが紹介されている。その時代ワンコはペットというだけでなく安価な労働力としても重宝されていた。例えば肉をむら無く焼くため、水平に渡した串をかまどの上で回転させる必要があったが、その労を担っていたのが体重が重く短足のその名もターンスピットという犬種だったという。彼らはハムスターの回転踏み車のようななかで一日何時間も交代で踏み車の上を歩かされていた...。
さて、ワンコの役目はそればかりでなかった。教会へ拝礼にいく場合にも連れて行かれたが、それは会衆の足元を暖める暖房器具の役割のためだった...。
そんなある日、司祭はエゼキエル書の第十章からの一節を引用し、会衆に向かって声を張り上げた。
「...そのときエゼキエルは、回る車(車輪)を見た」と...。
ターンスピットにとっておぞましい仕事を意味する”車”という言葉が聞こえた途端、犬たちは尻尾を股の間に巻き込んで、そろって教会から逃げ出したという。
またワンコは飼い主の鏡でもある。ラテもオトーサンの心理状態を察して、こちらが機嫌の悪いときや体調の悪いときには心配そうに遠くから見つめていたり、時には近寄って「大丈夫?」とでもいうように口元をペロッとしてくれる。反対にオトーサンの機嫌がよいときにはラテ自身も笑顔が多い。そんな飼い主を気遣ってくれる生き物はそうそういないだろう。
だから今日もオトーサンは足に湿布をし、関節炎などに効くというコンドロイチン配合の錠剤と栄養剤を飲み、勇んで散歩に出かけるのであった。
【参考資料】
スタンレー・コレン氏著「哲学者になった犬」/木村博江[訳]文藝春秋刊 ISBN4-16-354160-8
勿論、人間に近いといっても人とワンコが同類だということではない。しかしある種の社会性を持ったワンコの祖先が人間の生活圏の中に入り込んだという歴史は一説によればクロマニョン人の時代からだともいう...。
アメリカのプレーンズ・インディアンに伝わる話としてスタンレー・コレン氏はその著書「哲学者になった犬」の中で人間と犬との深い絆に関する逸話を紹介している。それによればその昔、神は世界を作り終えた後、人間界と動物界を分けるときがきたと考え、一同が集まったところで地面に一本線を描いたという。その線のこちら側には人間が、むこう側にはその他の動物たちが置かれ、線を境にして地面が大きく深く割れていった...。
その割れ目が橋もかけられないほど広がる寸前になんと犬だけがその溝を跳び越えて人間のいる側へ渡ったという...。だから...ワンコは多くの動物の中で人間側に立った生き物なのである。

※スタンレー・コレン著「哲学者になった犬」文藝春秋刊表紙
まあ、伝説はともかくラテを前にすると苛立つ心が収まってくるのはなぜなのだろう。
ワンコと対峙していて一番の慰めは彼女・彼たちが最高の聴き手であるからだと思われる。オトーサンもラテといる時には意識的に話しかけるようにしているし、散歩のときなどは機会のあるごとに声をかけている。ワンコが人の言葉を理解できるかはともかく、自分のワンコだけは飼い主の言葉が分かっていると思う人たちは多いのではないか。そして行き交う人たちもワンコに連れの飼い主が話しかけているのを横目で見ながら、その行動を不審に思う人もいない。
そういえば、映画「オズの魔法使い」ではドロシー役のジュディ・ガーランドの台詞の半分ほどはトト役のケアーン・テリア、テリーに向けられているという。やはり私たちはワンコを最高の聞き上手と知っているのだ。
事実自分のことを考えても、もしラテがいなかったら日常は極端に喋る機会が少ない。日中に仕事関連の外出予定がなかったり、あるいは来客がない時にはそれこそ女房が帰宅するまでの間、喋る機会はほとんどないかも知れない...。情報そのものはラジオやテレビで受けることはできるが、会話をする機会は大変少ないことを思い知るに違いない。
会社を経営していたときにはある意味四六時中喋りっぱなしであった。クライアントとの長時間の打ち合わせから戻ったら声帯を傷つけたらしく突然声が出なくなったこともあったし、舌を傷つけてしまって滑舌が上手くできなくなったことも多々あった。
出張先での講演やプレゼンテーションはもとよりだが電話口でのサポート、訪問されたクライアントとの折衝、札幌支店スタッフとの電話での打ち合わせ、そして勿論本社での取り決めや雑多な打ち合わせ、会計事務所や顧問弁護士あるいは社会保険労務士の先生方との打ち合わせ、デザイナーとの打ち合わせ等々、喋っていないときは一人で外出する際の移動時でしかないほどだった。
そうした時代と比べるのも極端だが、一人で仕事をしている現在は本当に喋る機会が少ない。いや、何でもいたずらに喋れば良いというものではないことは承知だが、会話の機会が極端に少ないというのはやはり頭脳の回転に支障がでるように思えるし、精神的にもよろしくない。少なくともオトーサン自身はそう思うのである。
ラテがいるからこそ、ラテ自身に話しかけることもできるし散歩に出ればお馴染みの飼い主さんたちに会える。その会話が例え天気やワンコの餌などに関わることでも良い刺激になっていることは確かである。


※最近公園に二羽の鴨が遊びに来る(上)。ラテは姿勢を低くして忍び寄るものの(下)怖がる気配はなく悠々としている
ともかくこちらを向いてラテはオトーサンの愚痴や話を静かに聞いてくれる。話の腰を折ることもないし「オトーサンは間違っている」と反論することもない。何かすべてを包み込むような笑顔で、「うるさい」とも言わずに聞いてくれる。とはいってもその話というのは決して壁に向かって一人ブツブツ言うのとは絶対に違うのだ。
時にアイコンタクトしながら意識をこちらに向けてくれるし、手を伸ばせばぬくもりを持った顔や身体に触れることができる。そして彼女はオトーサンにべったりではないものの、オトーサンを信頼していつも一緒にいることを望んでいることは間違いないのである。
いまどき、このような理想の話し相手は人間ではなかなか見つからないと思う(笑)。
事実あのジークムント・フロイトは犬には人間の心理を読み取る鋭い感覚を持っていると考え、たくさんの犬を飼っていたという。そしてフロイトは愛犬ジョフィを患者との面接にも付き合わせていた。患者の精神状態を査定するとき、ジョフィの判断に頼ることも多かったという。
なぜならフロイトは、愛犬ジョフィが診療の間に部屋のどこに寝そべるかで患者のストレスや緊張の度合いを推し量った。そして患者の心理状態が穏やかだと、ジョフィはかなりその側まで近寄ったが、患者が緊張していると部屋の隅に行ってしまうのだった。
彼はまた、犬がいると患者...特に子供の精神状態が安定することにも気づいていた。
最近の研究では、このフロイトの指摘が正しいことが証明されている。心理測定によれば、穏やかで人なつっこい犬と一緒にいると、患者のストレスが減少し呼吸も心拍数も正常になる。さらにワンコを飼っている人の方がそうでない人より長生きし、医者にかかる頻度も少ないというデータもあるらしい。

※ラテは大きくなっても抱っこが好きだ(笑)
なかにはワンコは人の言葉を理解するのではなく、人の声の調子やボディランゲージに反応するだけだという説もある。しかしワンコを飼っている方ならお分かりだろうが、時にワンコは確実にこちらの言葉を理解した行動を示す。
先と同じく「哲学者になった犬」によれば、ある日曜日に司祭が教会で礼拝を行っていたときのエピソードが紹介されている。その時代ワンコはペットというだけでなく安価な労働力としても重宝されていた。例えば肉をむら無く焼くため、水平に渡した串をかまどの上で回転させる必要があったが、その労を担っていたのが体重が重く短足のその名もターンスピットという犬種だったという。彼らはハムスターの回転踏み車のようななかで一日何時間も交代で踏み車の上を歩かされていた...。
さて、ワンコの役目はそればかりでなかった。教会へ拝礼にいく場合にも連れて行かれたが、それは会衆の足元を暖める暖房器具の役割のためだった...。
そんなある日、司祭はエゼキエル書の第十章からの一節を引用し、会衆に向かって声を張り上げた。
「...そのときエゼキエルは、回る車(車輪)を見た」と...。
ターンスピットにとっておぞましい仕事を意味する”車”という言葉が聞こえた途端、犬たちは尻尾を股の間に巻き込んで、そろって教会から逃げ出したという。
またワンコは飼い主の鏡でもある。ラテもオトーサンの心理状態を察して、こちらが機嫌の悪いときや体調の悪いときには心配そうに遠くから見つめていたり、時には近寄って「大丈夫?」とでもいうように口元をペロッとしてくれる。反対にオトーサンの機嫌がよいときにはラテ自身も笑顔が多い。そんな飼い主を気遣ってくれる生き物はそうそういないだろう。
だから今日もオトーサンは足に湿布をし、関節炎などに効くというコンドロイチン配合の錠剤と栄養剤を飲み、勇んで散歩に出かけるのであった。
【参考資料】
スタンレー・コレン氏著「哲学者になった犬」/木村博江[訳]文藝春秋刊 ISBN4-16-354160-8