ラテ飼育格闘日記(65)
ラテと毎日一緒に生活していると感覚的にもペットを飼っているというより家族の一員だという意識が強く働く。その一挙一動がなにやら私たち人間と同じように感じられて、つい目尻が下がって甘くなるが、ワンコは何故こんなにも可愛いのか(笑)。
ラテはすでにオトーサンが喜ぶ術を知っているようだ。哀願するような鳴き声を続ければオヤツをくれるだろうとか、後ろ足で立ちあがって両手を上げて向かえば抱っこしてくれるとか...。
そうした毎日を過ごしているとラテの思考回路や感情がつい私たち人間のそれと同じであるという感覚を持ってしまう。
オトーサンとしては毎日一緒に暮らすラテをペットというより家族の一員だと考えているが、市販されている多くの育児書はワンコと人間は別種の生き物であるからして感性も表現方法も、そしてコミュニケーションもまったく違うという考え方から書かれている。そこにはいわゆる擬人化がワンコを不安がらせ、のさばらせて問題行動の原因となるといった解説が多い。
またこれらとは些か違う書籍もある。それらによればワンコの知能・能力は擬人化するに値する高度なものであり、我々がワンコとのコミュニケーション方法を理解すればワンコたちの考え方や行動の意味をより知ることが出来るというものだ。こうした説を支持する人たちは、ワンコと哲学や宗教を語ったり、最新のヒット曲の良し悪しを話し合うことはできないものの(笑)、彼らの行動を観察すればワンコたちとコミュニケーションが取れると考えている。確かにワンコは悲しいときには悲しい表情をするし、嬉しいときには明らかに嬉しい表情をする。したがってどうしても我々はワンコを擬人化してしまう...。

※仲間のワンコたちと遊んでいるときのラテの表情はまことに愛らしい
ともあれワンコは間違いなく我々人間とは違う。成犬は人間の子供の2歳から4歳ほどの知能を有していることも知られているくらい利口な生き物だとしてもその行動は人のそれとは著しく違う。四つ足で歩き走るのはともかく、我々から見れば所かまわず囓ったり、オシッコをしたり、バッチイ物や糞まで食べてしまうこともある...といったように我々には理解しがたい行動をする生き物だ。そして闇雲に吼えたり唸ったりするといったイメージもある。
しかし...である。考えてもいただきたいが、鋭い歯を持ち、ラテなどは狼みたいな表情をするときがあるし、なかなか思うように意思疎通ができない上に当然のことながらペットフードやらおやつ、あるいは医療費などもかかるワンコを何故好んで飼うのだろうか(笑)。大げさでなくオトーサンはこの一年間そうしたことを自問自答してきたのである。もしその答えが出せるなら、それは自分自身を客観的に眺める材料になるのではないかとも考えた...。
そんなとき、以前にも参考資料としてご紹介したスティーブン・ブデアンスキー著「THE TRUTH ABOUT DOGS (犬の科学)」(築地書館刊)を読み返して文字通り目から鱗が落ちる思いをした。

※スティーブン・ブデアンスキー著「THE TRUTH ABOUT DOGS (犬の科学)」(築地書館刊)表紙
「何故ラテを飼っているのか」という問いの答えは「愛しいから」というのが一番当たっていると思う。人生の同伴者であり正直自分の子供のような感覚もある。しかしラテを何故可愛いと感じるのか、その問いに答えるのは難しい...。
そもそも我々はか弱きもの、へつらうもの、小さなものを見ると本能的にかばいたくなる。例えば犬猫が嫌いだという人でも子猫や子犬の姿を見れば思わず眼を細めてしまうのではないだろうか。そしてそうした中から癒しを受けることも多々あり得るはずだ。
また人間も同様だが、幼児が生き抜く最大の武器はその可愛らしさにあると思う。大人に可愛いと思わせなければ保護されない可能性もあり、自力で生きていけない幼児や子供は淘汰されてしまうかも知れない...。でもラテが我が家に来たのは生後6ヶ月ほどになってからであり、確かに今と比較すれば幼い姿だったがコロコロの子犬といった姿ではなかった。それでもオトーサンたちにとっては可愛いのだ。
人間がワンコと共存し始めたきっかけにはさまざまな説があるが、成功した大きな要因はワンコが持っている社会性にあるという。そしてこのワンコと人間との共存関係は決して人間側からだけのアプローチではなかったらしい...。
人間が太古の昔に狼を飼い慣らしたというこれまでの定説はそのまま鵜呑みにはできない。なぜなら人の回りに集まって来た段階ですでにワンコは狼ではなく犬であったというのが最近の説のようだが、どうやら人がワンコを可愛いと思い、役に立つと考えて飼い始めたという事実の反面、我々人間がワンコに捕まってしまったのだという考え方もあるのだ(笑)。そもそもワンコの出現は信じられているよりはるかに古く、当時からワンコは狼より人間と親しかったそうだ。
その「THE TRUTH ABOUT DOGS (犬の科学)」によれば「彼ら(犬)は、人間の回りをうろつくことを選択し、そうすることによって、自分自身の起源となった相手(狼)から、自分の意志で、自らを隔絶した。彼らは、雇われたのでもなく、奴隷でもない。あるいは招かれた客人でもない。彼らは、パーティー会場(人間社会)に押しかけ、もぐりこみ、決して立ち去ることはなかったのである」とは言い得て妙ではないか(括弧内はオトーサン加筆)。

※オトーサンの指を噛まず、上手にオヤツを食べるラテ
ではそんな押しかけ女房みたいなワンコと人間はなぜ一緒に暮らすことを選んだのか。実利面はともかく、その大きな要因としてはやはり我々人間がどのようなものに対しても意志や動機があると思いたがる擬人化の心理にあるらしい。我々はワンコは勿論、パソコンであっても身近な物の中に人間と同様な意志があると思いがちな心理を持っている...。ましてや高度な知能を持っているワンコに対し当然そうした心理が働かないわけはない。
イギリスの動物行動学者、ジョン・S・ケネディは我々はまさに「強迫的擬人観念愛好者」だと言っているそうだが、我々は回りの全てのものの中に人間と同様な意志を探し求め、それらと本能的にコミュニケーションを取りたいと願っている生き物なかも知れない。
ワンコたちはこの人間たちの抗しきれない弱点を察知し、自然淘汰を生き抜くせための選択肢のひとつとして人間との共存を選んだ。そして繰り返すが狼時代から受け継いだ社会的序列を受け入れる資質を持っていたことが人間社会にとけ込むためには大きくプラスに働いたということらしい...。
ともかくオトーサンが何故ラテを可愛いと思うのか、それは理窟ではなくオトーサンのDNAに組み込まれているからであり、オトーサンが人間である証拠なのだ(笑)。
そのラテはといえば、リビングにフリースの敷物を好きな場所に広げ、その上でガムを噛みながら時々オトーサンの方に色目を使う(笑)。そのサインは「遊んで欲しい」とか「おやつ頂戴」に違いないわけだが、問題はその誘いをいつまでオトーサンが無視できるかなのだ(爆)。
ラテはすでにオトーサンが喜ぶ術を知っているようだ。哀願するような鳴き声を続ければオヤツをくれるだろうとか、後ろ足で立ちあがって両手を上げて向かえば抱っこしてくれるとか...。
そうした毎日を過ごしているとラテの思考回路や感情がつい私たち人間のそれと同じであるという感覚を持ってしまう。
オトーサンとしては毎日一緒に暮らすラテをペットというより家族の一員だと考えているが、市販されている多くの育児書はワンコと人間は別種の生き物であるからして感性も表現方法も、そしてコミュニケーションもまったく違うという考え方から書かれている。そこにはいわゆる擬人化がワンコを不安がらせ、のさばらせて問題行動の原因となるといった解説が多い。
またこれらとは些か違う書籍もある。それらによればワンコの知能・能力は擬人化するに値する高度なものであり、我々がワンコとのコミュニケーション方法を理解すればワンコたちの考え方や行動の意味をより知ることが出来るというものだ。こうした説を支持する人たちは、ワンコと哲学や宗教を語ったり、最新のヒット曲の良し悪しを話し合うことはできないものの(笑)、彼らの行動を観察すればワンコたちとコミュニケーションが取れると考えている。確かにワンコは悲しいときには悲しい表情をするし、嬉しいときには明らかに嬉しい表情をする。したがってどうしても我々はワンコを擬人化してしまう...。

※仲間のワンコたちと遊んでいるときのラテの表情はまことに愛らしい
ともあれワンコは間違いなく我々人間とは違う。成犬は人間の子供の2歳から4歳ほどの知能を有していることも知られているくらい利口な生き物だとしてもその行動は人のそれとは著しく違う。四つ足で歩き走るのはともかく、我々から見れば所かまわず囓ったり、オシッコをしたり、バッチイ物や糞まで食べてしまうこともある...といったように我々には理解しがたい行動をする生き物だ。そして闇雲に吼えたり唸ったりするといったイメージもある。
しかし...である。考えてもいただきたいが、鋭い歯を持ち、ラテなどは狼みたいな表情をするときがあるし、なかなか思うように意思疎通ができない上に当然のことながらペットフードやらおやつ、あるいは医療費などもかかるワンコを何故好んで飼うのだろうか(笑)。大げさでなくオトーサンはこの一年間そうしたことを自問自答してきたのである。もしその答えが出せるなら、それは自分自身を客観的に眺める材料になるのではないかとも考えた...。
そんなとき、以前にも参考資料としてご紹介したスティーブン・ブデアンスキー著「THE TRUTH ABOUT DOGS (犬の科学)」(築地書館刊)を読み返して文字通り目から鱗が落ちる思いをした。

※スティーブン・ブデアンスキー著「THE TRUTH ABOUT DOGS (犬の科学)」(築地書館刊)表紙
「何故ラテを飼っているのか」という問いの答えは「愛しいから」というのが一番当たっていると思う。人生の同伴者であり正直自分の子供のような感覚もある。しかしラテを何故可愛いと感じるのか、その問いに答えるのは難しい...。
そもそも我々はか弱きもの、へつらうもの、小さなものを見ると本能的にかばいたくなる。例えば犬猫が嫌いだという人でも子猫や子犬の姿を見れば思わず眼を細めてしまうのではないだろうか。そしてそうした中から癒しを受けることも多々あり得るはずだ。
また人間も同様だが、幼児が生き抜く最大の武器はその可愛らしさにあると思う。大人に可愛いと思わせなければ保護されない可能性もあり、自力で生きていけない幼児や子供は淘汰されてしまうかも知れない...。でもラテが我が家に来たのは生後6ヶ月ほどになってからであり、確かに今と比較すれば幼い姿だったがコロコロの子犬といった姿ではなかった。それでもオトーサンたちにとっては可愛いのだ。
人間がワンコと共存し始めたきっかけにはさまざまな説があるが、成功した大きな要因はワンコが持っている社会性にあるという。そしてこのワンコと人間との共存関係は決して人間側からだけのアプローチではなかったらしい...。
人間が太古の昔に狼を飼い慣らしたというこれまでの定説はそのまま鵜呑みにはできない。なぜなら人の回りに集まって来た段階ですでにワンコは狼ではなく犬であったというのが最近の説のようだが、どうやら人がワンコを可愛いと思い、役に立つと考えて飼い始めたという事実の反面、我々人間がワンコに捕まってしまったのだという考え方もあるのだ(笑)。そもそもワンコの出現は信じられているよりはるかに古く、当時からワンコは狼より人間と親しかったそうだ。
その「THE TRUTH ABOUT DOGS (犬の科学)」によれば「彼ら(犬)は、人間の回りをうろつくことを選択し、そうすることによって、自分自身の起源となった相手(狼)から、自分の意志で、自らを隔絶した。彼らは、雇われたのでもなく、奴隷でもない。あるいは招かれた客人でもない。彼らは、パーティー会場(人間社会)に押しかけ、もぐりこみ、決して立ち去ることはなかったのである」とは言い得て妙ではないか(括弧内はオトーサン加筆)。

※オトーサンの指を噛まず、上手にオヤツを食べるラテ
ではそんな押しかけ女房みたいなワンコと人間はなぜ一緒に暮らすことを選んだのか。実利面はともかく、その大きな要因としてはやはり我々人間がどのようなものに対しても意志や動機があると思いたがる擬人化の心理にあるらしい。我々はワンコは勿論、パソコンであっても身近な物の中に人間と同様な意志があると思いがちな心理を持っている...。ましてや高度な知能を持っているワンコに対し当然そうした心理が働かないわけはない。
イギリスの動物行動学者、ジョン・S・ケネディは我々はまさに「強迫的擬人観念愛好者」だと言っているそうだが、我々は回りの全てのものの中に人間と同様な意志を探し求め、それらと本能的にコミュニケーションを取りたいと願っている生き物なかも知れない。
ワンコたちはこの人間たちの抗しきれない弱点を察知し、自然淘汰を生き抜くせための選択肢のひとつとして人間との共存を選んだ。そして繰り返すが狼時代から受け継いだ社会的序列を受け入れる資質を持っていたことが人間社会にとけ込むためには大きくプラスに働いたということらしい...。
ともかくオトーサンが何故ラテを可愛いと思うのか、それは理窟ではなくオトーサンのDNAに組み込まれているからであり、オトーサンが人間である証拠なのだ(笑)。
そのラテはといえば、リビングにフリースの敷物を好きな場所に広げ、その上でガムを噛みながら時々オトーサンの方に色目を使う(笑)。そのサインは「遊んで欲しい」とか「おやつ頂戴」に違いないわけだが、問題はその誘いをいつまでオトーサンが無視できるかなのだ(爆)。