Apple日本上陸におけるキヤノン販売の英断を考察する
過日、ある取引先の方との雑談の中で「どういう経緯でキヤノン販売がAppleの日本総代理店をやることになったのでしょうか…」といった質問を受けた。確かに当時(1983年)の状況、例えば翌年登場するMacintoshにしても日本語は使えなかった。そんな状況でキヤノン側の総代理店権取得の判断は当時としても期待と共に無謀ではないか…という意見も多かったことを思い出した。
我が国でAppleおよびその製品を最初に知らしめ流通させた功績は間違いなく東京の本郷にあったイーエスディラボラトリ社である。
なにしろ社長の水島氏は1977年の4月に米国西海岸で開催されたWCCFすなわちウエストコースト コンピュータフェアのアップルブースでスティーブ・ジョブズに袖を引かれたのが縁でApple IIを日本で販売することになったという経緯がある。
同社はその後日本の総代理店という立場で販売およびサポート、そして啓蒙活動を続けてきたがApple自体が大きくなるにつれ日本市場への考え方も変わってきたことからアップルジャパンの設立と時を同じくして、不本意にもキヤノン販売に総販売元の座を譲ることになってしまう...。
しかし日本におけるApple製品のマーケットは現在では想像ができないほど小さなものだった。その要因のひとつは日本語環境に注視していなかったこと、そして販売価格が他の日本製パソコンと比較してかなり高価だったことがあげられる。何しろApple製パソコン購入は自動車の購入と比べられた時代だったのである。
そうした状況下において1983年当時、キヤノン販売がアップルジャパンの総代理店となり、日本のマーケットを牛耳ると報道されたとき、一般ユーザーはその契約ノルマなど知る由もなかったものの、「キヤノンは大丈夫か?」「すぐに頓挫するのでは…」と危惧する声も多かった。
私は1997年に当時アップルジャパンの志賀社長の肝いりで開催されたディラーやディストリビューターあるいはデベロッパを含む「社長会」にエーアンドエー社長(当時)の新庄宗昭氏と共に進行役を仰せつかった。そのときキヤノテック社の代表取締役社長だった前田達重氏と名刺交換する機会をいただき、極短い時間ながらアップルとのビジネス苦労話をお聞きした。

※当時、キヤノテック社代表取締役社長、前田達重氏(左)と名刺交換する筆者(右)
前田氏は後述するキヤノン販売時代に滝川精一社長の直属としてアップル部門の責任者でもあった。それによればアップルジャパンに幾度となく怒鳴り込んだこともあるし、Appleとのビジネスを投げ出したくなったこともあったという(笑)。ちなみに後日資料を調べていて気がついたが、キヤノン販売の本部長時代...具体的には1990年に前田氏とは1度名刺交換していることがわかった...。

※キヤノン販売(株)本部長時代の1990年にいただいた前田達重氏の名刺
ともあれその日本におけるAppleビジネスに関して数少ない情報は斎藤由多加著「林檎の樹の下で~アップル日本上陸の軌跡」に詳しいが、当初キヤノン販売社長だった滝川精一氏とアップルジャパン社長の福島正也氏が出会い、キヤノン販売がMacをはじめとするApple製品を国内販売するという経緯がなぜこれほどスムーズに実現できたのか…に興味を持った。

※斎藤由多加著「林檎の樹の下で~アップル日本上陸の軌跡」(アスキー出版局刊)初版表紙
今回は「林檎の樹の下で」の他に、滝川精一氏著「起業家スピリット―逃げるな、嘘をつくな、数字に強くなれ」およびルイス・クラー著「日本の異端経営者―キヤノンを世界に売った男・滝川精一」という著書をベースにしてアップルとキヤノンの出会いとその背景を覗いてみたい。
ところでアップルジャパンとキヤノン販売という2つの会社を結びつけたのはよくある話だが…銀行だった。
アップルジャパンが設立された際、その取引銀行だった東京銀行が国内のディストリビュータを探したいというアップルの意向を受けリストアップした23社の中にキヤノン販売があったのだ…。銀行側が知り得た情報ではキヤノン販売もまた新規事業を模索しているということだった。
この頃、キヤノン販売は滝川社長の陣頭指揮が功を奏し1983年6月に念願の1部上場を果たしたばかりだった。
その翌月、キヤノン販売本社ビルにある社長専用応接室に仲介の銀行担当者と共にアップルジャパン 福島社長、アップルジャパン設立準備のため米国本社から派遣されていビル・ションフェルド (正式名は William J. Schonfeld) の姿があった。
ションフェルドはあくまでアップルジャパン設立準備という限定された期間、日本で奔走した人物故、一般ユーザーには馴染みのない人物かも知れない。しかし私が1983年5月30日にイーエスディラボラトリでApple IIeを購入した際の製品保証書にはいみじくも彼の名とサインがあり当時の状況が読み取れる。


※1983年5月30日付、イーエスディラボラトリの製品保証書(上)と発行者部位拡大(下)
それにはアップルジャパン株式会社 設立準備オフィスとはっきり印刷され、住所は千代田区九段南2丁目にある松岡九段ビル 202となっている。いわゆる当時アップルの広報や販売戦略を一手に請け負っていた井之上パブリックリレーションズ社に間借りした状態でアップルジャパンはスタートしたのである。そしてその責任者名とサインがまさしくWilliam J. Schonfeldすなわちビル・ションフェルドであった。


※千代田区九段にある松岡九段ビルがアップルジャパンの設立準備オフィスだった
ちなみにションフェルドは母親が日本人であり、高校時代までを横浜で過ごした経歴の持ち主で勿論日本語が話せたことも大きく買われたようだ。
このキヤノン販売の本社応接室で初めて福島社長はキヤノン販売社長の滝川社長と挨拶し面談する機会を得た。そして頃合いを見計らい福島社長は用件を切り出した。
それは無論「是非キヤノン販売さんにアップルの日本における総販売元になってもらえないか…」という要請だった。
福島社長は話の流れで、なぜアップルがキヤノン販売を選んだのかという理由、Appleの現在状況、すなわち翌年発表予定のLisa安価版後継機種(Mac)の話しなどを説明する。
その直後、福島社長は自分の耳を疑うことになる。
なぜなら滝川社長はまるで二つ返事のように「わかりました。ではやりましょう」と答えたからだ。
前記「林檎の樹の下で」には聞き返す福島社長に滝川社長は自社一部上場後の新規事業の一環としてアンテナショップ的な直営店(ゼロワンショップ)開設の構想を説明し、キヤノン販売にとっても今回の話は渡りに舟だと話すシーンが描かれている。
滝川社長の返事…即答のような了承は福島社長にとって飛び上がらんばかりに嬉しい決断だったが、それは英断というより極めて奇妙なものだった。なぜならキヤノン販売…いや滝川社長もAppleという会社の存在は当然知っていたはずだが、取引に当たり正規な調査や審査もせず、ましてやビジネスにとって重要な条件面の話などなにひとつされていない状態でのOKという返事だったからだ。
後で分かったことだというが、実は福島社長は3~4時間にもわたるプレゼンテーションを用意し、前記した銀行の紹介状を携えてこの場に臨んだのだ。しかし初対面の挨拶をしてまだ30分ほどしか経っていなかった。
喜びながらも戸惑っている福島社長に滝川社長は「その辺の詳細は、今後詰めていきましょう」といいつつも日本語化について責任を持って進めてくれるよう言及することを忘れなかった…。
そして同年10月6日付けの朝日新聞朝刊一面に「アップル社がキヤノンと提携」と発表され同月11日にホテルオークラで合同記者会見が行われた。
ではなぜキヤノン販売の滝川社長は初対面のアップルの申し出を快諾したのだろうか。自分たちにとっても “渡りに舟” とはどういう意味なのだろうか…。
「フォーチュン」編集委員ルイス・クラー著「日本の異端経営者からキヤノンを世界に売った男・滝川精一」には滝川自身「アップルの提案は、一番大切な時期に天から降ってきた贈り物のようなものだった」と振り返りつつ、続けて「私には福島氏が天からの使いのように見えた」と記している。

※ルイス・クラー著「日本の異端経営者からキヤノンを世界に売った男・滝川精一」(日経BP出版センター刊)表紙
じつはそれまで脆弱な子会社であったキヤノン販売を活性化するため、1977年にキヤノンUSAを日系トップ企業に育て上げた滝川精一氏が社長となり、東証一部上場を目標に社員たちを鼓舞し拡大路線をとった。そして前記したように1983年6月に念願の1部上場を果たしたばかりだった。ただ問題は親会社であるキヤノンとの上場の条件が立ちふさがっていた…。
それは上場にあたり、キヤノン販売に限らずグループ内の企業が上場するときには売上高の30%程度が独自の事業によるものでなければならないというガイドラインが決められていた。しかしキヤノン販売がそれまでのようにキヤノン製品だけを売っている限りガイドラインを守ることはむずかしい。そこで滝川社長は3つの新規事業を起こすことを考えた。それらが「既存の販売チャネルで行なえる外国製品の輸入販売事業」「ソフトウエアの販売・開発事業」そして「アンテナショップ機能も含めた上記輸入商品およびソフトウエア販売を行うためのゼロワンショップの展開」だ。
アップルジャパンの福島社長が持ち込んだ話は滝川社長が考えていた「既存の販売チャネルで行なえる外国製品の輸入販売事業」にピッタリだと直感したのである…。これからどこの企業と契約し、何を売るべきかを検討するには膨大な時間がかかると考えていたことが向こうから頭を下げてやってきたのだから滝川社長が喜んだのも頷ける。
その後、滝川社長はApple本社に出向きスティーブ・ジョブズおよびジョン・スカリーらとの最終協議を重ねた。勿論協議の要点はキヤノン販売側の販売ノルマと卸値であったが、これがなかなか難しかったようだ。
「日本の異端経営者からキヤノンを世界に売った男・滝川精一」で滝川社長は「ジョブズ氏は賢明な人ではあったが、日本における販売網を確立するために2,3年多額の投資をして、その後ようやく利益が生まれる、ということが理解できなかったのである」といっている。
そして何といってもネックは日本語仕様のパソコンが当たり前の時代になっていたにも関わらずMacやApple IIはこれまでその必要性すら討議されていなかったことであった...。
話が噛み合わず、お互いの声が大きくなり堂々巡りになった頃、スカリーがまとめ役になり両社の妥協点を見いだしてくれたという。ただし滝川精一著「起業家スピリット」によれば、その後クパチーノに点在するAppleの開発部門を見学した際、ジョブズは先ほどの口論などなかったように滝川社長らに笑顔を送ったという。
結局滝川社長は3年以内に少なくとも1億ドル相当のアップル製品を日本で販売することを約束し、3年間の日本総代理店契約を結んだ。

※滝川精一著「起業家スピリット〜逃げるな、嘘をつくな、数字に強くなれ」(MOMA総研刊)表紙
これがキヤノン販売とAppleとの蜜月の始まりだが、我々にも十分想像できるように実際のビジネスは順風満帆ではなかった。それらについては今後も情報を集めてまとめてみたいと思っているが、今回あらためてキヤノンという企業の特殊性に納得した...。
何故なら前記したようにキヤノン販売の滝川社長はカリスマ性も含め日本の経営者としては異端者であると評価されていたが、それを許し、彼が能力を100%以上発揮できたのは何といってもキヤノンという企業そのものが柔軟で独創的な企業文化を持っていたからに違いない。
そういえば私が1989年に起業したMacintosh用ソフトウェア開発を専門とする超マイクロ企業にアップルジャパンの紹介だったとはいえ最初に声をかけてくれ、正式な取引契約を結んだ大企業はキヤノン販売およびキヤノンが最初だった。
カラービデオプリンタ、スチルカメラ、ビデオプロセッサ、カラーコピー機、ビデオカメラといった汎用製品をMacintoshからコントロールするアプリケーション開発を多々請け負った上得意の企業だった。
さらに…特に札幌を起点としたキヤノン販売やゼロワンショップから多くのプレゼンや講演あるいはセミナーといった依頼も舞い込み、それこそ一時期の私は会社の椅子にゆっくりと座る時間もなく全国を飛び回っていた。
その間で体験したことだが、当時のキヤノン販売やキヤノンの担当者らは皆紳士・淑女で我々のような「どこの馬の骨」かも分からない生まれたてのマイクロ企業を信頼していただき、気持ちの良い取引をさせていただいた。そして印象的なのはよくある話のように大企業の看板を振りかざし、外注先や取引先を見下すといった態度は微塵も無かった。
応接室などない私たちの狭い事務所に8人もの営業や技術者らが集まり、ほとんどが立ち見の有様で私たちのプレゼンを真摯な態度で見聞きしてくれたことを昨日のことのように覚えている。無論現在の状況は知る由もないが、当時はこれもキヤノンの企業文化の成せるわざなのだと常々感心していたものだ。
今思えば、キヤノン販売が私らのような超マイクロ企業と付き合ったのも前記した新規事業のうちのひとつ「ソフトウエアの販売・開発事業」に関わる重要課題だったからに違いない。すなわち私の会社で開発したキヤノン製ハードウェアをMacintoshで活用するアプリケーションパッケージの中にはキヤノン販売が全国に流通させた製品もあったのである。


※私は1991年キヤノン販売からの依頼でスティルビデオカメラを主題にMacのグラフィック能力を紹介したカタログをプロデュースした。上はその表紙と下は内容の一部だが【クリックで拡大】、当時の主なグラフィックソフトの多くが私の会社で開発した製品だった(赤丸のプロダクト)
とはいえ余計なことだが後年状況も些か変わってきたように思う。なぜならキヤノンのとある部署の営業マンが初対面の挨拶時に「あなたがコーシンの松田さんですか…」と声をかけたあと、至極失礼で生意気な一言をいったとき、私は極力柔らかい語調を意識しながらかつ周りに聞こえるように「あなたはキヤノンの社員らしくないですね。マックの市場にしても御社ひとりで大きくなったと思ったら大間違いですよ。○○さんや××さんに聞いてご覧なさい。これまでの彼らのご苦労を無にするような言動は慎むべきでしょう」と言ってやった。その真意が伝わったのかは不明だが、次に会ったときには苦笑するほど態度が一変していたのを懐かしく思い出す(笑)。
それにしても今回のシーンからすでに30年が経ち福島正也氏、前田達重氏、ビル・ションフェルド氏、そしてスティーブ・ジョブズ氏も鬼籍に入ってしまった。こればかりは仕方のない事とはいえなんとも寂しく残念なことである…。
【主な参考資料】
・斎藤由多加著「林檎の樹の下で~アップル日本上陸の軌跡」
・ルイス・クラー著「日本の異端経営者からキヤノンを世界に売った男・滝川精一」
・滝川精一氏著「起業家スピリット―逃げるな、嘘をつくな、数字に強くなれ」
我が国でAppleおよびその製品を最初に知らしめ流通させた功績は間違いなく東京の本郷にあったイーエスディラボラトリ社である。
なにしろ社長の水島氏は1977年の4月に米国西海岸で開催されたWCCFすなわちウエストコースト コンピュータフェアのアップルブースでスティーブ・ジョブズに袖を引かれたのが縁でApple IIを日本で販売することになったという経緯がある。
同社はその後日本の総代理店という立場で販売およびサポート、そして啓蒙活動を続けてきたがApple自体が大きくなるにつれ日本市場への考え方も変わってきたことからアップルジャパンの設立と時を同じくして、不本意にもキヤノン販売に総販売元の座を譲ることになってしまう...。
しかし日本におけるApple製品のマーケットは現在では想像ができないほど小さなものだった。その要因のひとつは日本語環境に注視していなかったこと、そして販売価格が他の日本製パソコンと比較してかなり高価だったことがあげられる。何しろApple製パソコン購入は自動車の購入と比べられた時代だったのである。
そうした状況下において1983年当時、キヤノン販売がアップルジャパンの総代理店となり、日本のマーケットを牛耳ると報道されたとき、一般ユーザーはその契約ノルマなど知る由もなかったものの、「キヤノンは大丈夫か?」「すぐに頓挫するのでは…」と危惧する声も多かった。
私は1997年に当時アップルジャパンの志賀社長の肝いりで開催されたディラーやディストリビューターあるいはデベロッパを含む「社長会」にエーアンドエー社長(当時)の新庄宗昭氏と共に進行役を仰せつかった。そのときキヤノテック社の代表取締役社長だった前田達重氏と名刺交換する機会をいただき、極短い時間ながらアップルとのビジネス苦労話をお聞きした。

※当時、キヤノテック社代表取締役社長、前田達重氏(左)と名刺交換する筆者(右)
前田氏は後述するキヤノン販売時代に滝川精一社長の直属としてアップル部門の責任者でもあった。それによればアップルジャパンに幾度となく怒鳴り込んだこともあるし、Appleとのビジネスを投げ出したくなったこともあったという(笑)。ちなみに後日資料を調べていて気がついたが、キヤノン販売の本部長時代...具体的には1990年に前田氏とは1度名刺交換していることがわかった...。

※キヤノン販売(株)本部長時代の1990年にいただいた前田達重氏の名刺
ともあれその日本におけるAppleビジネスに関して数少ない情報は斎藤由多加著「林檎の樹の下で~アップル日本上陸の軌跡」に詳しいが、当初キヤノン販売社長だった滝川精一氏とアップルジャパン社長の福島正也氏が出会い、キヤノン販売がMacをはじめとするApple製品を国内販売するという経緯がなぜこれほどスムーズに実現できたのか…に興味を持った。

※斎藤由多加著「林檎の樹の下で~アップル日本上陸の軌跡」(アスキー出版局刊)初版表紙
今回は「林檎の樹の下で」の他に、滝川精一氏著「起業家スピリット―逃げるな、嘘をつくな、数字に強くなれ」およびルイス・クラー著「日本の異端経営者―キヤノンを世界に売った男・滝川精一」という著書をベースにしてアップルとキヤノンの出会いとその背景を覗いてみたい。
ところでアップルジャパンとキヤノン販売という2つの会社を結びつけたのはよくある話だが…銀行だった。
アップルジャパンが設立された際、その取引銀行だった東京銀行が国内のディストリビュータを探したいというアップルの意向を受けリストアップした23社の中にキヤノン販売があったのだ…。銀行側が知り得た情報ではキヤノン販売もまた新規事業を模索しているということだった。
この頃、キヤノン販売は滝川社長の陣頭指揮が功を奏し1983年6月に念願の1部上場を果たしたばかりだった。
その翌月、キヤノン販売本社ビルにある社長専用応接室に仲介の銀行担当者と共にアップルジャパン 福島社長、アップルジャパン設立準備のため米国本社から派遣されていビル・ションフェルド (正式名は William J. Schonfeld) の姿があった。
ションフェルドはあくまでアップルジャパン設立準備という限定された期間、日本で奔走した人物故、一般ユーザーには馴染みのない人物かも知れない。しかし私が1983年5月30日にイーエスディラボラトリでApple IIeを購入した際の製品保証書にはいみじくも彼の名とサインがあり当時の状況が読み取れる。


※1983年5月30日付、イーエスディラボラトリの製品保証書(上)と発行者部位拡大(下)
それにはアップルジャパン株式会社 設立準備オフィスとはっきり印刷され、住所は千代田区九段南2丁目にある松岡九段ビル 202となっている。いわゆる当時アップルの広報や販売戦略を一手に請け負っていた井之上パブリックリレーションズ社に間借りした状態でアップルジャパンはスタートしたのである。そしてその責任者名とサインがまさしくWilliam J. Schonfeldすなわちビル・ションフェルドであった。


※千代田区九段にある松岡九段ビルがアップルジャパンの設立準備オフィスだった
ちなみにションフェルドは母親が日本人であり、高校時代までを横浜で過ごした経歴の持ち主で勿論日本語が話せたことも大きく買われたようだ。
このキヤノン販売の本社応接室で初めて福島社長はキヤノン販売社長の滝川社長と挨拶し面談する機会を得た。そして頃合いを見計らい福島社長は用件を切り出した。
それは無論「是非キヤノン販売さんにアップルの日本における総販売元になってもらえないか…」という要請だった。
福島社長は話の流れで、なぜアップルがキヤノン販売を選んだのかという理由、Appleの現在状況、すなわち翌年発表予定のLisa安価版後継機種(Mac)の話しなどを説明する。
その直後、福島社長は自分の耳を疑うことになる。
なぜなら滝川社長はまるで二つ返事のように「わかりました。ではやりましょう」と答えたからだ。
前記「林檎の樹の下で」には聞き返す福島社長に滝川社長は自社一部上場後の新規事業の一環としてアンテナショップ的な直営店(ゼロワンショップ)開設の構想を説明し、キヤノン販売にとっても今回の話は渡りに舟だと話すシーンが描かれている。
滝川社長の返事…即答のような了承は福島社長にとって飛び上がらんばかりに嬉しい決断だったが、それは英断というより極めて奇妙なものだった。なぜならキヤノン販売…いや滝川社長もAppleという会社の存在は当然知っていたはずだが、取引に当たり正規な調査や審査もせず、ましてやビジネスにとって重要な条件面の話などなにひとつされていない状態でのOKという返事だったからだ。
後で分かったことだというが、実は福島社長は3~4時間にもわたるプレゼンテーションを用意し、前記した銀行の紹介状を携えてこの場に臨んだのだ。しかし初対面の挨拶をしてまだ30分ほどしか経っていなかった。
喜びながらも戸惑っている福島社長に滝川社長は「その辺の詳細は、今後詰めていきましょう」といいつつも日本語化について責任を持って進めてくれるよう言及することを忘れなかった…。
そして同年10月6日付けの朝日新聞朝刊一面に「アップル社がキヤノンと提携」と発表され同月11日にホテルオークラで合同記者会見が行われた。
ではなぜキヤノン販売の滝川社長は初対面のアップルの申し出を快諾したのだろうか。自分たちにとっても “渡りに舟” とはどういう意味なのだろうか…。
「フォーチュン」編集委員ルイス・クラー著「日本の異端経営者からキヤノンを世界に売った男・滝川精一」には滝川自身「アップルの提案は、一番大切な時期に天から降ってきた贈り物のようなものだった」と振り返りつつ、続けて「私には福島氏が天からの使いのように見えた」と記している。

※ルイス・クラー著「日本の異端経営者からキヤノンを世界に売った男・滝川精一」(日経BP出版センター刊)表紙
じつはそれまで脆弱な子会社であったキヤノン販売を活性化するため、1977年にキヤノンUSAを日系トップ企業に育て上げた滝川精一氏が社長となり、東証一部上場を目標に社員たちを鼓舞し拡大路線をとった。そして前記したように1983年6月に念願の1部上場を果たしたばかりだった。ただ問題は親会社であるキヤノンとの上場の条件が立ちふさがっていた…。
それは上場にあたり、キヤノン販売に限らずグループ内の企業が上場するときには売上高の30%程度が独自の事業によるものでなければならないというガイドラインが決められていた。しかしキヤノン販売がそれまでのようにキヤノン製品だけを売っている限りガイドラインを守ることはむずかしい。そこで滝川社長は3つの新規事業を起こすことを考えた。それらが「既存の販売チャネルで行なえる外国製品の輸入販売事業」「ソフトウエアの販売・開発事業」そして「アンテナショップ機能も含めた上記輸入商品およびソフトウエア販売を行うためのゼロワンショップの展開」だ。
アップルジャパンの福島社長が持ち込んだ話は滝川社長が考えていた「既存の販売チャネルで行なえる外国製品の輸入販売事業」にピッタリだと直感したのである…。これからどこの企業と契約し、何を売るべきかを検討するには膨大な時間がかかると考えていたことが向こうから頭を下げてやってきたのだから滝川社長が喜んだのも頷ける。
その後、滝川社長はApple本社に出向きスティーブ・ジョブズおよびジョン・スカリーらとの最終協議を重ねた。勿論協議の要点はキヤノン販売側の販売ノルマと卸値であったが、これがなかなか難しかったようだ。
「日本の異端経営者からキヤノンを世界に売った男・滝川精一」で滝川社長は「ジョブズ氏は賢明な人ではあったが、日本における販売網を確立するために2,3年多額の投資をして、その後ようやく利益が生まれる、ということが理解できなかったのである」といっている。
そして何といってもネックは日本語仕様のパソコンが当たり前の時代になっていたにも関わらずMacやApple IIはこれまでその必要性すら討議されていなかったことであった...。
話が噛み合わず、お互いの声が大きくなり堂々巡りになった頃、スカリーがまとめ役になり両社の妥協点を見いだしてくれたという。ただし滝川精一著「起業家スピリット」によれば、その後クパチーノに点在するAppleの開発部門を見学した際、ジョブズは先ほどの口論などなかったように滝川社長らに笑顔を送ったという。
結局滝川社長は3年以内に少なくとも1億ドル相当のアップル製品を日本で販売することを約束し、3年間の日本総代理店契約を結んだ。

※滝川精一著「起業家スピリット〜逃げるな、嘘をつくな、数字に強くなれ」(MOMA総研刊)表紙
これがキヤノン販売とAppleとの蜜月の始まりだが、我々にも十分想像できるように実際のビジネスは順風満帆ではなかった。それらについては今後も情報を集めてまとめてみたいと思っているが、今回あらためてキヤノンという企業の特殊性に納得した...。
何故なら前記したようにキヤノン販売の滝川社長はカリスマ性も含め日本の経営者としては異端者であると評価されていたが、それを許し、彼が能力を100%以上発揮できたのは何といってもキヤノンという企業そのものが柔軟で独創的な企業文化を持っていたからに違いない。
そういえば私が1989年に起業したMacintosh用ソフトウェア開発を専門とする超マイクロ企業にアップルジャパンの紹介だったとはいえ最初に声をかけてくれ、正式な取引契約を結んだ大企業はキヤノン販売およびキヤノンが最初だった。
カラービデオプリンタ、スチルカメラ、ビデオプロセッサ、カラーコピー機、ビデオカメラといった汎用製品をMacintoshからコントロールするアプリケーション開発を多々請け負った上得意の企業だった。
さらに…特に札幌を起点としたキヤノン販売やゼロワンショップから多くのプレゼンや講演あるいはセミナーといった依頼も舞い込み、それこそ一時期の私は会社の椅子にゆっくりと座る時間もなく全国を飛び回っていた。
その間で体験したことだが、当時のキヤノン販売やキヤノンの担当者らは皆紳士・淑女で我々のような「どこの馬の骨」かも分からない生まれたてのマイクロ企業を信頼していただき、気持ちの良い取引をさせていただいた。そして印象的なのはよくある話のように大企業の看板を振りかざし、外注先や取引先を見下すといった態度は微塵も無かった。
応接室などない私たちの狭い事務所に8人もの営業や技術者らが集まり、ほとんどが立ち見の有様で私たちのプレゼンを真摯な態度で見聞きしてくれたことを昨日のことのように覚えている。無論現在の状況は知る由もないが、当時はこれもキヤノンの企業文化の成せるわざなのだと常々感心していたものだ。
今思えば、キヤノン販売が私らのような超マイクロ企業と付き合ったのも前記した新規事業のうちのひとつ「ソフトウエアの販売・開発事業」に関わる重要課題だったからに違いない。すなわち私の会社で開発したキヤノン製ハードウェアをMacintoshで活用するアプリケーションパッケージの中にはキヤノン販売が全国に流通させた製品もあったのである。


※私は1991年キヤノン販売からの依頼でスティルビデオカメラを主題にMacのグラフィック能力を紹介したカタログをプロデュースした。上はその表紙と下は内容の一部だが【クリックで拡大】、当時の主なグラフィックソフトの多くが私の会社で開発した製品だった(赤丸のプロダクト)
とはいえ余計なことだが後年状況も些か変わってきたように思う。なぜならキヤノンのとある部署の営業マンが初対面の挨拶時に「あなたがコーシンの松田さんですか…」と声をかけたあと、至極失礼で生意気な一言をいったとき、私は極力柔らかい語調を意識しながらかつ周りに聞こえるように「あなたはキヤノンの社員らしくないですね。マックの市場にしても御社ひとりで大きくなったと思ったら大間違いですよ。○○さんや××さんに聞いてご覧なさい。これまでの彼らのご苦労を無にするような言動は慎むべきでしょう」と言ってやった。その真意が伝わったのかは不明だが、次に会ったときには苦笑するほど態度が一変していたのを懐かしく思い出す(笑)。
それにしても今回のシーンからすでに30年が経ち福島正也氏、前田達重氏、ビル・ションフェルド氏、そしてスティーブ・ジョブズ氏も鬼籍に入ってしまった。こればかりは仕方のない事とはいえなんとも寂しく残念なことである…。
【主な参考資料】
・斎藤由多加著「林檎の樹の下で~アップル日本上陸の軌跡」
・ルイス・クラー著「日本の異端経営者からキヤノンを世界に売った男・滝川精一」
・滝川精一氏著「起業家スピリット―逃げるな、嘘をつくな、数字に強くなれ」
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