1990年ラフォーレミュージアム飯倉でのJDC

私が会社を興し、事実上活動を開始した1990年、港区麻布にあるラフォーレミュージアム飯倉でApple Computer Japan Developer's Conference '90(JDC)が開催された。アップルからは参加だけでなく、出演を求められた我々だったがアンバランスで奇異な記憶がよみがえる...(笑)。


1990年7月12日と13日の両日、それまでそんなしゃれた場所には行ったことがないラフォーレミュージアム飯倉へ出向いた私は妙にそわそわしていた。
確かJDCはこの年で2回目だったと思うが、起業して一年足らず...実稼働では半年足らずの超マイクロ企業がテクニカルセッションの「アドバンテージコーナー」へ新製品の事例紹介として講演することになったのだ...。

いま手元に数枚の写真とアップルが当日配布したパンフレットが残っている。そのプログラム内容を前回(2月27日付で)ご紹介した1993年のJDCと比較するとシンプルさが特に目立つ内容となっている。やはり時代的なことも含めて、ネタが少なかったと思われる(笑)。

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※1990年7月12日に配布された「Apple Computer Japan Developer's Conference '90」パンフレット表紙


ラフォーレミュージアム飯倉の会場は約800人収容の会場をマーケティング・セッション会場とし、500人収容の小さな会場をテクニカル・セッション会場として平行したプログラムが実施された。

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※1990年7月12日に配布された「Apple Computer Japan Developer's Conference '90」パンフレット見開きのプログラムと会場案内図


初日の10時にアップルコンピュータ社の社長挨拶とあるが、往時は誰だったのだろうか(笑)。そこに名前がないのも奇妙な話だが...。
基調講演ならぬ記念講演が続けて行われ、当時放送教育開発センター助教授だった浜野保樹氏が1時間半の講演を行った。
その後ランチタイムを挟み、マーケティング・セッション会場では「海外製品のローカライズの方法及び手順」がApple Pacificおよびアップルコンピュータジャパンにより、そして平行してテクニカル・セッション会場では(株)データコム社とアップルコンピュータジャパンによりそれぞれ2時間枠でセッションが行われた。
ちなみに当時アップルはアップルコンピュータジャパン(株)という社名だったが、日本市場は独立したものではなくパシフィックと称したオーストラリアなどと一緒の市場に分類されていた時期だった。
その後、20分のコーヒーブレイクの後にマーケティング・セッション会場では「海外製品のローカライズの実際」と題して(株)システムソフト、 (株)SRAそして(株)サムシンググッドが自社の体験と取り組みなどを紹介した。
同時にテクニカル・セッション会場では「漢字Talk6.0.4の新しい機能及び今後の方向性」と題するセッションがアップル担当者により行われていた。
一日目は実質これだけだ。繰り返すが3年後のJDCプログラムと比較すると非常に単純である。しかも、本来日本のデベロッパを育成するためのJDCにおいて、そのメインとなる話題がローカライズであったことは時代を物語る。
「自社(日本での)開発のソフトを市場に!」ではなく、いかに欧米の有用なソフトを日本語対応させてマーケットに出せるかが注目されていたわけだ。無論、ひとつはこのローカライズがビジネスになるという時期であったわけだが、日本人の手によるオリジナルソフトウェアの開発がいかに難しいかをアップル自身が認めていた時代だったともいえる。

二日目はマーケティング・セッション会場で「WWDCの報告」と同時に、テクニカル・セッション会場では「マッキントッシュ・アドバンテージ・コーナー」と題する事例紹介が行われていたが、実はこのセッション担当企業が富士ゼロックス社と私の会社だった。
申し上げるまでもなく、富士ゼロックスは1962年に富士写真フイルムと英国 ランク・ゼロックスとの合弁会社としてスタートした企業であり、我が国有数の巨大な会社だ。片や当方は生まれたばかりの赤ん坊企業であり、株式会社ではあっても当時スタッフは私を含めてたったの3人...(笑)。私でなくても、晴れがましい思いと同時に何か場違いな居心地の悪さを感じたとしても責められないだろう...。
では何故、こんな超マイクロ企業がステージに立つことができたかといえば、その年の春のビジネスショーでデビューしたVideoMagician IIという自社開発デジタルビデオ・ソフトウェアが注目されていたからだ。ちなみにQuickTimeは翌年の1991年5月にならなければ登場せず、当時VideoMagican IIはMacintoshというよりパソコンによるコンシューマ向け唯一のデジタルビデオ・システムだったのである。
我々に与えられた時間は45分程度だったが、最初に私が壇上に上り、次に相棒の小池邦人氏(現有限会社オッティモ 代表取締役)がデモを行うといった形式だった。客席最前列には友人知人たちが座り「3分に一回は笑いを取れ」とプレッシャーをかけていたが、笑ってくれたのは...最前列の当人たちだけだった...(笑)。

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※ラフォーレミュージアム飯倉に於けるJDC '90のテクニカル・セッション会場における私の講演


しかし、前記したようにWWDCの報告セッションが平行して行われていたにもかかわらず、我々のセッションには多くの方たちが集まってくださり、500の席はほぼ満席だった。
まあ感覚としては、あっという間の出来事だったが、5月のビジネスショーが一般ユーザーに対するデビューであるとするなら、このApple Computer Japan Developer's Conference '90の場は、同業者の方々への最初のアピールだった。

さてその二日目の午後だが、マーケティング・セッション会場ではキヤノン販売(株)、関東電子(株)とアップルで「ディーラーの期待する製品像」、そしてテクニカル・セッション会場ではアップルによる「アップルの新しいフォント技術」というプログラムが行われた。
続いてこの日もコーヒーブレイクを挟み、マーケティング・セッション会場で当時月刊PowerMac誌の編集長 戸島国雄氏の司会によるパネル・ディスカッションが行われた。参加者は(株)ダイナウェア、(株)サムシンググッド、(株)システムソフト、そして(株)ビー・ユー・ジーの4社であった。

手元にあるApple Computer Japan Developer's Conference '90のパンフレットを見れば、日本市場が自己主張をし始めた時期だったことがわかる。その表紙には"日本"とカリグラフィを使ったデザインがなされている。この自己主張が2年後の漢字Talk7.1登場に際しその愛称として公募した結果が「おにぎり」だったように、少々外した企画が進むケースが多くなる(笑)。無論その愛称は一般に広まるはずもなかった...。
ともかくこの1990年は好むと好まざるとは問わず、我々の思惑とは別に会社や製品イメージが一人歩きし始めた年であるが、エキサイティングな時代であったことは確かである。
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Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員