ビジネス昔話〜私にとってのアップルジャパン
現在 “アップルジャパン” と呼ばれているアップルの日本法人は正確にはApple Japan合同会社だが、元となるアップルコンピュータジャパン(株)は1983年6月21日設立だからすでに32年経っている。その日本法人と文字通りの悪戦苦闘を繰り返したデベロッパーとして一昔前の話ではあるが「私にとってのアップルジャパン」を再考してみたい。
名前はともあれアップルジャパンは日本市場でビジネスを行う我々にとっての総本山である。単なるユーザーであれば製品の好き嫌い、あるいはユーザーサポートといっただけの付き合いで済むだろうが、ことビジネス上の付き合いとなればそのアプローチはもとより、考え方はがらりとシビアになって当然だ。
1989年にMac専門のソフトウェア開発を目的とした小さな...本当に小さな会社を起業した私は正直アップルジャパンという会社の存在を当然ながら知っていたものの関わり合いが生まれるとは夢にも考えていなかった。
我々はとある大企業からのソフトウェア開発依頼を契機に起業する機会を得たが、アップルとのパイプができるとは思いもよらなかったのである。

※デベロッパーとして頻繁にアップルジャパンに出入りし始めたのは本社が千駄ヶ谷に移ってからだ(1992年)
だから、我々がアップルに電話をして面会を求めたり、願い事をするというつもりもなかった。これまた予想もしなかったことだがキヤノン販売やソニーといった大企業からソフトウェア開発依頼が舞い込み、そのミッションを粛々とこなしていくことが使命となっていたし、それで超マイクロ企業は十分生きていけた時代だった。
とはいえ時代が...というと大げさで不遜に聞こえるかも知れないが、我々を必要としていた…。起業して早々にアップルからコンタクトがあり様々な部署、いろいろな担当者から依頼事が舞い込むようになった。ただし他の大企業からの依頼とは違い、アップルジャパンからの依頼はまずビジネスに直結せず金にならなかった(笑)。
アップルからの依頼事のひとつは他企業からの頼み事を我々に振るといった内容だった。「こんなことをMacで実現したい」とか「こうしたソフトウェア開発をやってくれる所を紹介して欲しい」といった内容のあれこれが日々アップルジャパンに舞い込むようになっていたからだ。まだまだ市場はいまと比較にならないような極小の世界だったが、少しずつではあったものの新しい市場の開発に希望を託してみたいという企業も出始めていた。
勿論アップルジャパンがそうした依頼事に直接手を下せるはずもなかった。彼らの使命は日本市場にMacを1台でも多く販売することだったが、製品を直販することはやっていなかった。Apple Storeもオンライン販売もなかったし当時は日本総代理店のキヤノン販売が国内市場を牛耳っていた。アップルジャパンはキヤノンの尻を叩き日本にアップルあるいはMacintoshという名を広め啓蒙し市場を広げる役割はあったものの,主な仕事は米国本社のミッションを消化し製品の輸入と流通の要をコントロールすることだった。

※当時のアップルジャパンと交わしたデベロッパー契約書(パートナー・シーディング・オプション)表紙
そういえばアップルジャパンの担当者は当時どこで我々の存在を知ったのだろうか。企業広告を打つといったことができる規模でもなかったし前記した理由でそのつもりもなかった。現在のようにインターネットもなくホームページで告知に努めるといったこともできない時代だった。
Mac専門誌やパソコン通信のNIFTY-Serveなどに載った私の個人的な名前を見てコンタクトしてくださる方も多かったし、後はキヤノンあたりからの情報だったに違いない...。
ともかくアップルジャパンからは「A社がこうしたアプリが欲しいとの依頼があるのでコンタクトしていただけませんか」といったことや「丸の内のB社の役員たちにMacintoshの可能性をアピールしたいのですがお手伝いいただけませんか」、あるいは「来月の○日に展示企画があるのですが、アップルのブースでデモをお願いできませんか」といったあれこれだった。また「アップルから紹介をいただいたので話しを聞いて欲しい」といった電話も多かった。
けち臭いと思われるかも知れないが、こうしたアップルからの依頼に乗っても日当や宿泊費は勿論、交通費もでなかった(笑)。「Macの市場が広がれば御社のようなソフトデベロッパーも大きくなるから...」といった誘いに終始していたのである。無論当時私もそうした可能性を望んでいたし、Mac専門のソフトウェア企業など他に存在しなかったから素直にその物言いを信じて依頼事のほとんどに対応していた。
生意気な言い方をするなら、当時私はアップルジャパンという存在を必要としていなかった。しかしアップルジャパンが我々を必要としていたのである。とはいえ例えばアップルジャパンのブース内で私の会社がソフトウェアの展示をするということは一般ユーザーから見ればアップル公認デベロッパーといったニュアンスを感じていただくことがあったに違いない。

※アップルからの依頼で同社ブースで初めて自社製品をプレゼンする筆者(1990年5月のビジネスショー)
看板もなく、実績もないできたばかりの超マイクロ企業にとって進んで...望んだわけでもないが、アップルジャパンは大きな表看板になってくれたのだった。
お陰様で仕事にあぶれることはないどころか、大企業からの依頼が多々舞い込んだし私はといえば北は北海道から南は山口県まで飛び回ることになり、会社の椅子に座っている間もないありさまだった。また会社にいればいたで取材に追われるという日が続いた。断るのに苦労したほどだ...。
アップルジャパンに対しては新製品開発の企画段階とβ版が出来上がった際に必ずプレゼンをさせていただくようになった。アップルに告知したところでアップル自身が製品を大量に買ってくれることなどあり得ないわけだが(1度だけあった)、情報を広めていただく縁になると考えたからだ。事実一時期 Performaへ私の会社の製品3種がバンドルされたのもそうした活動の成果に違いなかった。
ただし企業としてのアップルジャパン、我々の業界の総本山のアップルジャパンはいまひとつ当てに出来ないブラックな性格を持っていた。
普通に考えるならアップルジャパンは何の為に存在するのかは明白に思える。近視眼的に見てもデベロッパーリレーションズという担当部署があり、我々デベロッパーへのサービスや対応をしてくれたが彼らのサービスは中途半端だった。
よく我々デベロッパーが集まるとアップルに対する不満や文句が表面化した。「アップルジャパンって必要なのか?」「輸入して市場に流すだけならキヤノンに全面依頼すれば済むのでは」「日本市場は重要と繰り返しつつ我々の益になることなど考えているようには思えない」「なにかアップルジャパンにしてもらったことってある?」「こちらの希望や要望を積み重ねても何の動きもない」「せっかくパイプができたと思ったら担当者が辞めて、関係が初期化されたよ」「ゴルフのスポンサーになる余裕があるならもっと日本市場を活性化することに予算を使って欲しい」「新製品をリリースする前に我々デベロッパーに機材を提供してくれよ!」「だいたいアップルジャパンって何やってるの?」などなどという話しになるのが常だった(笑)。
そんな愚痴が重なっていく中で「アップルジャパン不要論」なる話しも面白可笑しく脚色されて出てきた。本社の顔色を伺っているだけで日本市場でマーケットを広げようとしているデベロッパーやディストリビュータたちの益になりそうなことへの支援やサポートは絶無に思えたからだ。繰り返すが、もしアップルジャパンがなくてもキヤノンなり日本市場を熟知した大企業がからめばきっといまよりマシな流通が実現するのではないか…といった思いが膨らんでいく。
とはいえ私個人の…私の会社に限って言えば色々と引っ張り回され失望も多かったがアップルジャパンがあったればこそ前に進めたことも多かった。
例えば日本市場におけるPerformaバンドルの契約はその内容はともあれアップルジャパンと我々デベロッパーとの間で締結した。しかしパッケージにQuickTimeといったコンポーネントを同梱したいと申請するもそれは米国本社と直接行う必要があった。
無論申請は英文だし決められた金額はバンクチェックを書留郵便で送付する必要があった。余裕を持って2ヶ月あまり前にそうした申請をしたにも関わらず1ヶ月が過ぎても梨のつぶてのときがあった。申請は基本的に通る内容のものだったから我々は新製品のパッケージの発売日を決めていた。しかし正式な許諾が降りなければQuickTimeを同梱した製品を市場に出せない。
現在のように電子メールをこうしたビジネスに活用できる時代ではなかったからやむなく督促をアップルジャパンの旧知の担当者に依頼した。驚いたことにその返事は我々の想像をはるかに超えていた。
なぜなら我々が送ったバンクチェックがアップル本社内で行方不明になったというのだ(笑)。幸い当該ビジネスの経緯はアップルの担当者に逐一連絡していたこともあり、どのように許諾を取り付けたのかは不明ながら口頭によるゴーサインをアップルジャパンから貰ってぎりぎり製品出荷を間に合わせることができた。
後年北海道に活動拠点を持つ企業の社長と話しをした際、やはり我々と同じ経験をしたことがあるという話しを聞いた。アップルはそうした会社だった。いや、この話しにはまだ後日談がある…。
数ヶ月後、私の会社にアップル本社のワールドワイド・デベロッパーを取り仕切る責任者が来訪された。アップルジャパンの担当者が来日の機会に紹介しようと連れてきたのだ。
必然的に数ヶ月前に経験したあってはならないこと、送ったバンクチェックを貴方の部下が紛失したという話しになった。一応済んだ話しだから私も深刻な会話ではなく笑顔を絶やさず話したつもりだが、責任者からは謝罪のことばが一切なかっただけでなく「あの時期、彼女はアップルを辞めることになっていたので職探しに忙しかったのです」と平然と答えた。
私は唖然として次の言葉が出てこなかったしアップルジャパンの担当者もばつの悪い顔をしてうつむいた(笑)。アップルはそういう会社なのだ…。

※1996年11月からアップル本社は東京都新宿区の東京オペラシティーに移転となった。なお現在の本社所在地は港区の六本木ヒルズ。
別項にもご紹介したが我々のソフトウェアがアップルの年間ベストプロダクト賞を受賞したとき、その副賞としてアップルが持参したMacintoshは中古品だった(爆)。そう、アップルはやはりそんな会社だった。
ただし申し上げておかなければならないことは当時アップルジャパンのデベロッパー担当部署の方たちは皆真摯に対応してくれたし事実大変お世話になった。あくまでアップルジャパンの権限内ではあるものの彼ら彼女らの尽力や協力無くして我々のような超マイクロ企業がAppleと渡り合うことはできなかったと思っている。だから私個人は「アップルジャパン不要論」に苦笑いしつつもお世話になった担当者たちの顔が浮かぶとその意見には消極的にならざるを得なかった(笑)。
ともあれこれまで痛い目にも合わずに「Appleは世界一素敵な企業だ」と言っていられる方々は本当に幸せな方たちである。やはり物事は遠くから眺めていたほうが粗が見えないものなのだろう。
我々デベロッパーはアップルジャパンに期待し過ぎなのだという意見もあったが、同社は冒頭に記したように日本市場育成のために存在していたわけだし総本山だ。そしてデベロッパーによりMacintoshをより活かすハードやソフトが生まれるためには膨大で詳細なデータが必要だった。その開示やイニシアティブをアップルジャパンに期待するのは当然に違いない。しかしその期待の大半は中途半端で終わってしまい、我々の多くは落胆の連続だった。
あまりのことに憤慨し、米国本社のスティーブ・ジョブズに苦情の手紙を送ったこともあった(笑)。
まあ、アップルジャパンに関しては言いたいことはまだまだ山ほどあるが、特異な体験をさせてもらったともいえる。
そういえば先日、当時のデベロッパー仲間だった方とお話しする機会を得た。相変わらずの昔話の中で彼らは私に社交辞令に違いないが「いかがですか…もう1度チャンスがあればまたアップルのデベロッパーとしてご活躍してくださいよ」と言われた。対して私は「ベンチャー企業というのもこりごりですが、アップルとのアドベンチャー体験も懲りました…」とお答えした。一堂が納得の苦笑いで終わったが、それは本音である。
名前はともあれアップルジャパンは日本市場でビジネスを行う我々にとっての総本山である。単なるユーザーであれば製品の好き嫌い、あるいはユーザーサポートといっただけの付き合いで済むだろうが、ことビジネス上の付き合いとなればそのアプローチはもとより、考え方はがらりとシビアになって当然だ。
1989年にMac専門のソフトウェア開発を目的とした小さな...本当に小さな会社を起業した私は正直アップルジャパンという会社の存在を当然ながら知っていたものの関わり合いが生まれるとは夢にも考えていなかった。
我々はとある大企業からのソフトウェア開発依頼を契機に起業する機会を得たが、アップルとのパイプができるとは思いもよらなかったのである。

※デベロッパーとして頻繁にアップルジャパンに出入りし始めたのは本社が千駄ヶ谷に移ってからだ(1992年)
だから、我々がアップルに電話をして面会を求めたり、願い事をするというつもりもなかった。これまた予想もしなかったことだがキヤノン販売やソニーといった大企業からソフトウェア開発依頼が舞い込み、そのミッションを粛々とこなしていくことが使命となっていたし、それで超マイクロ企業は十分生きていけた時代だった。
とはいえ時代が...というと大げさで不遜に聞こえるかも知れないが、我々を必要としていた…。起業して早々にアップルからコンタクトがあり様々な部署、いろいろな担当者から依頼事が舞い込むようになった。ただし他の大企業からの依頼とは違い、アップルジャパンからの依頼はまずビジネスに直結せず金にならなかった(笑)。
アップルからの依頼事のひとつは他企業からの頼み事を我々に振るといった内容だった。「こんなことをMacで実現したい」とか「こうしたソフトウェア開発をやってくれる所を紹介して欲しい」といった内容のあれこれが日々アップルジャパンに舞い込むようになっていたからだ。まだまだ市場はいまと比較にならないような極小の世界だったが、少しずつではあったものの新しい市場の開発に希望を託してみたいという企業も出始めていた。
勿論アップルジャパンがそうした依頼事に直接手を下せるはずもなかった。彼らの使命は日本市場にMacを1台でも多く販売することだったが、製品を直販することはやっていなかった。Apple Storeもオンライン販売もなかったし当時は日本総代理店のキヤノン販売が国内市場を牛耳っていた。アップルジャパンはキヤノンの尻を叩き日本にアップルあるいはMacintoshという名を広め啓蒙し市場を広げる役割はあったものの,主な仕事は米国本社のミッションを消化し製品の輸入と流通の要をコントロールすることだった。

※当時のアップルジャパンと交わしたデベロッパー契約書(パートナー・シーディング・オプション)表紙
そういえばアップルジャパンの担当者は当時どこで我々の存在を知ったのだろうか。企業広告を打つといったことができる規模でもなかったし前記した理由でそのつもりもなかった。現在のようにインターネットもなくホームページで告知に努めるといったこともできない時代だった。
Mac専門誌やパソコン通信のNIFTY-Serveなどに載った私の個人的な名前を見てコンタクトしてくださる方も多かったし、後はキヤノンあたりからの情報だったに違いない...。
ともかくアップルジャパンからは「A社がこうしたアプリが欲しいとの依頼があるのでコンタクトしていただけませんか」といったことや「丸の内のB社の役員たちにMacintoshの可能性をアピールしたいのですがお手伝いいただけませんか」、あるいは「来月の○日に展示企画があるのですが、アップルのブースでデモをお願いできませんか」といったあれこれだった。また「アップルから紹介をいただいたので話しを聞いて欲しい」といった電話も多かった。
けち臭いと思われるかも知れないが、こうしたアップルからの依頼に乗っても日当や宿泊費は勿論、交通費もでなかった(笑)。「Macの市場が広がれば御社のようなソフトデベロッパーも大きくなるから...」といった誘いに終始していたのである。無論当時私もそうした可能性を望んでいたし、Mac専門のソフトウェア企業など他に存在しなかったから素直にその物言いを信じて依頼事のほとんどに対応していた。
生意気な言い方をするなら、当時私はアップルジャパンという存在を必要としていなかった。しかしアップルジャパンが我々を必要としていたのである。とはいえ例えばアップルジャパンのブース内で私の会社がソフトウェアの展示をするということは一般ユーザーから見ればアップル公認デベロッパーといったニュアンスを感じていただくことがあったに違いない。

※アップルからの依頼で同社ブースで初めて自社製品をプレゼンする筆者(1990年5月のビジネスショー)
看板もなく、実績もないできたばかりの超マイクロ企業にとって進んで...望んだわけでもないが、アップルジャパンは大きな表看板になってくれたのだった。
お陰様で仕事にあぶれることはないどころか、大企業からの依頼が多々舞い込んだし私はといえば北は北海道から南は山口県まで飛び回ることになり、会社の椅子に座っている間もないありさまだった。また会社にいればいたで取材に追われるという日が続いた。断るのに苦労したほどだ...。
アップルジャパンに対しては新製品開発の企画段階とβ版が出来上がった際に必ずプレゼンをさせていただくようになった。アップルに告知したところでアップル自身が製品を大量に買ってくれることなどあり得ないわけだが(1度だけあった)、情報を広めていただく縁になると考えたからだ。事実一時期 Performaへ私の会社の製品3種がバンドルされたのもそうした活動の成果に違いなかった。
ただし企業としてのアップルジャパン、我々の業界の総本山のアップルジャパンはいまひとつ当てに出来ないブラックな性格を持っていた。
普通に考えるならアップルジャパンは何の為に存在するのかは明白に思える。近視眼的に見てもデベロッパーリレーションズという担当部署があり、我々デベロッパーへのサービスや対応をしてくれたが彼らのサービスは中途半端だった。
よく我々デベロッパーが集まるとアップルに対する不満や文句が表面化した。「アップルジャパンって必要なのか?」「輸入して市場に流すだけならキヤノンに全面依頼すれば済むのでは」「日本市場は重要と繰り返しつつ我々の益になることなど考えているようには思えない」「なにかアップルジャパンにしてもらったことってある?」「こちらの希望や要望を積み重ねても何の動きもない」「せっかくパイプができたと思ったら担当者が辞めて、関係が初期化されたよ」「ゴルフのスポンサーになる余裕があるならもっと日本市場を活性化することに予算を使って欲しい」「新製品をリリースする前に我々デベロッパーに機材を提供してくれよ!」「だいたいアップルジャパンって何やってるの?」などなどという話しになるのが常だった(笑)。
そんな愚痴が重なっていく中で「アップルジャパン不要論」なる話しも面白可笑しく脚色されて出てきた。本社の顔色を伺っているだけで日本市場でマーケットを広げようとしているデベロッパーやディストリビュータたちの益になりそうなことへの支援やサポートは絶無に思えたからだ。繰り返すが、もしアップルジャパンがなくてもキヤノンなり日本市場を熟知した大企業がからめばきっといまよりマシな流通が実現するのではないか…といった思いが膨らんでいく。
とはいえ私個人の…私の会社に限って言えば色々と引っ張り回され失望も多かったがアップルジャパンがあったればこそ前に進めたことも多かった。
例えば日本市場におけるPerformaバンドルの契約はその内容はともあれアップルジャパンと我々デベロッパーとの間で締結した。しかしパッケージにQuickTimeといったコンポーネントを同梱したいと申請するもそれは米国本社と直接行う必要があった。
無論申請は英文だし決められた金額はバンクチェックを書留郵便で送付する必要があった。余裕を持って2ヶ月あまり前にそうした申請をしたにも関わらず1ヶ月が過ぎても梨のつぶてのときがあった。申請は基本的に通る内容のものだったから我々は新製品のパッケージの発売日を決めていた。しかし正式な許諾が降りなければQuickTimeを同梱した製品を市場に出せない。
現在のように電子メールをこうしたビジネスに活用できる時代ではなかったからやむなく督促をアップルジャパンの旧知の担当者に依頼した。驚いたことにその返事は我々の想像をはるかに超えていた。
なぜなら我々が送ったバンクチェックがアップル本社内で行方不明になったというのだ(笑)。幸い当該ビジネスの経緯はアップルの担当者に逐一連絡していたこともあり、どのように許諾を取り付けたのかは不明ながら口頭によるゴーサインをアップルジャパンから貰ってぎりぎり製品出荷を間に合わせることができた。
後年北海道に活動拠点を持つ企業の社長と話しをした際、やはり我々と同じ経験をしたことがあるという話しを聞いた。アップルはそうした会社だった。いや、この話しにはまだ後日談がある…。
数ヶ月後、私の会社にアップル本社のワールドワイド・デベロッパーを取り仕切る責任者が来訪された。アップルジャパンの担当者が来日の機会に紹介しようと連れてきたのだ。
必然的に数ヶ月前に経験したあってはならないこと、送ったバンクチェックを貴方の部下が紛失したという話しになった。一応済んだ話しだから私も深刻な会話ではなく笑顔を絶やさず話したつもりだが、責任者からは謝罪のことばが一切なかっただけでなく「あの時期、彼女はアップルを辞めることになっていたので職探しに忙しかったのです」と平然と答えた。
私は唖然として次の言葉が出てこなかったしアップルジャパンの担当者もばつの悪い顔をしてうつむいた(笑)。アップルはそういう会社なのだ…。

※1996年11月からアップル本社は東京都新宿区の東京オペラシティーに移転となった。なお現在の本社所在地は港区の六本木ヒルズ。
別項にもご紹介したが我々のソフトウェアがアップルの年間ベストプロダクト賞を受賞したとき、その副賞としてアップルが持参したMacintoshは中古品だった(爆)。そう、アップルはやはりそんな会社だった。
ただし申し上げておかなければならないことは当時アップルジャパンのデベロッパー担当部署の方たちは皆真摯に対応してくれたし事実大変お世話になった。あくまでアップルジャパンの権限内ではあるものの彼ら彼女らの尽力や協力無くして我々のような超マイクロ企業がAppleと渡り合うことはできなかったと思っている。だから私個人は「アップルジャパン不要論」に苦笑いしつつもお世話になった担当者たちの顔が浮かぶとその意見には消極的にならざるを得なかった(笑)。
ともあれこれまで痛い目にも合わずに「Appleは世界一素敵な企業だ」と言っていられる方々は本当に幸せな方たちである。やはり物事は遠くから眺めていたほうが粗が見えないものなのだろう。
我々デベロッパーはアップルジャパンに期待し過ぎなのだという意見もあったが、同社は冒頭に記したように日本市場育成のために存在していたわけだし総本山だ。そしてデベロッパーによりMacintoshをより活かすハードやソフトが生まれるためには膨大で詳細なデータが必要だった。その開示やイニシアティブをアップルジャパンに期待するのは当然に違いない。しかしその期待の大半は中途半端で終わってしまい、我々の多くは落胆の連続だった。
あまりのことに憤慨し、米国本社のスティーブ・ジョブズに苦情の手紙を送ったこともあった(笑)。
まあ、アップルジャパンに関しては言いたいことはまだまだ山ほどあるが、特異な体験をさせてもらったともいえる。
そういえば先日、当時のデベロッパー仲間だった方とお話しする機会を得た。相変わらずの昔話の中で彼らは私に社交辞令に違いないが「いかがですか…もう1度チャンスがあればまたアップルのデベロッパーとしてご活躍してくださいよ」と言われた。対して私は「ベンチャー企業というのもこりごりですが、アップルとのアドベンチャー体験も懲りました…」とお答えした。一堂が納得の苦笑いで終わったが、それは本音である。
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