スティーブ・ジョブズがAppleを辞職するに至る状況再考

スティーブ・ジョブズがAppleを辞職した原因と当時の状況をより深く知りたいと情報を集め続けているが、Appleにとってこの重大事は後から見ればAppleが大きく飛躍するために必要な犠牲だったようにも思う。ジョブズ自身、例のスタンフォード大学におけるスピーチで「当時は分からなかったが、Appleをクビになったことは私の人生にとってもっとも重要なことだったと今では思う」と発言している...。



ジョブズは「…クビになった」という言い方をしているが別項「スティーブ・ジョブズはAppleを首になったのか?」で考察したとおり、彼は決して文字通りのクビになったわけではないことは明らかだ。追い出した側のジョン・スカリーもまさかジョブズが辞めるとは考えていなかったことが伺える。
しかしジョブズが自身で「Appleを首になった」と振り返っていることは自身の人生にとって重要な事だったにしてもスピーチ当時決して快く思っていなかったことが現れているように思う(笑)。

さて、では改めて考えてみたいが1985年の9月、スティーブ・ジョブズはなぜ辞めなければならなくなったのだろうか。無論その原因を一言でいうならジョン・スカリーおよび当時の取締役会との確執にあり、その直接の要因はAppleの経営に危機的症状が現れてきたことによる。
Lisaは商業的に失敗、Macintoshも評価は高かったもののメモリの少なさと閉鎖的な設計のためか在庫が膨れあがり、Apple IIcは製品発表会では記録的なオーダーが舞い込んだがその後はピタリと注文が止まる。そして市場から求められたApple IIe は販売予測を誤り製造が追いつかないという結果となった。まるで歯車があちらこちらで噛み合わない状況になっていたのである。
今回はダイナミック・デュオと称されたスカリーとジョブズになにがあったのか...に焦点を当てて、2人の確執がどのようなものであったのかを追ってみたい。

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※スタンフォード大学におけるジョブズとスカリーのツーショット(1984年)。Report on Business Magazine 1986年5月号より


結論めくが、1985年9月にジョブズがAppleを辞めたことはいわゆるガレージからスタートしたと称されるベンチャー企業のAppleが良くも悪くも世間一般の大企業に変貌するきっかけとなったと考える事ができるだろう…。
なぜなら株式公開後、Appleには潤沢な資金が蓄えられたしスティーブ・ジョブズら創業者たちは勿論、ストックオプションを与えられた人たちは一夜にして億万長者となった。それらに伴い、従業員も大幅に増えたしプロダクトの数や製造ラインも増えた。

しかしAppleは1984年1月24日にMacintoshを発表したが、この前後の状況は勢いに任せてやりたい放題を続けてきたというのが現状だった。
例えば予算の概念はあったと思うが「ここまで…」というブレーキをかける機運はなかったし財務や経理業務が正確迅速に把握されず在庫管理も疎かだったようだ。したがって経営状態が良いときはともかく一度問題が生じても一体自分たちのどこが…何がいけないのか、どう改善すべきかもすぐには把握できなかったと思われる。

では会社が巧く機能していないとすれば誰の責任なのだろうか…。スティーブ・ジョブズにいわせればマーケティングの手腕を買われてAppleのCEOに就任したジョン・スカリーが思うように働いていないと感じるようになったし、ジョン・スカリーにしてみればやりたいことを皆ジョブズが邪魔しているか反対されていると考えていた。いわば責任のなすり合いである。

そもそもAppleという会社のコンセプト、すなわちジョブズのビジョンにも捻れが生じてきた。
Macintoshにしても単体で売れる時代ではなくネットワークが必要になってきたしLaserWriterの開発とPageMakerの登場でデスクトップ・パブリッシング(DTP)という概念が次のキラーシステムとなろうとしていた。Appleもそれらを敏感に感じMacintosh Officeと称するAppleTalkを使うローカルネットワークとファイルサーバーシステムを実現し売り込もうとしていた。

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※マッキントッシュ・オフィスのカタログ(1985年)


しかしそれらは概してApple社内で一部の人たちを別にすれば耳慣れないことばかりだった。なにしろAppleという会社は依然として「1人に一台ずつのコンピュータ」を普及させることを目指した企業だったからだ。
「エデンの西」の筆者、フランク・ローズはいう。「それはまるでニッサンに地下鉄輸送網の開発を頼もうとするようなものだった」と…。

もともと閃きで行動を決める類のスティーブ・ジョブズは歯車が噛み合わなくなるとどうしたらよいのか分からないはめとなる。その上でスカリーからはきちんと仕事をして欲しいと要求されるとジョブズはMacintoshの失敗をスカリーのせいにしはじめる。
その頃、ジョブズはウォズニアックともうまくいっていなかった。
ウォズニアックとしてはApple IIの開発以来、自分の居場所がなかったし、スティーブ・ジョブズはMacintoshのことしか頭になかった。Appleの稼ぎ頭が依然としてApple IIなのに…である。さらにジョブズの威光を笠にきた感のあるMacintosh開発陣たちもApple II事業部だけに留まらず現行のAppleそのものの体制を馬鹿にするような気配が充満していたという。
そんなときウォズニアックが特殊なリモコンを製品化すべくAppleを離脱すると宣言。これがまたAppleにとっては決定的に不利な材料になった。

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※スティーブ・ウォズニアックが新しくベンチャーを始めると報道する1985年2月7日付けThe Examiner紙


経営者たちは山積みする損失にどう対処すべきかを検討するため、ほとんど毎日会議を続けていた。対策はどうするのか? シンガポール工場閉鎖か? ダラス工場閉鎖か?
早急に何らかの結論を出さなければならないほど自体は逼迫していたもののジョブズをはじめ経営陣たちは皆自分の関係する組織の中での急激な削減には積極的でなかった。
そんな中、ジョブズの側近だったジェイ・エリオットの気配りで1985年の3月、疎遠になりつつあったスティーブ・ジョブズとジョン・スカリーが会談することになった。

ジョン・スカリーはMacintosh事業部とそのトップであるジョブズの能力を非常に心配していると切り出した。Appleとしてこの事業部には違った類の指導力を必要としているからとジョブズの事業部からの離脱を勧め、新しい役割を果たすように進言したという。さらにジョブズがスカリーに隠れてスカリーのあれやこれやを批判している事にショックを受けているとし、こうした2人の友情に対する反逆には耐えられないともいった...。
スティーブ・ジョブズは黙って聞いていたが、彼にとっては逆にスカリーの言葉が信じられなかった。

売上げは急激に落ち続け、費用は削減しなければならず、経営側として決断し始末をつけなければならないことは山ほどあった。しかしスカリーはなにもしていないではないか。まるで昨年末から休暇を取ってでもいたように閉じこもっていただけではないか…と心中を暴露しだした。
だから「ジョン・スカリー、貴方こそ問題の核心なのだ」といい、スカリーの役目は自分(ジョブズ)に協力し、上手に自分を管理し指導することではなかったのか…とジョブズの声は激しくなった。

ジョブズはスカリーが会社を指導するどころか恐るべき結果を招いた原因だとスカリーを批難する。その声を聞きながらスカリー自身も思うように手腕を奮えなかったことは認めざるを得ないが、それもこれもスティーブ・ジョブズが機会を与えてくれなかっただけでなく邪魔をしてきたと主張しここでも責任の押し付け合いとなった。
しかし客観的に見て、真の問題はAppleの事業戦略がいつも揺れ動くことだった。その要因は間違いなくスティーブ・ジョブズのあまりにも非現実で時間というものを度外視した指示だったことは間違いない…。
とはいえジョブズにしてみればジョン・スカリーと取締役会はビジネスマンであって、ビジョンを持つ人々ではなくコンピュータの持つ潜在能力やその市場あるいは未来について理解していないと考えていた。
それは確かに間違いのない事実ではあったが、ビジョンだけで売上げが好転するほどビジネスは甘いものではなくその場しのぎの思いつきの戦略は限界だったのである。

ともあれAppleの経営陣の間では日々水面下で責任のなすり合いと時に怒鳴り合いが続いていたものの幸いなことに社外にはこうした争いは気づかれなく済んでいた。
しかしジョン・スカリーの中国出張の機会を捉えスティーブ・ジョブズがスカリーを引きずり下ろす作戦を開始した事から問題はより大きくなっていった。スティーブ・ジョブズからの電話で作戦を知らされた上級副社長のデル・ヨーカムすら「ジョブズは正気を失った」と考えたという。
確かにデル・ヨーカムもジェイ・エリオットら幹部たちはスカリーの指導力に不満は持っていたがその要因のひとつはジョブズに譲歩し過ぎることだと感じていた。彼らはスカリーにジョブズの勝手なやり方を止めさせてほしかったのである。それはスカリーにしかできないことなのだから…。

同時期に社内立て直しのためにフランスから呼ばれたジャン=ルイ・ガッセーが5月のある日、夕食の席でスカリーに進言する。
「いうまでもありませんが、中国へは行ってはいけませんよ」と…。スカリーが「なぜ?」と聞く間もなくガッセーは「もしあなたが行けば、戻ってきたとき、あなたは多分職を失っています」と進言する。
ジャン=ルイ・ガッセーはたまたまジョブズから事の真相を打ち明けられた1人だったのである。この頃のジョブズは本来秘密裏に行わなければならないクーデター計画を呼び寄せたばかりのジャン=ルイ・ガッセーに漏らすほど心理状態は揺れ動いていた…。
ジョブズの側近中の側近、ジェイ・エリオットでさえジョブズからクーデター計画を知らされ加担するようにいわれたとき即座に「ノー!」と言い切ったほどその時のスティーブ・ジョブズは常軌を逸していた...。

ついにAppleの舵取りはスティーブ・ジョブズか、あるいはジョン・スカリーかを決めなければならくなった。2人がこれまでのように協力し合って会社を運営することはもはや考えられないまでになったからだ。
スカリーが招集した幹部会議の席でジョブズは「ジョンは去るべきだ」とストレートな物言いをする。ジョン・スカリーとしては最後のこのシーンで誰がジョブズを指示するのかを知る必要があった。
幹部たちの多くがジョブズを支持するなら自分は去らなければならないとスカリーはテーブル席に座った幹部たちに時計回りに1人ずつ、各人の信念を述べるように促した。

幹部たちは突然のことに苦悩する。こんなことになるはずではなかったからだ。
デル・ヨーカムは「私はスティーブ・ジョブズが好きです」といいつつ、ジョンを尊敬するし、彼の下した決定についてはすべて支持すると発言。
アル・ハイゼンスタットもヨーカムと同意見だった。

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※デル・ヨーカム(左)とアル・ハイゼンスタット(右) Apple Annual Report 1983より


ビル・キャンベルはジョブズの方を向きながらふるえる声でジョブズに役割を続けて欲しいという。続けて社外の人ではあったが口を開いたのはApple創業以来、アップルロゴのデザインや広報を一手に引き受けていたレジス・マッケンナだった。
彼ははっきりとジョン・スカリーを支持するといった。
デイブ・バーラムは着任して2ヶ月にもなっていなかったが、他の人たちと同意見だった。

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※レジス・マッケンナ InfoWorld誌 1984年3月5日号より


最後のジェイ・エリオットは「2人とも自分自身のことばかりに注視し会社のために働いている5000人の人々に気をつかっていない。馬鹿げている」といい、続けて「自分は2人のうちのどちらにも忠節は誓わない。自分が忠節を誓うのはApple社に対してだ」と言い切った。

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※ビル・キャンベル(左)とジェイ・エリオット(右) Apple Annual Report 1983より


その瞬間スティーブ・ジョブズは子供が戸惑ったような表情となり今にも泣き出しそうだった。ジョン・スカリーも気が抜けたように椅子へもたれ込んだ。
確かなことはジョブズとスカリーの関係がすでに修復不可能ということだった。

ジョン・スカリーはこの場では勝者となったが彼自身この困難を乗り切れる支持を得たとも思われなかった。彼の脳裏にはAppleを辞めようとの考えがちらつき、彼をジョブズに引き合わせたヘッドハンターのゲリー・ロッシュに電話をしていた…。
しかし翌日スカリーは思い直した。そして5月の最後の日、スカリーが新体制を発表し6月14日には従業員総数の1/5に相当する1200人もの一時解雇を発表した。こうした決定的な2人の破局は1985年の6月に入るとリストラのニュースと共に世間に知られることになり様々なメディアに報道され始めた。

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※New York Times紙は1985年6月1日付けでAppleのリストラを大きく報道


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※Appleの体制に亀裂が入ったことを報道するInfoWorld紙 (1985年7月24日付)表紙


この時期になってもApple一番の問題はスティーブ・ジョブズの処遇だった。
ジョブズはしばらくの間、モスクワに行ったりイタリアに飛んだりして亡命生活を過ごした後、自邸に閉じこもったりしていたが、Appleでの居場所は秘書とガードマンを別にすればジョブズ1人しかいないビルに通わなければならなかった。彼はそこをシベリアと呼んだ。

その7月中旬にAppleは四半期の決算報告を発表したが、1700万ドルの損失となった。その1週間後に開かれたアナリスト会議でジョン・スカリーはジャン=ルイ・ガッセーを紹介しつつ記者たちの質問に「今も今後もスティーブ・ジョブズには経営上の役割はない」と明言する。
スティーブ・ジョブズには何もすることが許されなくなったのだ…。

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※ "THE FALL OF STEVE JOBS" のテキストが踊る1985年8月5日付FORTUNE誌表紙


結局彼は1985年9月17日に辞表を出しAppleを去った。しかしジョブズは最後まで素直でなかった(笑)。それはマイク・マークラ宛てに提出した辞表とまったく同じものを報道関係者たちにも送りつけたからだ…。

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※公開されたスティーブ・ジョブズの辞表 (1985年9月17日付)


これは明らかに世間の同情を引こうとした最後っ屁的行為だったに違いないが、残念ながら世間の反応は彼が期待していたものとは違った。
なぜならジョブズ辞職の報道で世間は確かに反応したが、その日のAppleの株価は限度枠一杯まで上がったのである。

【主な参考資料】
・「エデンの西 (上・下)」サイマル出版会
・「アップルコンフィデンシャル」アスキー出版局


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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。また直近では「木挽町お鶴捕物控え」を発表している。
2018年春から3Dプリンターを複数台活用中であり2021年からはレーザー加工機にも目を向けている。ゆうMUG会員