パソコン世界を創造した傑物たち【第4話】〜 ビル・ゲイツ

パソコンに少しでも興味を持つユーザーにとってビル・ゲイツを知らない人はいないだろう。ゲイツは現在マイクロソフト社の業務一線から外れているが現役時代の後半のほとんどは毎年世界長者番付のトップを譲らなかった(2012年の総資産は634億ドル[約5兆5400億円]と報道された)。しかしそのビル・ゲイツも一夜にして現在の地位を築いたわけではなく、彼こそ生まれながらにしてのハッカー、それもビジネスを念頭に入れたコンピューティングを実践した人物である。


アメリカの東海岸のボストンでハネウェル社のプログラマーをしていたポール・アレンには高校時代の後輩でそれまでにも度々コンピュータ関係の仕事や遊びを一緒にしてきた友人がいた。それがビル・ゲイツだった。
1960年代後半、シアトルにポール・アレンとビル・ゲイツの姿があった。このときアレンは15歳、ゲイツに至っては13歳だった。しかしこの2人の存在はすでに変わっていたし周りからは「コンピュータ狂」と称されていた。

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学校が終わると彼らは自転車で地元にあるコンピュータ・センター社に向かった。目的はそこに設置されているDEC製のミニ・コンピュータを操作しバグを見つけるためである。おかしなことに夜勤の社員みたいに正式に雇われていたものの最初は無給だったのだ。
会社側はコンピュータプログラムのバグを見つけて貰うという目的があったし、アレンとゲーツにとっては他では思うように使えないコンピュータを思う存分操作できるというその一点で働いていた。無論彼らの実力は大したものだった。

特にゲイツはより多くのバグを見つけ、彼らが発見したバグの記録は300ページにもなったという。
2人の少年の夢は自分たちのコンピュータを持つことだった。大型コンピュータが政府機関や巨大な企業でしか設置することが出来ないものだったからちょっとした冷蔵庫ほどのサイズになったミニ・コンピュータのDECは注目され、大学や中堅企業も導入できるまでになったものの、まだまだ個人ではどうなるものでもなかった。しかしポール・アレンはいつか自分のコンピュータが持てるに違いないとゲイツに話していた。

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※レイクサイド高校にてテレタイプを操作するゲイツとアレン


ところで1955年10月28日にシアトルで法律家の父と銀行役員の母との裕福な家庭に生まれたゲイツはシアトルの私立レイクサイド中学・高校に在籍していたが、そのレイクサイド校ではDEC社のPDP-10を生徒に貸し出しており、それが縁でコンピュータに興味を持つようになった。その高校生時代には早くもポール・アレンとトラフォデータ社という会社を創業したゲイツはハーバード大学へと進学する。

さて、彼らが表舞台に登場するきっかけは早くもやってきた。
1975年1月号のポピュラーエレクトロニクス誌にAltair 8800と名付けられたホビーコンピュータキットの記事が掲載されその雄姿が表紙を飾った。その写真はダミーではあったが当時そのAltair 8800に採用されたマイクロプロセッサ8080ひとつで350ドルほどしたにも関わらずAltair 8800はたったの397ドルだった(すぐに439ドルに値上げされた)。
Altair 8800は決して機能的に優れていたわけではないが、多くのマニアやハッカーたちが飛びついたのはキットは組立に必要なすべての部品が一括して購入できる点にあった。これをきちんと組み立てれば間違いなく個人でコンピュータを所有できることになる…。

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※ポピュラーエレクトロニクス誌1975年1月号表紙(筆者所有)


1975年1月号ポピュラーエレクトロニクス誌は前年の12月中旬書店店頭に並んだが、それを見たポール・アレンは好機が訪れたと直感し急いでビル・ゲイツに知らせに走ったという。
ポピュラーエレクトロニクス誌を見て多くのハッカーたちが驚喜したものの、ほとんどの人はAltair 8800を所有することで頭が一杯だった。しかしゲイツとアレンは違っていた。

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※マイクロソフト社創業当時のゲイツとアレン


当時のハッカーやホビーストたちはソフトウェアよりもハードウェアに関心があった。何故ってありもしないコンピュータ用のプログラムなど作り得なかったからだが、Altair 8800の出現でソフトウェアの出番が想定されることにもなったのである。だから、プログラムが書ける人はそれぞれの力量で必要なプログラムを書くようになっていくが、それをビジネスの対象として売買するようになろうとは誰もが思ってもみなかった。ビル・ゲイツたちを除いて…。

ポール・アレンはポピュラーエレクトロニクス誌をビル・ゲイツに見せ、我々でAltair 8800用のBASICを作ろうと持ちかける。無論ゲイツも最良のビジネスチャンスが転がり込んだことを悟る。
実は1974年の秋、ビル・ゲイツはハーバード大学に入った。法科に進むことを期待していた両親はこれでゲイツがやっと念願の道を進み始めたと一安心したものの結局心理学のコースに熱中する…。

なぜならゲイツも数学は得意だったが寮の同室者は数学専攻の生徒でゲイツよりもなお優れていたものの法律を勉強したいと話をしていた。そんなに優れた奴が専攻するという法科に魅力を感じなくなったゲイツだったが大学院では物理学と数学を専攻し、放課後の時間は夜ごとポーカー・ゲームに熱中していたという。
ポピュラーエレクトロニクス誌の記事が出たのはそんな頃だった…。

ゲイツはAltair 8800を販売したMITS社に電話をかけ、実際にはまだ完成もしていないBASICインタプリタをすでに開発済みであるとアピールする。
MITS社の社長、エド・ロバーツの「きちんと動けば購入する意志がある」という言葉にゲイツらは発憤した。 
ともあれゲイツとアレンは寝食を忘れてプログラミングした結果、約8週間でAltair版BASICを完成させる。ちなみに一部に誤解があるようだが、BASIC自体はゲイツらが開発したものではない。

BASICは1964年、米国ダートマス大学の数学者ジョン・ケメニーとトーマス・カーツにより、コンピュータ教育用の言語として開発されたものである。ゲイツらはそれをAltair 8800用で走るようスケールダウンし移植したということだ。

ともかくポール・アレンはMITS社へデモンストレーションのため、プログラムを鑽孔テープにコピーしてMITS社の本拠アルバカーキに飛んだ。しかしアレンは飛行機に飛び乗ったもののBASICプログラムをAltair 8800へロードするブートローダーブログラムの開発を忘れていたことに気づき慌てる。仕方なくアレンは手元に実機もないのに飛行機の中で用紙を取り出し、マシン語でブートローダーをプログラミングするという暴挙に出たが幸運の女神は彼らに微笑んだしアレンにはそれだけの実力があった。ブートローダーならびにBASICインタープリタはMITS社におけるデモで無事動作したのである。

こうしてビル・ゲイツとポール・アレンはMITS BASICとして採用された資金をもとにマイクロソフト社を起業することになるが、ゲイツはビジネスを優先しハーバード大学を休学する。これをきっかけとしてBASICはマイクロプロセッサを使ったコンピュータの事実上の標準言語となっていく…。

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※筆者所有のAltair 8800向け12K BASIC 鑽孔テープ。「Altair EXTENDED BASIC」のバージョンアップ版


後にホームブリューコンピュータクラブでMITS BASICが大量にコピーされ、会員たちが無料で使っていることを知ったビル・ゲイツはそうした行為は盗人同然だと批難する。
事の是非は別にしてこのことからゲイツは金の亡者、ハッカーの風上にもおけない奴という評価を受けるようになる。なぜなら当時マイコンに関するあらゆる新しい情報、無論プログラムも含めホームブリュー・コンピュータクラブの会員により持ち込まれたものは皆無料で共有されたからだ。

彼らは他者のために自分たちの才能をふるい、誰にでも使えるコンピュータの実現という共通の夢を分かち合うために働いていた。ためにプログラムを販売しビジネスの糧とすることなど考えもしない行為だったし、それはハッカー精神に反すると軽蔑していたからだ。しかし反面ゲイツらの行動はソフトウェアが金になり、ビジネスとなることを証明することにもなったのだ。

その後のマイクロソフト社の成功は誰しもが知っていることだがビル・ゲイツとポール・アレンの間にも次第に亀裂が入っていくこともまたすでに多くの方がご存じだろう。その一番の要因はといえばゲイツが見かけ以上にヤリテであり成功欲が強かったというべきか…。
例えばマイクロソフト社が上げた利益は共同創立者の1人として折半だとアレンは考えていたが、ゲイツは「BASICを書いたのは僕だ」として6対4を主張したという。無論ゲイツが6割である。

ただしBASICの最終的なコーディングはゲイツの仕事だったとしても、彼1人でMITS BASICを完成させたわけではなかった。
例えばゲイツもアレンもAltair 8800の実機など見たことも操作したこともなかった。したがって大型コンピュータにAltairのシミュレートさせる必要がありそのプログラムはアレンが書いた。

また最初の2,3週間、ゲイツとアレンは昼夜を通してBASICの仕様を決める取り組みをしていた。業界標準などなかったから実用となるBASICをと考えるならまず最低限必要なコマンドの選択から始めなければならなかった。彼らは端末に向かったまま眠り、食べ物を取りながら仕様を語り合った。

さらに浮動小数点処理ルーチンを組み込もうとしたがゲイツもアレンも難しいというより面白味がないし積極的に書きたいとも思わなかった。そんなときハーバード大学の学食でそんな話をしていたときテーブルの反対側にいたマーティ・ダビドヴという男から「浮動小数点処理ルーチンなら俺がいくつか書いたよ」と声がかかったという。結局マーティ・ダビドヴもプログラム作りに参加することになった。

したがってビル・ゲイツが主張する「BASICを書いたのは僕だ」という物言いは決して正しくはないのだ。しかしその押しの強さがあのマイクロソフトを世界一のソフトウェア企業に成長させたのである。

現在のビル・ゲイツは彼の妻メリンダ・ゲイツらと共に慈善団体の活動に専念しているがこの世界一の資産家はまた倹約家としても知られている。
旅客機に乗るにもエコノミークラスに座り食事もマグドナルドのフィレオフィッシュがあれば満足だという。反面世界初の印刷された聖書として知られているグーテンベルク聖書やレオナルド・ダ・ヴィンチの手稿「レスター手稿」を個人で所有していることでも知られている。

ビル・ゲイツという男はホビーコンピュータが生まれ、個人がコンピュータを持てる時代の到来をいち早く察知し、未来に夢を託したハッカーの一人であった。しかし彼はハードウェアよりソフトウェアに目を向け、さらにそれを当初からビジネスの対象とした点が他のハッカー達と違っていた。まさしくゲイツは20世紀から21世紀にまたがったパーソナルコンピュータの時代において生まれるべきして生まれた人物だといえよう。

【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社刊
・「ハッカーズ」工学社刊
・「パソコン創世記」TBSブリタニカ刊



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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。また直近では「木挽町お鶴捕物控え」を発表している。
2018年春から3Dプリンターを複数台活用中であり2021年からはレーザー加工機にも目を向けている。ゆうMUG会員