ラテ飼育格闘日記(256)

テラは肉球などを咬まなければ本当に手間のかからない良いワンコだと思う。気の許せない人やワンコには吠えるがリードのコントロールさえ間違わなければワンコの欠点とは思えないし子供たちにはとても優しく、初対面でも子供たちの姿を見ると近づきたいと尻尾をお尻ごと振って最愛の表情を示す…。                                                                                                                   
そうした気性の面だけでなくありがたいことにこれまで病気らしきこともなかった。だからこそ今回アレルギーか?と思われる症状を示したときには驚きもしたわけだが、普段はお腹を壊すことも無く、オシッコやウンチで家の中を汚すこともなく、オトーサンやオカーサンと遊びたいというとき以外は室内で大きな声を上げることもほとんどない。無論夜泣きもしない…。
だから足を噛み、体を掻くことが余計に目立つのかも知れない。

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※なんか...アタシ、問題ありますか?


特に困るのは夜寝るとき、最近はオトーサンたちの寝室で一緒に寝るようになったことだ。
ワンコを飼うとき、一人で寝ることを習慣づけようとハウスに入れたり、あるいはハウスから出して寝させる場合もラテはリビングで寝ることを習慣づけてきた。
だからというわけか、たまたまオトーサンたちがラテを寝室に呼んで一緒に寝ようと思ってもラテはほんの一時ならともかく、本格的に寝る際には自分のポジションに戻ってしまうというクールさを示していた。

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※朝日を浴び、オトーサンとラテの長い陰ができる...


いま思えばそうした習慣が崩れたのは3月11日の震災以来のように思う。
多発する余震に怯え、オトーサンの足下を離れない時期もあったし、夜半に地震が起きたときなどはオトーサンたちと一緒に寝たりすることが多くなった。
ラテの寝場所は窓際の狭いスペースだがそこにタオルケットなどを敷いてやったらすぐ自分の寝場所だと覚え、時には昼間でもそこで寝たりするようになった。

最近驚いたことがあった…。ラテをその寝室に呼ぶにはオトーサンたちの寝る支度が出来てからにしている。なぜならラテがウトウトし始めてからしばらく我々が寝支度のためにざわざわしてはラテが目を覚ましてしまうからだ。
オトーサンが階下にいるラテを呼ぶと急勾配の階段をいそいそと上ってくるのが日常になったが、先日女房が階下のキッチンで食事の後片付けをしているとき、オトーサンは2階のマシンルームで1日の仕事のまとめをやっていた。その後喉が渇いたので階下に降りていった。
キッチンに入り、ラテがまた足でもカミカミしてはいないかと周りを見回したがラテの姿が見えないのである…。
出窓のたたきにもいないしハウスの中にもいない。キッチンのテーブルの下も確認したがラテの姿がないのである。念のためキッチンに続く玄関も覗いたが…いない。
自慢ではないが、そうそう時間をかけて探し回らなくてはならないほど広いスペースでは無いし隠れる場所もない。しかし1階には姿が見えずに正直ちょっと焦った…。女房は水仕事に集中していたらしくラテの行動を把握していなかったという。

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※散歩の途中でも身体を掻き出すこともある(上)。そして道ばたで肉球を気にすることも...(下)


「もしや?」と思い、女房と一緒に2階に駆け上がって見ると、何としたことかラテは寝室にあるいつもの場所ですでに腹ばいになって休んでいるではないか…。
どうやらキッチンから玄関に抜け、2階に続くドアが半開きになっていたようでラテはドアをくぐり抜け居心地がよい自分の寝場所に駆け上がったらしい。よほど早く寝たかったのだろうがオトーサンたちはクリクリとした眼をしながら「なに騒いでるの?」とでも言っているようなラテの表情を見て安堵と共に吹き出してしまった…。

一緒に寝るのは良いとしても問題は寝ながらも時々というか場合によっては頻繁に身体を掻いたり足を囓ったり舐めたりすることだ。
その場合はオトーサンが短く舌打ちすると止める場合もあるし、気が入っていると体でも揺すらないと止めない場合もある。そうした行為を続けさせれば確実にラテの傷が酷くなるのは明らかだが、女房が手を出すと「ウッ」と不快感を表すときもあるしなかなか言うことを聞かないのだ。
ということでラテの隣はオトーサンが寝ることにした(爆)。
ラテがピチャピチャと足を舐める、ガシガシと後ろ足で身体を掻く…といった動作をした場合には眠りの浅いオトーサンはすぐに気がつくからラテの行為を途中で止めるためである。

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※本気モードの昼寝は顔をこちらに向けないラテだが、姿勢にちょっと無理があるかも(笑)


ともかく低アレルゲン食の効果が出てくるまでの闘い…格闘だと思ってオトーサンは毎日ラテの隣に寝ながら頑張っているが、後ろ足で身体を掻くとラテの体毛が少なからず飛び散ることになるし、それはオトーサンの布団にも付着するだけでなく口の中に入ってしまうこともある。
まあまあ…いまさら愛犬の体毛が嫌だといった気持ちはないが、一番困るのが寝不足なことだ。隣にいるラテが大きく寝返りを打っただけでオトーサンは目が覚めてしまう有様だからなかなか熟睡できないのである。しかしラテも身体を掻く頻度が高いときは寝不足に違いないもののこの娘は日中にいくらでも寝られるから良い。でもオトーサンはそうもいかない…。
なんとか早いうちに終息して欲しいものだが、しばらくはこの闘いの幕は下りそうもない。

ラテ飼育格闘日記(255)

ラテの主食が低アレルゲン食に変わってから2週間ほどが過ぎた。一番の問題は加水分解処理をしているというこのいかにも不味そうなドッグフードをラテが食べるのか…ということだ。無論いきなり全部でなく最初の3日間程度は半々から徐々に低アレルゲン食の割合を増やしていくという方法をとったわけだが…。                                                                                                                    
いかに低アレルゲン食が良いにしても、ラテが食べてくれないのでは始まらない。オトーサンは真っ黒でみるからに不味そうなドッグフードを量りながら「はたして食べてくれるのだろうか?」と不安になってくる。それに医者いわく、これまで食べさせていたトッピングの類やおやつもすべて止めろという…。
これまでドッグフードだけではいかように工夫しても食べないラテだったし、あるときは気に入らないからとドッグフードの入った容器を鼻先で突き、ひっくり返したこともあるのだ。したがってこれまでトッピングを含めてラテがまずまず喜んで食べてくれるようにとオトーサン独自の工夫と長い道のりがあったわけだが、いきなり今日からドッグフードだけというのではまず無理に違いない…。

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※早くアレルギーを治さないと...ラテ!


ともかく初日はこれまでのドッグフードと低アレルゲンのドッグフードを半々にし、少しずつ低アレルゲン食の割合を増やしていき4日後にはすべて低アレルゲンのドッグフードだけにした。それは勿論、意外ではあったがラテがそれを食べてくれたからである。
まあ、それには…病院で診察してくれた院長が聞いたら叱られると思うが…秘密がある。
トッピングを取り急ぎ全廃するのではなく工夫することにした…。
まずこれまでずっと続けてきたササミのレトルトおよび牛肉の缶詰を食べさせるのを止め、人間用の豚肉をフライパンで焼き、細かく切ったものを少量トッピングとして使うことにした。これなら加工に際して使っているかも知れない添加物やらを排除できるし、手間はかかるもののコスト的にもほとんど変わらない。
そして最後にブロッコリーを茹でたものを周りに配してメニューは完成である。

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※久しぶりに会ったボビーちゃんちのお姉さんに飛びついて甘えるラテ


問題があると言えば従来のドッグフードと比較すると低アレルゲン食は1キログラム当たりの価格で三倍近くも高いことだ。まあその代わりおやつ類のほとんどを買わなくすれば全体のコストは同じようなものだと思うが、これまで昼時にあげていたり散歩の途中で少なからず与えていたおやつをまったく食べさせないというのもオトーサンとしては気がひけるのだ…。
アレルギーを治すために鬼にならなければならないのは十分わかるが、ラテはこの変化をいったいどんな風に思うのだろうか。
愛情を失ったなどとは考えないだろうか(笑)。いや、本当に心配なのである。
なにしろ、ラテの物欲しそうなあの眼差しは「なぜおやつくれないの?」「昨日までくれてたのに…」とオトーサンを責めている。

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※オヤツがニボシだけでは不満だなあ...アタシ!


ということで散歩には煮干しを持参することにした。そういえば当初はおやつと言えば煮干しだった。それがペットコーナーに行くとこれでもか…とワンコの喜びそうなおやつが多々並んでいるわけでこれまでどれほどの種類のおやつを買っただろうか。
ともかくテラは当然のことながらなぜ食事が変わったか、急に昼時のオヤツがなくなり、散歩時にオトーサンの足を鼻でツンツンと突いてねだってもニボシしか出て来ない理由を知らないのである。
だからオトーサンとしてはラテがこのオトーサンたちの急変をどのように受け止めて考えているのかを…考えると少々心が痛むのである。
ラテに「オトーサンはアタシが嫌いになったのかしら?」とでも思われてはオトーサンは生きていけないではないか(笑)。

冗談はともかくラテは物言わないが数日は混乱していたように思う。それを分かってオトーサンは心を鬼にしているが、物欲しそうに寄ってきたりするラテにおやつを与えないよう努力するのも辛いものがある…。
ともかくしばらくは良い変化を期待して主食を替え、おやつ類を極力あげないようにしなければならない。そう決意しオトーサンは先日またまた動物病院へ出向き、低アレルゲン食のドッグフードの3キログラム入りを買ってきたがこれが5,000円もするのだから大変なのだ。
それでも主食を替えてもお腹を壊したりせず、一応出した物はほぼきちんと食べてくれるので続けてみようと考えている。
そして肉球や足を噛み、血が出るような場合は薬を塗り、一時的だとしても包帯を巻いていたずらに舐めたりかみ続けることがないようプロテクトするという闘いも続けている。根比べである。

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※お腹を出してオトーサンに甘えるラテ。胸の傷が痛々しい(現在は治りました)


オトーサンが本稿の原稿を書きつつ、階下に降りてリビングに入るとラテはかまって欲しいと思ったのだろうか、マッサージチェアの上でお腹全開姿勢で迎えてくれた…。その舐めすぎて少々赤みを帯びた腹や一部掻き壊して血が滲んだ傷部分が痛々しい。オトーサンは悲しい思いで胸や腹を撫でてやると「ぐぅぅ…」と声を上げながらオトーサンを仰ぎ見たラテの視線は優しかった…。

自分で度数を変えられるメガネ「アドレンズ エマージェンシー 」を試す

その製品コンセプトに誘われ、一抹の不安もあったが「アドレンズ エマージェンシー 災害緊急用眼鏡」を買ってみた。なにしろ度数の調節が「いつでも」「誰にでも」「何度でも」可能なメガネだというから画期的な製品である。一応災害時の緊急用や一時的なスペアのメガネとして開発されたものだというが是非試してみたかった…。


私は中学時代から黒板が見えなくなり、いま思えば仮性近視だったのかもしれないものの必要に迫られてメガネを使うようになった。メガネを常用するようになるとみるみるうちに視力が落ち、毎年新しいメガネを作らなければならなくなった。
社会人になってから一時期コンタクトレンズにしてみたが、眼に負担が多くていつのまにやらまたメガネに戻っていた。
近年は近視だけでなく乱視はもとより老眼も入っているため、いわゆる二焦点レンズのメガネを愛用しているがこれとて理想的な環境ではないと思っている。

当然のことながら日常生活を考えればMacの前でモニターを見る、読書、外歩き、細かな作業などなどそれぞれ必要な距離とシチュエーションによってそれに合った眼鏡があることが理想だ。ただそれではコスト面はもとより煩雑で使いにくいというより現実的でないからこそ近視と老眼をひとつのレンズで実現する二焦点レンズのメガネを使っている。
メガネも近年はかなり安価になってきたものの、複数のメガネの使用は不便だし、視力が変わったとき新調するにもコストがかかる。

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※自分でレンズの度数調節が可能なメガネ「アドレンズ エマージェンシー」


アドレンズ エマージェンシーというメガネは度数の調節が「いつでも」「誰にでも」「何度でも」可能という利点を活かし、災害時の緊急用や愛用のメガネを壊してしまった時などの一時的なスペアメガネとして開発されたという。
視度調節が可能なのは可動式の2枚のレンズで出来ており、それらをスライドさせ組み合わせることで0.02〜0.1の近視から0.1〜0.5までの老眼・遠視に対応できるという代物である。ただし乱視の補正はできない。
調節もダイアルを回すだけという基本的に簡単なものだから災害用ではひとつあれば必要なときに複数の人に順次使ってもらうこともできるし無論、度数が変化した場合にもメガネを作り直すことなく自分で調節できるわけだ。
ただしこのメガネは常用品ではなくあくまで一時的なスペア用であり非常用としている点が残念だ。ともかくリスクの高い作業、例えば車の運転などには使用しないようにと明記されている。

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※フレーム左右のダイアルを回すことで2枚のレンズがスライドして度数が変化する仕組み


それと好みもあるだろうがもし常用可能だとしてもこのデザインはいかにもこのまま街を歩き電車に乗って通勤するには正直少々抵抗がある。
レンズの素材はポリカーボネートでフレームもTR90という弾性に優れたナイロン樹脂で、衝撃に強く壊れにくいメガネとなっているし男女、年齢を問わず万人を対象としたシンプルなデザインだという。
実はこのアドレンズ エマージェンシーは2011年度グッドデザイン賞を受賞した製品である。ただし個人的には機能第一に考えたデザインという感じもして正直優れたデザイン性というものは感じられない(笑)。そもそもがファッションうんぬんを気にするアイテムではないのだろうし限定的な用途を目指した製品だからしてデザインにも何らかの制約が生まれるのかも知れない。しかし原稿の製品は一種の眼鏡型ルーペのようでもあり、今後はより日常使用に違和感のないデザインを指向して欲しいと考える。

さて実際に手にしたアドレンズ エマージェンシーの感想はといえば、値段が値段だし高級感にはほど遠いが樹脂製のため軽いことでもありかけ心地に違和感はない。
裸眼にアドレンズ エマージェンシーをかけ、片方の眼毎に対象物がよく見えるようにとフレーム端にあるダイヤルを少しずつ回す。そして大切なのは両眼で見た結果で微調整を行うことだ。これは私のように両眼の度数が大きく違う場合には片方それぞれを合わせても両眼だと見難い場合が多いからで。最後は両眼度数の妥協点を見つける必要がある。
また私は乱視も入っているので若干ぼやける部位があるものの(アドレンズ エマージェンシーは乱視補正は不可)、最初は70センチほどの距離にある液晶モニターを見るために調節してみたが結果はまずまずだった。
続いて今度は読書を想定し、書籍を両手に持って度数を調節してみたが、これまた実用に耐えうる結果だった。

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※2枚のレンズがずれて重なっているのがお分かりだと思う


私はド近眼なため、災害時はもとより度数の合ったメガネがなければ実生活にすぐ支障がでる。したがってこのアドレンズ エマージェンシーを非常用バッグに常備しておくだけでも少しは安心できるのではないかと思う。
例えば寝ているときに災害にあったとすれば、枕元に置いたメガネの事を忘れたり、あるいは壊してしまう可能性も否定できないからである。
ただ全体的な作りは前記したスペックだとしても丈夫そうには見えないし、特にレンズは傷つきやすいはずだから付属のケースに入れ、取扱時にも十分気遣いが必要だと思う。

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※文字通り緊急用とか、一時的な利用には十分に使えることが分かった


ところでこの製品開発のコンセプトには開発途上国の人々に視力矯正の手段を提供するというビジョン・フォー・ア・ネーションという試みが意欲の根源になっているという。
アドレンズ・ジャパン社のホームページによれば、ビジョン・フォー・ア・ネーションは、眼科医にかかれなかったり、眼鏡を買う余裕のない地域の人々が、誰でも眼鏡を利用できるように創設された、革新的なプログラム。誰もが眼鏡を利用できるようにすることで、ビジョン・フォー・ア・ネーションは、ルワンダの全ての利用者の生産性、教育、雇用、生活の質に有益かつ計測可能な影響を与えられることを目標としているという。
この種の活動が文字通りの物であれば非常に素晴らしいことだが、私にはこうした人道的活動について知識と情報が足りないこともありコメントは避けるが、度数調節がユーザー側で可能なそして安価なメガネが誕生したことは意義深い。事実初回生産分から1000個を宮城県と福島県の被災地へ届けたという。さぞや喜ばれたに違いない。

また今年の12月9日には世界初の液体レンズテクノロジーによる度数調節可能なメガネ「アドレンズ p.o.v.」も登場するという。視力を調節するという目的のメガネはレンズの精度や強い近視用でも薄いレンズが作れるようになるなどの進歩はあるものの基本的には度数が変われば取り替えるしかなかった。しかしメガネにもこうした進化が迫っていることはメガネ利用者の一人としては嬉しい限りだが、後は文字通り安全で常用可能なことは勿論、デザイン性の優れた製品の登場が待たれる。

adlens(アドレンズ) アドレンズ エマージェンシー 災害緊急用眼鏡 ブラック
アドレンズ・ジャパン株式会社

ラテ飼育格闘日記(254)

ラテを半年ぶりに動物病院に連れて行った。目的は四つ足を噛む事と最近体を掻く頻度が高くなったことだ。フロントラインなどは処置しているがノミやダニだけでなく皮膚病やアレルギーの疑いもあるからとまずは病院に電話を入れた後に早速ラテを連れ出した。                                                                                                                                 
時間は午前10時過ぎ、ラテを一級河川のある方向に連れて歩くがものの10数メートル進んだ当たりでこの娘はどこに連れて行かれるかを悟ったようだ。
頻繁にリードを引いていま歩いてきた道を戻ろうとする…。試しにオヤツを取り出して口元に持って行くが、食べない(笑)。緊張のあまりオヤツどころではないのである。

動物病院までは自宅から順調に歩けば20分ほどで着く距離だが、次第にラテの引きと抵抗が強くなる。といって予約した時間に遅れるわけにも行かないし、こればかりはラテの希望を叶えるわけにもいかずなだめすかし、時には強くリードを引いてともかく病院に入る。

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※どうです、この鼻筋の通ったベッピンぶりは(笑)


周りにはロシアンブルーとアメリカンショートヘアーの猫が順番を待っていたが、ラテはドアの方に這うように進もうとする。無論外に出たいのだ。それを強引に押しとどめて順番を待つこと約20分、オトーサンは汗をかいてきた。

病室に入り、診察台にラテを乗せるがすでにオトーサンに抱っこ状態でオトーサンが両手を離したら飛び降りるに違いない。とにかく素早く体重を測り検温を行う。
係の女性が教えてくれた体重を聞いてオトーサンは笑みがこぼれた…。ここの所長い間体重は増加するばかりで何とか20kgをキープすることに努力をしていたわけだが、首輪とリードを付けたままで19.72kgと春から740gほど減量したことになる。この減量はオトーサンたちにとっては励みになる。無論体温も問題なかった。

続けて入ってきた院長に事の次第を説明する。特に後ろ足は一目見て傷が広がっているのが分かるわけで鉗子を数本用意し、傷やその周りの毛を数カ所抜いて顕微鏡で見ることになった。
ラテはオトーサンに前両足を預けて抱っこ状態のままだが、声は上げないもののオトーサンにしがみつく力がこもる。
しばらく待っていると院長が結果を説明してくれたが、ダニはいなかったとのこと。症状からして肉球付近は菌類による痒みが出ているようでもあり、体全体を掻くのはやはりアレルギーの疑いもあるという。

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※アレルギーに拍車をかけてはまずいので香りだけだぞ...ラテ!


実はこの日、女房から預かった5万円を懐にオトーサンは動物病院をくぐったのである。それはアレルギー検査は高額だと聞いていたからだし無論保険に入っていないので一万や二万円では足りないと覚悟しての病院行きだった。動物病院へ連れて行くにもなかなかの覚悟が必要なのだ(笑)。
ともかく予算的にきつい額だろうがラテが頻繁に痒がっているのを見ているのは辛いし、なによりもラテ自身が可哀想だ。
だからオトーサンたちとしてはアレルギーの病理検査を受けるつもりでいた。しかし院長は「主食の在庫はかなりあるんですか?」と意外なことを聞く。

先般在庫として1Kgの袋を買ったばかりだというと、それではまず食事療法を半月ほど試してみましょうと提案される。オトーサンは「アレルギー検査をしなくていいんですか?」と聞くと、いかにも金を持っていないオヤジと考えているのか(笑)、それは食事療法の後、改善されない場合で遅くないという返事だった。
無論アレルギーで何らかの反応が出たにしろ現実的な症状は複合的なケースが多く、結局は食事療法につきるということらしい。
「毎日どんなものを食べているか?」という質問にオトーサンはあれこれ説明すると院長は「随分といろいろなものを与えているんですね」と苦笑。
ともかく低アレルゲンの主食以外はあげないことにして様子を見ましょうということになった。
数日間はこれまでのフードと混ぜながら次第に低アレルゲン食を多くすると言う作戦だ。ただしまれにこれを食べないワンコもいるのでその時は相談して欲しいといわれる。そんなに不味いのか…とオトーサンも心配になるがまずは心を鬼にしてやってみなければならない。

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※ハリーのお母さんに甘えるラテ。見つめるラテの眼差しが何とも印象的だ(笑)


傷にはイソジンを処方され、酷いときには薄くドルバロンという塗り薬を使うことにする。ドルバロンは医者から処方されたのではなくオトーサンたちがネットで調べて実験的にラテに処方していた薬だが、院長はステロイド系の薬なので連続して使い続けないようにと注意をしてくれる。そして薄く塗れとの指示。
半月後にまたどのような変化があるかで次の判断をしましょうということで診察は終わった。

幸い用意した金の大半は使わずに済み、それは良かったのだが本当にアレルギー検査は後で良いのか…。しかし闇雲にお金になるであろう検査や高価な薬を処方するような医者よりは信頼できるとオトーサンは思っているのだが…。
問題は主食のドライフード以外はオヤツもすべて止めてくださいという指示だ。無論今日から100%というわけにはいかないのは医者も重々承知しているに違いないが、ミルクもヨーグルトもそしてトッピング用として使ってきたチキンのレトルトや牛肉の缶詰も食べさせないようにするという理屈だが、果たしてそんなことはできるのだろうかとも思う。
ラテが痒がるその辛さを見ているとオトーサンたちこそ鬼になって食事療法を進めなければならないことは承知しているが帰宅して医者から受け取ったドライフードを開けてみたが、墨のように真っ黒で見るからに不味そうだ(笑)。
オトーサンたちとラテとの格闘は続く!

ホームブリューコンピュータクラブの誕生とその役割

アップルという企業やパーソナルコンピュータ誕生の歴史を遡る旅を続けているが、印象的なこととしてAltair 8800のようなホビーコンピュータの登場は勿論だがそれらを積極的に評価し広めようとした個性的で実力派の人たちの存在が浮かび上がってくる。そうした人々の活動の中心となったのがホームブリューコンピュータクラブという存在だった。                                                                                              
Appleの歴史を遡るならスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックという二人の人物を抜きにして語れないが、彼らも一時積極的に参加していたコンピュータクラブのひとつがホームブリューコンピュータクラブだ。その存在と活動はその後のパーソナルコンピュータ誕生にも大きく関わってくるものだったことは忘れてはならない。
ちなみに “Homebrew” とは自宅でビールなどを醸造する意味から転じ、自分でコンピュータを手作りするというニュアンスで使われ命名されたという。また「ホームブリュー」を「ホームブルー」と記してある書籍などがあるが、そもそも発音をカナ表記する難しさもあるわけだが、最近では「ホームブリュー」と記すことが一般的になっているようだ。身近に別の団体だと勘違いしていた人がいるので念のため記しておきたい。

さて、よくパーソナルコンピュータの誕生は60年代のカウンター・カルチャーと称される反体制、反戦、自由指向が理解できないと成り立ちは分かりにくいと聞く。確かに日本でも学生運動はあったが米国における文化としての気風や時代の流れは極東の日本で例え同じ時代を共有していたとしてもなかなかダイレクトに理解できないというのが本当のところだ。
しかしウエストコーストコンピュータフェア(WCCF)の主催者であるジム・ウォーレンはそうした60年代の反統制指向の遺伝情報が当時のハッカーたちの原動力だったと言っている。
反戦運動とドラッグが相乗的にアメリカのアート、音楽、文学、思想などありとあらゆる文化に多大な影響を与え、既存の価値観を否定する気風が高まった時代だったのである。

ジム・ウォーレンは言う。1960年代終盤にはそのカウンター・カルチャーに影響されサンフランシスコを中心とするベイエリアでフリーユニバーシティと呼ばれる活動が活発になっていったと…。
それは老若男女を問わず学ぶ機会を均等にシェアしようという試みで、大学に入らなくても何かを学びたい人が自由に学べ、教えたい人が教えるというスタイルが普通で実際の教室は誰かの自宅だった。この時代は知識を共有すると共に、いまの管理社会を変えようという強い意識が浸透していた時代だったという。
1970年代になるとこのフリーユニバーシティは自然消滅していくが、ホームブリューコンピュータクラブという集まりはこうした文化背景の流れを組むものであった。そしてAltair 8800の発売に触発される形でクラブは発足したらしい。

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※第1回ウエストコーストコンピュータフェアの非営利スポンサーのひとつとしてホームブリューコンピュータクラブの名がある(第1回ウエストコーストコンピュータフェア会報より)


ともかく1960年代の終わりころ米国の大学は動乱期だった。そして多くの若者が既製の価値と体制・体系に疑問を持ち自身の価値とのギャップに苦しみ大きな違和感を感じていた時代だった。
政治の話しはともかくコンピュータに関わることでも根っこは一緒だった感がある。
IBMをはじめとする巨大コンピュータメーカーの市場支配を打破し、それらのコンピュータ利用を牛耳っているプログラマやエンジニア、オペレータたちを「コンピュータの聖職者」と揶揄するいわゆる革命家とも呼ぶべきハッカーたちが登場しつつあった。

1970年代の後半までユーザーは一般的にタイム・シェアリング式のコンピュータを使わざるを得なかった。
通常鍵のかかった部屋に設置してあるメインフレームとそれに接続した端末装置を使うには前記した聖職者といわれる人たちの許可を取らなければならなかった。
確かにミニコンは存在したがそんな高価ものを個人で持っている人はほとんどいなかった。勿論リー・フェルゼンスタインのようにタイムシェアリングシステムを使いやすくしようと努力している人物もいた。フェルゼンスタインは鉱石ラジオ技術が普及したようにコンピュータも一般に普及させたいと考えるようになっていた。
そんな折も折、1975年1月号のポピュラーエレクトロニクス誌にAltair 8800が紹介されたのだった。彼らは大きな衝撃を受けると同時に一筋の希望が差し込んだ!

機械技術者でコンピュータ・ホビイストのゴードン・フレンチと共にホームブリューコンピュータクラブを立ち上げたフレッド・ムーアはコンピュータに関心のある者、教師ならびに革新的な教育家などのリストを得てコンピュータ技術に関する共通の情報を持ち合う場を持とうと檄をとばした。
こうしてホームブリューコンピュータクラブは1975年3月5日、シリコン・バレーに隣接したメンロ・パーク郊外にあったゴードン・フレンチの自宅の車庫で第1回が開催され32人が集まったのである。先のリー・フェルゼンスタインも友人を誘って参加したがそこにはあのスティーブ・ウォズニアックもいた。



※2004年にテレビ出演した際のリー・フェルゼンスタインおよびスティーブ・ウォズニアックら往年のメンバーたち。今は亡きジェフ・ラスキンの姿も...


そしてスティーブ・ドンビアは自分がMITS社を訪問したこと、すでにAltairは1,500台出荷され、さらにこの月だけで100台が出荷されるということ、そしてMITS社は大量の注文をかかえて対応に苦慮しているといった情報を報告し、コンピュータは誰でもが買おうと思えば買える次代が到来したのだと力説した。
この第1回の会合の様子は「Homebrew Newsletter #1 Vol 1」としてここで見ることが出来る。

4月の会合はメンロ・パーク市の小学校で行われたがここでスティーブ・ドンビアは自身が組み立てたAltair 8800を持ち込み、その上に乗せた小型のFMラジオからメロディーを出力させた。
Alteia 8800による初めてのコンサートが終わると会員たちは全員起立してドンビアに拍手したという。
参加者たちはドンビアを羨ましいと思いながら、自分たちもコンピュータを手に入れたらいったい何ができるのか、何を実現したいのかを思い浮かべた。

彼らの多くは夢想した。コンピュータは次代を担うものであり、誰でもがコンピュータを使って自分のやりたいことのために役立てる時代がくることを…。ただし彼らにも当初コンピュータという代物は果たして何者なのか…何の役に立つのか…といったことについては明確な理解はされていなかったと思われる。
ともかくホームブリューコンピュータクラブの評判は大きくなり第3回目の会合では100名を超える参加者となった。

当時のホビーストたちはソフトウェアよりもハードウェアに関心があった。何故ってありもしないコンピュータ用のプログラムなど作り得なかったからだが、Altair 8800の出現でソフトウェアが必須となったのである。だからプログラムが書ける人はそれぞれの力量でプログラムを書くようになったが、それを売買するようになろうとは誰もが思ってもみなかった。あのビル・ゲイツたちを除いて...(笑)。
無論Altairのメモリは256バイトと極小だったから複雑なことをさせることはできなかった。しかしともかくその能力を実演してみせる簡素なプログラムを書こうと努力する人たちが多々登場する。先のドンビアの音楽演奏プログラムのように…。

しかし彼らはなぜこの玩具のようなコンピュータに魅せられたのだろうか。それは多分に知識欲が大きな動機だったに違いないしコンピュータそのものがこれまでになく新しくて刺激的な遊び道具だったのかも知れない。
Apple Computer社の共同設立者であるスティーブ・ウォズニアックは言う。自分は内気でホームブリューコンピュータクラブでもなかなか発言できないでいたという。しかしある日自作のコンピュータ(Apple Iの原型)を皆に見せることができたことがきっかけで周りの人たちと話しができるようになったと…。

私自身にも思い当たることかが多々ある。1980年代後半あたりから急にパソコンを軸にしたコミュニケーションが多くなった。機会があればお話ししたい様々な思い出もあるが、あるとき同好の友人知人たち十数人と一泊で旅行に行ったことがあった。確か東京駅かどこかで待ち合わせたはずだが、待ち合わせの時間中、電車で移動中、ケーブルカー乗車中、夕食で膳を囲んでいる間、そして温泉につかりながらも我々はずっと絶え間なくAppleのこと、Macintoshのことを喋り続けていた(笑)。
食事が終わり、世話役のM氏が旅館の人に「ビデオを見ることが出来る部屋を予約していたのですが…」と聞く。係の女性は顔には表さなかったものの、きっと「こいつら皆でアダルトビデオでも見るんだろう…」と考えたに違いないが、我々がそこで見たのはAppleの新作コマーシャル映像だったのである(笑)。

私にとってもそうだったが、当時のホビーストやマニアにとって “コンピュータそのものが意思疎通のための言語” だった感がある。コンピュータのことなら一晩でも二晩でも話しは尽きなかった。
総じていえることは未知の領域を探る知的冒険家の醍醐味をそれぞれの立場で感じ取っていたに違いない。
ただしホームブリューコンピュータクラブ設立当時はまだまだ環境が整っていなかった。マイコンが時代を先取りして世の中を変えるようになるには、優れたソフトウェアや周辺機器によりマイコンが玩具から有用な道具に変わらなければならない。そのために早急に必要なのはオペレーティング・システムといわゆる高級言語とよばれる開発環境であった。

当時マイコンに関するあらゆる新しい情報はホームブリューコンピュータクラブの会員たちにより持ち込まれ、共有された。そうした中からハッカー精神に反すると考える向きもあったものの次第にビジネスが生まれはじめる。
1976年の終わり頃のシリコン・バレーでは、プロセッサ・テクノロジー、クロメンコ、ノース・スター、ベクター・グラフィックといった会社が名を成しはじめていて少し前にはまったくなかったひとつの産業を築いていたのである。そして驚くべきはその産業はあたかも光速のようなスピードで成長していった。

当時、他にもこうしたクラブは存在したがホームブリューコンピュータクラブは最も成功したクラブのひとつであり、マイコン創造の触媒となった。なぜならそれらに関わる人たちをホビーストから起業家…ビジネスへと橋渡しする大きな役割を果たしたといえよう。
しかし前記したリー・フェルゼンスタインだが、ホームブリューコンピュータクラブのモデレータを1975年から1986年まで務めたことだけでも大変な人物だったが、友人のボブ・マルシュに頼まれAltair用のメモリボードを設計し、それは多いに売れたという。またAltair 8800bのビデオディスプレイモジュールの設計をも行いマイクロコンピュータ革命に一石を投じた。しかし彼はハッカー倫理に則り、あくまでボランティアの姿勢を崩さずそれで金を儲けることは避けたという。

Lee Felsenstein

※リー・フェルゼンスタイン (InfoWorld誌 Volume5, Number45 より)


ホームブリューコンピュータクラブの戦士たちは、他者のために自分たちの才能をふるい、ハッカー倫理を実践していた。そして誰にでも使えるコンピュータの実現という共通の夢を分かち合いその研究が実践されてきた同クラブは1986年12月17日、スタンフォード大学の講堂に80名が集まり最後のミーティングを行った。その会合をもってホームブリューコンピュータクラブは11年間の歴史に終止符を打った。
リー・フェルゼンスタインは言う。「我々は自分たちが時代遅れになり役に立たなくなったと言っているのではない。こういったスタイルでの集まりこそ時代遅れになったと考えたのだ」と…。
フェルゼンスタインの言うとおり、時代は確実に代わり、ハッカー倫理もそのままでは通用しなくなったのである。

【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「ハッカーズ」工学社
・「パソコン創世記」TBSブリタニカ刊
・「マッキントッシ伝説」アスキー出版局
・「アップルを創った怪物」ダイヤモンド社

当研究所のオールドMacがNHK BS1のジョブズ氏追悼番組に出演

10月6日(木曜日)の午前9時前、朝好例のあれこれを終えMacの前に座ったときスティーブ・ジョブズ氏死去の情報に接した。しかし以前にもガセネタでびっくりしたこともあるからと慎重に調べてみたがApple本社のサイトにメッセージが掲載されていたので残念ながら認めざるを得なかった。


まず個人的に大きなショックを受けたが、一応AppleとかMac関連サイトを運営している責任上、この悲しくも重大なニュースを載せなければならないという使命感でまずは事実だけを簡単にアップロードした。
その後、より詳細な情報を得ようと様々なサイトやTwitterなどを駆使して調べてみたが、死因やその様子などに関しては一切情報が入ってこなかったし、中には9月9日に既に死亡していたといった誤った情報までが交錯し正確な情報を得るのに手間取った…。

ひとまず自身の気持ちを整理しようとTwitterに今の気持ちを書き込みながらタイムラインに書き込まれる多くの方たちと思いを共有することができたが、どうにも涙が止まらない...。
午後になるとジョブズ氏死去に関連するメールも多くなった。そうした中にはテレビ朝日「報道ステーション」やNHK国際部 BS1「ワールドwaveトゥナイト」というニュース番組担当者からジョブズ氏追悼番組に使いたいからとオールドMac貸し出し依頼も舞い込んだ。

結局「報道ステーション」の方は手近なところで必要なアイテムが調達できたということでキャンセルになったことでもあり、NHKの「ワールドwaveトゥナイト」にお貸出することになった。
NHK報道局のディレクターの方と電話でお話しをした結果、結局ジョブズ氏がApple在任中開発に関わった中でエポックメイキングなマシンということでApple IIc、Macintosh 128KそしてiMac ボンダイブルーならびに初代iPodを用意することになった。

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※NHK BS1「ワールドwaveトゥナイト」で出番を待つ当研究所のオールドMacたち


一番の問題はこの種のオールドマシンは必要な時に間違いなく起動するかについて非常に心許ないことだ。それでも確認と準備の時間があれば何とかなるにしても話しが煮詰まったのが夕方であり、これからピックアップに来訪いただき、当日の20時から収録準備、22時から放映といったタイトなスケジュールでは起動の保証は出来ない。
その旨を理解していただいた上で必要な機材をリストアップし玄関に並べ、車の到着を待った。

結局運が良かったというか、ジョブズの魂が応援してくれたのか、起動の確認ができないままにお貸出するというとてもリスキーなケースであったにも関わらず3台共に問題なく起動しNHK BS1の番組の中でその存在をアピールすることができた。
幸いなことは担当ディレクターの方ご自身が中学生の頃AppleⅡに出会い、以降20年来のマックユーザーだったことだ。したがって細かな説明が不要だったこともラッキーだったといえる。

私自身も当日リアルタイムで番組を見たがそれら3台のマシンが並んでいるだけという地味な絵ずらではあったものの、起動しているその姿は自画自賛だがやはり美しかった。大したものである…我がマシンたちよ!肝心なところできちんと役目を果たして帰ってきたではないか。
なおここに掲載した写真は担当ディレクターの方が収録準備の際に撮影された1枚であり、許可を得て載せている。また背景に写っているスティーブ・ジョブズ氏の映像は本番時には近年のジョブズの映像に変わっていたことを記しておきたい。
あらためてスティーブ・ジョブズ氏のご冥福をお祈りします。

ラテ飼育格闘日記(253)

あれほど暑かった夏も過ぎ、つきなみだが秋の気配が漂う季節になってきた。気温がぐっと下がっただけでなく毎日出歩く風景も緑色に黄色が多く混じってきた。それと共にあれだけ散歩に出るのを嫌がっていたラテが、今度は家に入らずそのまま散歩を続けたいとダダをこね、地面にうずくまって動こうとしない。                                                                                                                 
気温が20度を下回ると面白いように…というか、可笑しなほどにラテの行動に著しい変化が生じる。
あれほど朝晩の散歩をいやがり、時に自宅を出る際にオトーサンの腕に抱かれて出発するという体たらくのラテが、この数日自宅の前を通り過ぎ、もっと歩きたいとダダをこねる有様なのだ。
相変わらず自分の歩きたい方向、場所はあるようで時にリードを引くときもあるが「この3ヶ月は何だったのか」と思うほどスムーズに歩き、お馴染みの公園に足を運ぶようになった。

特に土日の朝など、女房が一緒だとラテの張り切り様は違ってくる。女房の姿を追いかけ、時に後ろを振り返り女房が遅れているとお座りして待つという気配りを見せる。
オトーサンとだけの散歩だと「あっちに行きたい!」とリードを引く場所も、女房が先に行くとそれについていく…。まったくオトーサン形無しである。

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※気温が低くなった途端にラテは歩く気力が充満したようだ(笑)


やはり公園に行けばボーダーコリーのボーちゃんと体をぶつけ合いながら走ることもできるし、事実先週の土曜日にはこれまでグウタラしていた3ヶ月分の運動を一気にするような走りっぷりを見せたラテであった。
砂地にある滑り台をオトーサンと一緒に登って滑り降り、そのまま猛烈な勢いで穴を掘り、ときにまだまだこんなパワーがあったのかと思わせるほどの走りっぷりを見せる。一緒に遊んでくれるボーちゃんがボーゼンとするほどのスピードであった(笑)。

かと思えば日曜日にはラテが大好きなイケメンワンコのマキちゃんとオカーサンに会え、乱舞するような動きを見せるラテだった。
ワンコに対して好き嫌いが激しいラテとはいえ、先のボーちゃんやビーグルのハリーちゃん、黒柴のクロちゃん、あるいはコーギーのアポロちゃんたちとは喧嘩もせずに相対し、時に一緒に遊んだりするわけだが、マキちゃんとはどういう感情なのかお互いに頻繁に口元を舐め合うのである。

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※マキちゃんのオカーサンに甘えながらもマキちゃんと口を舐め合うラテ


無論マキちゃんがオトーサンや女房にオヤツをねだっているそのときにはチャンスだとばかりマキちゃんのオカーサンの膝に前足を乗せてこれまたチュー攻撃を開始する。無論マキちゃんのオカーサンやハリーのお母さん、そしてボストンテリアのボビーちゃんのオトーサンなどはラテを可愛がってくださるからだが、その嬉しそうに振る舞うラテの姿を見ながらありがたい…良かったねラテ…と思いながらもオトーサンにすら見せないラテの歓喜の表情を複雑な思いで眺めるオトーサンなのであった(笑)。

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※道ばたに一輪だけ咲く曼珠沙華に鼻を近づけるラテ


ともかくラテに限らないのだろうがワンコの記憶力には本当に頭が下がる…というか感心してしまう。
オトーサンたちは当然のこととはいえ自分たちの世界は通常視覚に頼っている。向こうから来た学生風の女の子が知っている人かどうかを判断するのはもっぱらその人の顔かたちや全体の様子で判断するしかない。しかしこれは自分の家族たちならいざ知らず、他人だとときにはなかなか難しいことになる。
なぜならその若い女性は髪型がいつも同じとは限らないし無論服装だって以前認識していた時と違っているはずだ。よほどの特徴がある場合を除いて数回立ち話をしたような人と半年後あるいは一年後にすれ違ったとき、その人だと判断できるかは心許ないに違いない。

事実、ラテといつものカフェに向かっているときすでにあたりは薄暗くなっていた。
オトーサンがふと前から歩いてくる高校生と思われる女の子の存在に気がついたが、無論女性にかぎらず他人をじろじろと見るわけにはいかない。しかしその女性が以前数回お会いしラテを可愛がってくださった女の子ではないかと思ったが名前も知らない人に笑顔で声をかけるわけにはいかない。第一その人がオトーサンが思った人かどうか自体心許ないのだから…。
もともとオトーサンは誰にしろすれ違う人や後ろから近づく人に注意を払っている。無論それはラテが驚くとか怖がるといった理由はともあれ人に飛びかかったりしないようにするためだ。決して女性ばかりを見ているわけではない(笑)。

オトーサンが近づいてくる女子学生をそれとなく注意をしているが先方は何かに気を取られているのかワンコ連れの我々に注意を払っていない様子だった。しかし5メートル近くになったときラテの態度に異変が起きた。
どうやらラテはその学生さんを誰であるか特定したらしい。そして自分にとって好ましい人物だと分かったのだろうお尻を振りながら小さくステップというかピョンピョンと跳ね始めた。それを見て学生さんも気がついたようで「ラテちゃん?」と声を掛けて近づいてきてくれた。

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※アタシもっと歩きたいのに...と不満そうな表情(笑)


ラテはもう大変だ。その人に飛びかかろうとするのはオトーサンが制したが足下の周りを跳ね回り、ときにワンコ独特の遊ぼうポーズをする。その学生さんの家もワンコを飼っているから扱いに慣れているわけだが差し出してくれた片手を舐め回しながらリードの許す範囲をかけずり回る…。嬉しいの気持ちを120%表していることは間違いないからワンコ好きの学生さんも笑顔で「ラテ!バイバイ」と手を振りながら去って行く。
その時間にしたらものの1分程度だったと思うがラテにとっては至福の出会いだったことは間違いなく、その後はいつになく機嫌良く歩いていた。
すでにあたりは夕闇だったがオトーサンはラテの表情を見ようとライトの光を向けたが、オトーサンにアイコンタクトするラテの表情はいかにも満足そうな笑顔だった。

ヴィヴァルディと天才少女の葛藤を描く「スターバト・マーテル」感想

私はそもそも近年小説らしい小説は遠ざけてきた。なぜかを説明するのは簡単ではないが一言で言うなら性に合わないとでもいうのだろうか。しかし評判が高かったりテーマが好みだったりするものはなるべく手に取るようにしている。今回購入したティツィアーノ・スカルパ著/中山エツコ訳「スターバト・マーテル」も人づてに面白いと耳にし、テーマがヴィヴァルディだったからと読んでみた。                                                                           

1725年に出版されたヴァイオリン協奏曲集「四季」の作曲者として知られているアントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi)を知ったのは意外と遅かった。といっても随分と昔の話しではあるが(笑)。
バッハ(J.S.Bach)については私が若い頃からクラシックギターに夢中になっていたこともあり、ギター編曲版の簡単な数曲を練習するにつれ様々な曲を好んで聴くようになった。しかしヴィヴァルディを意識したのは1970年代前半のころデパート内に出来た喫茶店で初めて知ったと記憶している。
その店は場所柄というか、棚にずらっと並んだいかにも高級そうな一品物のコーヒーカップで好みの一杯を煎れてくれる店で街中のコーヒーより倍近い価格だった。
無論頻繁に通ったわけでもなく、山野楽器でレコードを一枚買った帰りにそのジャケットをゆっくり見たいと同じ階にあったその店に入ったのだった。
店内はいま思えばいわゆるバロック音楽を好んで流していたのだろうが、たまたま大変耳に心地よい響きに気づき曲名をお店の人に聞いたところヴィヴァルディの「調和の幻想」の "Concerto #6 In A Minor" だった。それが私とヴィヴァルディの正式な対面だったのである。

その後ヴィヴァルディの音楽は多々聞いてきたが、その人物像となると日本語で読める研究書も少なくバッハほどその人生は知られていないようだ。
無論彼がヴェネツィア出身のカトリックの司祭だったこと。髪が赤かったことから赤毛の司祭と呼ばれたこと。ヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院(ピエタ養育院)でピエタの少女たちにヴァイオリンを教えはじめ、「四季」をはじめ膨大な作曲を残したこと…程度は知っている。そのうちその生涯を追ってみたいと考えていたこともありティツィアーノ・スカルパ著/中山エツコ訳「スターバト・マーテル」の一冊が気になった…。

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なぜならその帯には「ヴィヴァルディと天才少女との葛藤。語られる『四季』誕生秘話」とあり、本書はイタリア最高の文学賞に輝いた話題作だという…。
これは小説だとしても少なからずヴィヴァルディのピエタ養育院における日常が覗けるのでは…と興味津々で本書を購入したわけである。
しかし私のような興味で本書を開いた人は私と同様困惑するに違いない。
何故なら確かに主人公は親に捨てられピエタ養育院という施設で寂しく暮らす一人の少女であり、史実がそうであるようにヴィヴァルディが新任の司祭として就任しヴァイオリン教師となる物語としては間違いないが、本文160ページほどのうち読者にヴィヴァルディでは…と悟らせる人物の登場が106ページに初めて登場し、「アントニオ神父」というヴィヴァルディの名が具体的に登場するのが110ページなのである。
後は主人公チェチリアという少女が会ったこともない母に孤独と不安からその地獄のような暗い思いを延々と独白するストーリーである。
その暗く絶望的で時にはグロテスクな語りは残念ながら私の心を揺り動かすのではなく正直本を閉じたいと思わせるものだった。
いつヴィヴァルディが登場するのか、という期待で何とか読み進んだが私には本書は奇抜な試みとは思うもののなぜストレーガ賞を受賞したのか...申し訳ないが分からない。もしかすると原著のイタリア語の響きは何らかの韻を踏み、美しいのだろうか…。

本書の後書き「著者ノート」によれば、著者が生を受けた1960年代、ヴェネツィアの市立病院の産科はかつてのピエタ養育院の中にあり、筆者であるティツィアーノ・スカルパはその建物...すなわちヴィヴァルディが少女たちに音楽を教え、指揮し、彼女たちのために無数の協奏曲や宗教音楽を作曲してい旧養育院の一室で生まれたとある。それがもっとも好きな音楽家と寂しい境遇にあったその弟子たちにオマージュを捧げたいと思ったきっかけだったという。
ピエタ養育院の施設で暮らす寂しい思春期の少女たちには同情するも「ヴィヴァルディはどうした!?」というのが私の感想である。無論史実とは違うが「四季」誕生のストーリーも確かに描かれているがヴィヴァルディは脇役でしかないように感じて不満である。

それにしても筆者が記しているように我々はヴィヴァルディの音楽を聴くとき、その多くがピエタ養育院にいた女性たちのために書かれたものであることを忘れがちだ。そして彼女たちは公の演奏時には地上何メートルかの高さにあって演奏し、手すりの後ろで金属の格子に半ば隠され、その姿はぼんやりと輪郭を見ることができても、顔をのぞくことはできなかったことも忘れてはならない。
本書を机上の脇に置きながらあらためてヴィヴァルディの「調和の幻想」を流してみると、どこかヴァイオリンの響きの中にピエタ音楽院の名演奏家たち…そう少女たちの啜り泣き、あるいは悲鳴にも似た声が聞こえるような気がする…。
そうそう書き忘れるところだったがタイトルの「スターバト・マーテル (Stabat Mater)」とは13世紀の詩人ヤコポーネ・ダ・トーディ作とされる聖母讃歌「スターバト・マーテル・ドロローザ」、ラテン語で「悲しみに暮れて母はたたずんでいた」の意。すなわち十字架のもとで聖母の悲しみを思う意味だという。

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スターバト・マーテル

2011年9月20日 初版発行
著 者:ティツィアーノ・スカルパ
訳 者:中山エツコ
発行者:小野寺優
発行所:河出書房新社
コード:ISBN978-309-20573-1
価格:1,800円(税別)

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第1回ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)開催物語

ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)のことを語るには主催者であるジム・ウォーレンについて語らなければならないだろう。ウォーレンはカリフォルニア生まれのテキサス育ちでテキサスで5年間数学を教えた後にサンフランシスコ湾地区に移住してシリコン・バレー北にある小さな町ベルモントの女子大の数学教師をしていた。


そこでも5年間教職にあったがその頃彼は自宅でヌード・パーティーを開いていたという。本人は慎ましやかなパーティーだとはいうものの、プレイボーイ誌やBBCが取材に来てタイム誌に記事が載りそれが大学当局に知れたとき大学がカトリック系だったことも関係して辞職を勧告された。

新しい職を探したウォーレンはスタンフォード医療センターでプログラミングの職に就き、その仕事が好きになった。興味は増し、彼はその分野での最新情報を追うようになりそれが後に彼を「DR. DOBB’S JOURNAL」の編集者にさせることにもなった。

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※第1回WCCF CONFERENCE PROCEEDINGS(会報)に載っている「DR. DOBB’S JOURNAL」の広告ページ


その頃、ニュージャージやアトランティックシティなどでコンピュータショーが開催され始めていた。ジム・ウォーレンはマイクロコンピュータの中心地はまぎれもなくシリコンバレーがあるこの西海岸であり、この地で開催されるべきだと考えるようになった。そして雑誌の編集ならびに発行と同じような意味においてメディア、メーカー、技術者たちの交友を実現する場となるであろうマイコン・ショーを開催するのは自分の仕事だと決意するにいたる。
いや、それは出版物よりはるかに新鮮な情報を提供してくれるに違いないとジム・ウォーレンは確信する。

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※第1回WCCF会報に主催者として載っているジム・ウォーレン(1977年)


ウェーレンは当初、ショーの会場としてスタンフォード大学の施設を借りようと考えたが、あいにくスタンフォード大学側が都合が悪いと断ってきた。そのためサンフランシスコのシビックオーディトリアムを覗きに行き気に入ってしまった。
そこは収容能力はあるし展示会場となるスペースも申し分なかった。ただし費用を確認すると一日の借り賃はかなり高かったので驚く。
彼はパートナーたちとレストランに入り、ナプキンに収支のシミュレーションをする…。展示の数は?その料金設定は?そして入場料は?
…だとすればおよそ6,000人程度の入場者数で収支はまかなえるだけでなく利益がでることもわかった。
決断が早いウォーレンは早速「コンピュータ・フェア」という自分の主催会社を設立して仲間たちと開催準備にとりかかることになった。そしてイベント名を「WEST COAST COMPUTER FAIRE」と名付けた。

ウォーレンはマイコン産業の社長たちに電話をかけはじめる。ウォーレンは編集業を通じて彼らの大半を個人的に知っていたのである。
「ああ、僕はジム・ウォーレン。今度コンピュータ・フェアをやるつもりだけど、出展の興味はあるかい?」と。
電話口の答えは「もちろんさ!」「凄いな、出るとも!」といったものがほとんどだったから、彼は「OK。じゃあ出展の金を送ってくれよ。展示スペースを確保するから」と。
Appleのスティーブ・ジョブズへも同じように電話をかけ、会場入り口正面のブースの予約を即決で取ったという。
数日もするとすでに黒字が目に見えていた…。結局出展社数は第1回にもかかわらず150社が集まった。

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※第1回WCCF会場の様子。もの凄い来場者数だ(BYTE誌1977年7月号より)


ところでジム・ウォーレンは来場者の数を土曜日と日曜日の両日で7,000人から10,000人と見越していたが実際には13,000人も集まったのである。
晴れわたった土曜日の当日、市民ホールの片側には2列、反対側には3列もの長い列が数時間にわたって続いた。
行列が必要以上に伸びた原因は来場者数が予想よりはるかに多かっただけでなくジム・ウォーレンの失策も影響した。なぜなら入場料を一律の料金にしなかったため窓口が混乱したこと、受付窓口のバイト人数を支出を抑えるために少なめにしたことなどが直接の原因であった。
ウォーレンはその長い列を見て一瞬これは大混乱になるのではと危惧するが、幸い大混乱は起きなかった。
来場者たちは入場できる1時間ほどの間、お互いにお喋りをしていた。彼らにしてみれば会場の外とはいえすでに展示会は始まっていて、自分たちと同じコンピュータ・マニアとの会話を貴重で楽しい物と感じていたからである。
こうした事は我々自身でもWWDCとか新型iPhoneの発売日、あるいはMacworld Expoなどで長蛇の列に並ぶ楽しさを思い出せば理解できるに違いない。

会場に入ってみれば最新の製品達がずらりと列び、ホビイストたちがメーカーの設計者たちと直接話しをする機会もあった。
一部のエリアでは満員電車なみの混雑さだった。Apple Computer社のブースはスティーブ・ジョブズが説明に追われていたがウォーレン曰く、出展企業は名も知れないような会社ばかりだったからAppleはそれらと比べれば会社らしい方だったという。
そういえば、富田倫生著「パソコン創世記」によれば、この第1回WCCFには日本人も少なからずいたらしい。
以前ご紹介したイーエスディラボラトリ社の水島社長とAppleの出会いに関しては繰り返さないが、当時マイコン雑誌 I/Oを発行したばかりで後にアスキー出版を立ち上げる西和彦もいたという。
無論彼は単なる物見遊山ではなくブースを確保し I/O誌をならべ日本から持ち込んだビデオ・インターフェースボードやライトペンを会場で販売していたという。

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※1978年発行、工学社刊「I/O」誌の別冊表紙。I/O誌は当時こんな感じのマイコン雑誌だった


また日本製としては別途ソード社製の汎用マイクロコンピュータ・システムとサンフランシスコ市のコンピュータ学校が教材用にと改良したNEC製TK-80完成基板が出品されていたらしい。さらにWCCF会報の出展リストを見ると 兼松江商(株)の米国会社が出展していたようだが私の手元にあるWCCF会報の出展リストには前記した I/O (工学社)やソード(株)の記述は見えない…。

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※第1回WCCFの出展社リストが載っている会報


その他、いかにも日本人らしい出来事だが、有名私立大学工学部教授の引率で一流メーカーのエンジニアや企画調査担当者などが超デラックス観光バスで会場に乗り付けたらしい…。彼らはバッジを外して行動し、各ブースを丹念に回って技術資料を収集したという。

さて展示だけでなくテッド・ネルソン、リー・フェルゼンスタイン、SF作家のフレデリック・ポールらの講演も人気だった。
この第1回ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)はそれまでのショーと比較すると3,4倍の規模だっただけでなく会報の発行や運営手法などにおいても新しい時代への扉を開くという大きな貢献を成したのである。

ジム・ウォーレンはこの第1回WCCF開催前にすでに第2回目の開催を企画し決めていた。会場はカリフォルニア州のサン・ホゼだったが、その展示ブースは開催1ヶ月前には全部売り切れだったという。
これまでご紹介したポピュラー・エレクトロニクス誌とAltair 8800の関係のように、コンピュータ雑誌によってマイコンが認知され、ニーズが確立されたとするならウォーレンが当時のマイコン同様手作りで開催したWCCFの成功により、こうした展示会のメリットが知れ渡り、その後この種の展示会が多々開催されるようになったのである。

【主な参考資料】
・「THE FIRST WEST COAST COMPUTER FAIRE」Computer Faire社
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「ハッカーズ」工学社
・「マッキントッシ伝説」アスキー出版局
・「パソコン創世記」TBSブリタニカ

ラテ飼育格闘日記(252)

ラテとの夕刻の散歩時はすでに真夏とは違い、6時過ぎにもなると足下を照らす照明が必要になってきた。勿論これまでもかなり明るい小型懐中電灯を常用しているが問題は雨の場合に大変困る。それはリードの他、傘とライトを持って犬のウンチ処理をするのは至難の業となる。ということで今回は超小型で軽量のヘッドライト型製品を手に入れてみたのでご紹介してみたい。                                                                                 

これまでにも現在愛用している懐中電灯の他にいくつもの製品を手に入れた。キャップの鍔にLEDが埋め込まれているものなどアイデアも含めて使い易いと思われるものを…。しかしそのほとんどは私にとって肝心の明るさが十分でないために実用となっていない。
オトーサンが住んでいる地域は緑が多くワンコを散歩させるのは理想的な環境と思っている。しかし昨今の節電うんぬんの影響もあり夕刻以降は街灯の一部はもとより公園灯はほとんど消されているため文字通り真っ暗な場所が多々ある。

出来ることならそうした場所には立ち入らないのが理想だが日中は決して危険な場所でもなくこれまたワンコたちが好んで遊びたくなるような場所でもある。
そうした場所に入った途端にウンチをすることも多く、それを処理して持ち帰るためには明かりは必須である。
よくすれ違う飼い主さんたちの中には明かりも点けずに散歩させているケースも見受けられるが老婆心ながらきちんとウンチの処理などをしているのだろうかと訝しく思ってしまう。中には携帯電話の明かりで処理している場面に出くわすこともあるがいかにもやりにくそうだ…。

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※大好きな砂場でご機嫌なラテ


ためにオトーサンはかなり明るい小型の懐中電灯を携帯して愛用しているしその性能には満足しているものの、雨の日など両手が塞がる場合には困惑することもある。
なにしろリードを短く保持し傘をさし、明かりを照らして作業をしなければならないわけで時には傘を地面に置き、オトーサンはびしょ濡れでウンチ処理をしなければならないこともある。それに普通に歩いている場合でもバッグから何かを取り出すとか、iPhoneを確認したい…といったシーンもあるわけで、そうした場合にはどうしても照明が疎かになりラテが道ばたの妖しい物を咥えたりするのを防ぎきれないときもあるのだ…。

そんなわけでオトーサンは今年の秋から冬にかけて常用しようと「エナジャイザー(Energizer) エクストリームヘッドライト(HDL-1AA-J)を」という製品を買ってみた。この製品は世界トップレベルの電池・ライトメーカー、米エナジャイザー社の防水高輝度ヘッドライトである。
オトーサンが今般このヘッドライト選んだのは最大60ルーメンの明るさがあること、単3電池(アルカリ)一本で約3~20時間点灯可能なこと、そして水没にも負けない防水性能(IPX7対応)を持っていることがあげられる。
その他、本体は電池を含んで約81gと軽いことやバッテリー部が前面照明部ではなく後部にあるため装着バランスが良いことなどが特徴のようだが、こればかりは実際に使ってみなければ分からない。

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※「エナジャイザー(Energizer) エクストリームヘッドライト(HDL-1AA-J)


エナジャイザー(Energizer) エクストリームヘッドライトを実際に手にしてみると照明部とバッテリーボックスは幅18mmほどの収縮性があるベルトで繋がっているが、ベルトをバッテリーボックス両端の溝に巻き入れてベルクロで止める仕様だ。
ベルクロで止める位置がいくつかある点とベルトそのものが適度に収縮するのでヘッド部に無理なく装着でき、装着感もよい。ちなみにキャップの上から装着してみたがこれがオトーサンの場合は一番実用的に思える。
そしてベルト両外側を黄色いコードが沿っておりバッテリーボックスから照明部へ電源を供給している。

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※ヘッドライトをキャップに装着したイメージ


実際にライトを点けてみると照射範囲はそんなに広くないものの十分な明るさがあるし角度調節もできる。
実際に夕刻の散歩に使ってみたが、身長170cmほどの私がキャップの上に装着して電源を入れ、照明を真下に傾けて使うと視線方向の地面に直径約一メートルほどの光が広がる。勿論距離を遠くすれば照射範囲は広がる…。

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※足下が見えない暗さのとき(左)エナジャイザー(Energizer) エクストリームヘッドライトを点灯した例(右)


肝心の明るさだが暗闇の中、物の認識には十分な明るさでありこれなら十分実用として使える。そして右のボタンを長押しすると明るさが無段階に変化するし左のボタンを押すと2つの赤色LEDが点灯し(省エネモード)連続点灯時間は最大50時間持つという。勿論充電式のエネループ乾電池も使えるとのこと。
とはいえオトーサンの使い方はあくまで常に最大の明るさで使うからこそ意味があるわけだからバッテリーの持ちは連続で2,3時間であれば良いと思っている。なにしろ通常はこれまでどおり懐中電灯を使い、両手が塞がるような場合にこのヘッドライトを使おうと考えているからだ。そして軽いので慣れてしまえば装着していることを忘れるほどだし確かに装着時のバランスはよい。

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※額に十字というか星形の模様が目立つが、なかなか威圧感のある表情だ(笑)


まあ難点があるとすれば些か目立つということか…。すれ違う親子連れなどは「面白い!」と声を上げていたが、なに…オトーサンはそんなことは一向にかまわない(笑)。安全第一がポイントである。

もうひとつの難点は今の時期まだまだ小さな虫たちが飛んでいてヘッドライトの明るさで顔付近に寄ってくる場合があるのでちょっと鬱陶しいことだ。
ともかく「エナジャイザー(Energizer) エクストリームヘッドライト」はオトーサンのようにワンコと安全に散歩するためには勿論、登山、ハイキング、キャンプ、夜間ウォーキングやランニングなどにも大変役に立つのでお勧めである。

エナジャイザー(Energizer) エクストリームヘッドライト HDL-1AA-J

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appletechlab

Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員